イスラエルの神の聖なる日 祭りがやってくる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イスラエルの神の創造された、神が神の子らを呼び出している

今もそして、永遠に祝われ続ける「わたしの記念日」と、神が

人に紹介し、呼び出している、イスラエルの神の本物の聖日、

聖なる会合について書いています。10月2日、水曜日日没から、一連の神の記念日がやってくるからです。

秋の祭りは、未来にイエシュアが来られる再臨と、そしてイエシュアの統治を表す未来預言的祭りです。

最初の到来は、春の祭りの4つで表されて、モーセの五書、預言書、諸書に記されている、天にある贖いの実態が地上でも、証明されたイエシュアの業です。

 

聖書は、その言葉が、聖書の中に最初に使われた言葉を元に、

その言葉に戻り、その言葉の意味を土台にして、同じ意味で最初から最後迄、書かれています。

聖書の最初に使われた言葉のその意味は、黙示録に至るまで、

同じ意味で使われている、この大原則を知って下さい。

先例法と言いますが、クリスチャンの世界の聖書解説は、この

聖書〜神の言葉の事実を、大きく違反しています。

人間が、神が言ってもないことを、あたかも神が言ったように、大衆に解説し続けています。神の教え=言葉を曲げ、破棄し、

終了と言い、そして、聖書に書いてないこと、別の意味、別の

言葉、別の数字に読み替えて、聖書の方を曲げて読んでいるのに、気がついていないのです。その点にまず気付いて下さい。

永遠が、一時的となり、普遍が、変化するとし、シャバットの

7が1となったと言って、実際にそのように実践しています。

 

神の呼び出している、レビ記23章の聖日の全てを祝うことを

異邦人は、神殿崩壊後やめさせられました。

神殿崩壊後、110万に以上のユダヤ人がローマ帝国に殺害され、97,000人のその他のユダヤ人は、奴隷としてローマ帝国に

捉えられました。その後、1)異邦人イエシュア信者と、2)ユダヤ人イエシュア信者、3)メシアを知らないユダヤ人とは、完全にそれぞれの方向へ、別れて行ったのです。

異邦人は、元のルーツ、ヘブライルーツ=神の教えから離れて、その結果、神の創造された記念日を祝わなくなり、そして、

その代わりに、人間ローマ教が作った異教の神々が背景にある、日曜礼拝、クリスマス、イースターを祝うように切り替え、4世紀以降、聖書に記されている神が創造され神の子らを呼び出している聖なる集会〜祭りを祝わう事を完全にやめたのです。

人間が作った日を、聖日、主の日と勝手に呼び、人造の祭りを

祝うことに異邦人は乗り換えた歴史があるのです。

神が、神の言葉や記念日を終了するわけなどない。イエシュアが未来にエルサレムに戻られたら、最初に祝われるのが、仮庵の祭りであり、全世界がエルサレムに上ってその祭りを祝うようになると、預言されています。神が神の教えや記念日を、歴史の途中で終了したというような事は、聖書には、1つも書いていない事であるのに、書いてない事を、書いてあるが如くに語り続けていることに、何も疑問に思わないのは、西洋人、人間が作った宗教の伝統にどっぷり浸り、周りの異邦人が皆それを実践しているから、それが本物と思わされているだけなのです。

永遠普遍であると神が教える神の言葉は、廃れたと、人に平気

聖書ではない教えを教えながら、当時にその口から、神の言葉は完全であり、聖書は絶対であるという聖書に書かれた真実を部分的に語る。

その大矛盾を言いながら、その矛盾に、全く気がついていない、

聖書の中には、存在しない神の教え、裸の王様の服を見せているのです。

 

創世記1:14 神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、

創世記の創造の最初に、神が時を造られた、そして特別な時を

設けていることを、人に教えています。

 

