イスラエルの神が創造された聖日 定めの日 記念日 呼び出し日 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

これから、10月2日、水曜日日没から、秋の一連のモアデイム=聖なる記念日=神の定めの日=祭りの一連が始まりますので、神が創造された神の記念日〜定めの日〜聖別された神が神の子ら、聖なる民を全員呼び出している日に関して書いています。

 

全ては、神の時、暦、命のサイクルは7を巡りデザインされています。神の聖日=呼び出し日、定めの日は、全てがシャバットが中心です。神が創造されたモアデイムは春に4つ、秋に3つです。7つです。それらの聖書に記されている、イエシュアが教えて祝った記念日なのに、クリスチャンの間では、それらの呼び出し日、聖日がいつか、何なのか、2世紀以降、今に至るまで、

一切、語られない、教えらない、祝われなくなりました。

 

異邦人クリスチャンの世界で教えられていること、もちろん、

イエシュアが私達の罪のために処刑され、死に渡され、復活され

そして、私達はイエシュアの子羊の贖いの血で新しくされて

聖霊を受けたと知って、そう教えています。その部分は、聖書の事実です。でも、残念ながら、一般的に教えられている、

人が作った神学〜思想を通して語る教えは、実は、聖書とは関係ない、聖書には記されていない教え、神が伝えている教えではないものがたくさんあるのです。得に全てが、神の言葉終わりありき、神の言葉を破棄したという人間の教えを土台とした聖書解説であり、それらは、神の言葉=教え=聖書ではありません。