「季節」という言葉は、定めの時〜神が提示した時、神が人と
特別な会見をする時のことを、「モアデイム」とあります。
翻訳では、季節、シーズンですが、ヘブライ語ではモアデイムです。祝いのシーズンという概念で考えると、見えます。
神は天の万象を造られたのは、印のため。神の定めの日のシーズン、祝いの日を人に知らせるために、天の万象を造られたと説明しています。
このモアデイムは、英語の翻訳では、150回程度、「会合、集会」という翻訳がされています。詰まり、神が神の子らを呼び出していたら、人が集まり、同じ目的で神の特別な記念日を祝うからです。
お正月の時期は、1日だけではなく、大晦日、お正月、三が日、その祝いのシーズンの時期、丸ごとを意識するでしょう。
特別な祝いの時期が来る、その準備をする、その祝いの日の意味を皆が考え、話し合って、必要なものを買ったり、準備します。それが、神の記念日で、行われるのです。
神の創造された記念日は、全てイエシュアの業を表すものです。
それを、皆で考え、準備し、その日神と特別な会見をするために
備えるのです。モアデイムは、集会、会合とも訳されています。
秋の祭りは、イエシュアの再臨、到来、イエシュアが世界を統治する準備をする、そのリハーサルをずっと毎年皆で行い、イエシュアの到来を待つ、子羊の婚姻の宴の準備をするように、神が
デザインして教えているのです。
なぜ?そうです。神が神の子らと、神が設けた特別な会見の日に
特別な出会いをするから準備して、その日に備えて会いに来て!
そして神は私達と、祝宴をすると、約束して下さっている、
だから神が神の子らにその日〜祝いのシーズンを準備して!と
神が神の子らに教え、命じているのです。
その神の声〜言葉=聖書を、クリスチャンは、2世紀以降聞いていません。
神がこの日に、特別な出会いをしよう、わたしと会うためにその日を、特別に取り分けて、あなたの暦にも印をつけて、準備をして!と言っているのに、その神の言葉を、知らないから、素通りし続けているのです。
どうして素通り?2世紀以降の教師たちに、神の言葉や記念日はもう終了、異邦人には関係ないから祝うな、生きるな!と教えられ、禁じられ、祝うことをやめたからです。
聖書ではない教え、単なる人間が思いついた教えを、クリスチャンの世界では教師達から教えられ続けてしまった、その負の遺産の代償なのです。神が神の子らに与えている大事な宝を奪われていることに気がついていないだけです。
聖書を読めば、分かるでしょう?神が本当にそう言ったのか?
そんなこと、実は言っていないのか?神は何と言ったのか?
エデンの園の蛇の騙しと全く同じなのです。聖書に、永遠の消えない証拠として、保証として、私達のために記されている。
永遠に祝われるわたしの記念日と、神は人にはっきり何度も何度も教えています!聖書に書いてあるでしょう!
イエシュアが祝われたのは、教えられたのは、レビ記23章の
父が創造された記念日でしょう?いつイエシュアはそれらは、
終了祝うな!と言われましたか?イエシュアご自身を教えている記念日なのに。イエシュアが子は父が言うこと以外やらない!と言われたのは、子とは、父の性質そのものを表す代表だからです。イエシュアの教え、生き様それは全て父の言葉=トラー=
モーセの五書に書かれた教えを、天の解説、天の解釈で教え、
生きた、それがイエシュアの地上での足跡なのです。
 
神の言葉=トラーを否定する教えは、聖書は1つであるのに、2つの源があるものと言っているのです。
2つの蛇口がある。その蛇口からは見た目には、同じ水が出てくるけれど、本質が違うものです。神の言葉に別の教えが混在し、
放出、垂れ流しされているから、純粋な生ける水=神の言葉と
人間の教えが混ざって、見分けられない。本当の水の味を知らない場合には、何が嘘で、何が本当なのか見分けられない。
見かけは、同じ水に見えても、中身は違う、成分が違う性質が違うもの。
聖書だけに、基づき考えてみてください。神の言葉は、神が言われる通り、永遠なのか、一時的なのか?2つにひとつでしょう?
神が一度でも、永遠と言ったら同時に、一時的で終了するものではないのです!聖書理解の原則を大幅に逸脱しているのです。
こんなに明白、シンプルで、誰でも一度聞いたら分かることなのに、神の言葉の性質に対する、こんなシンプルな理解が、欠落しているのです。ユダヤ人には有効、異邦人には無効な教え〜こんな教えは、聖書ではありません!人間が勝手に言っているだけ。もちろん、聖書か大家族全体の生き方が教えられていますから、その中には、女性、男性、兄、弟、親戚、そして一緒に共同体に住まう親戚や、異邦人、祭司達、大祭司に対する教えなど、様々な事がありますが、どの教えも神は人に対して同じ共通の真理を教えているものなのです。
神殿の中に入る時の様々な教えも、実際に神殿に入ることがなければ、適用されませんが、そこで語られる真理は、永遠に人の生きる上で適用さる真理なのです。なぜなら、それらは私達が、
神の中に住まう状態であるのか、その状態、性質からずれているのかを、実際の神殿に入ること、その状態〜神との正しい関係、意識に留まっているのか、いないのか教えているからなのです。
 

家族として、それぞれの器官として、人は一体として機能し

生きるように造られているからです。だから体のどの部分が病んでも、体全体が病むでしょう。

神が伝える1つの体〜一体〜エハッド性を人間が否定しても、神がデザインし創造された本質、事実は変わらないのです。

それが神のデザイン。人間の性質。

同じ土=アダマから、神の言葉により造られ、ハヴァはアダムの体の要素=骨で造られ、全人類はこの一体の夫婦から増え広がり1つとつながっているからです。

 

春の祭りは、4つ。1)過越、2)種無しパンの7日間、

3)初穂、4)シャヴオートです。これらは、全て福音を網羅していることに、気がついて下さい。

贖われ、救われ、新しくされ=マッツア=罪が削ぎ落とされた。

イエシュアの復活の命=初穂に連なり聖霊を受けて、新しい人として、これから成長していく。

一年の終わりの、秋の収穫に向けて、伸びて成長していく。

そして、新しくされた人=花嫁が、神から婚姻契約を受け取った

シャヴオートの祭り。これが春の祭りであり、贖われ救われた人全てに、この事実が当てはまることに、注目して下さい。

これらは、実際に地上で既に起きたことの預言的祭りです。

 

そして、秋の祭りは、これから、未来にイエシュアが到来する

再臨、そしてイエシュアの統治と、永遠にイエシュアの中に住まうことを教えている祭りです。都に上る様子だけでも、神が1つ神に、1つ神の家〜都エルサレムの家に、1つ大家族として、

神の子ら皆を引き寄せていること、絵画的にも分かるでしょう。

祭りは、都上り=ハギムが3つあります。

1)過越、2)シャヴオート 3)仮庵

モアデイムは、神の定めの日〜聖日=主の日。

シャバット、新月、そして、初穂、角笛を吹く日、大贖罪日です。それらは、神の聖なる日です。そして、都上りの祭りは、

ハギムであり、モアデイムでもあるのです。聞きなれないことなのですが、よく考えれば見えてきます。

弟子達が、過越の後、イエシュアが昇天されて、7週後の都上の祭り、「シャヴオート」まで、エルサレムに留まり、その祭りの時を待ちなさいと言われたでしょう。

それはハグ「シャヴオート」で又、エルサレムに上って来るからです。そして、偉大なラビ イエシュアを処刑で失ったこの

痛手は、大きいものです。皆意気消沈としたでしょう。

だから、弟子達は、励まし合い、イエシュアが過越の晩餐で

言われたことを思い出し、次の祭り=ハグ=シャブオートで

仲間と共に留まり、癒される充電期間が必要でもあったのです。

 

そして、春の祭りから、秋は雨が降らない時期です。

ちょうど、仮庵の祭りの時期になると、雲が現れて雨が降って

くる季節になります。

秋のモアディムの一連は、第七の月の1日から始まります。

秋の祭りは、1)ショーファーを吹く日 2)大贖罪日3)仮庵の祭りです。春4つ、秋3つ、全部で7つの神の聖なる集会、

呼び出し日があるのです。この全ての日は、シャバットとして

曜日に関係なく、シャバット止まる日として、祝うように、神がデザインしているのです。7=完了!完全!完結。神が教えているテーマ、真実を人間の教えで見えなくなっていますが、神の

記念日の中心は、シャバットです。完全、完結がテーマ。

この日は、1日だけです。そして、この日は、「叫ぶ、宣言する」という意味の「テルア」と呼ばれるもので、正式な名前が付いていません。この日は、月の第一日目であり、新月の日です。

過越、仮庵はちょうど、満月になる時、15日に日没になります。

レビ記23:24 「イスラエルの人々に言いなさい、七月一日

あなたがたの安息の日とし、「ラッパを吹き鳴らして記念する聖会」としなければならない。

ラッパとは、角笛ですが、他にはどんな時にラッパを鳴らすのでしょう。
荒野での生活の時は、宿営が移動する合図(民数記10:2)、
戦闘に入る合図(ヨシュア6:1−5)、新月、祭(民数記10:10)そして、王の戴冠式(1列王記1:34)では、銀のラッパが鳴らされます。そして、神の祭りの日です。
 
 
続く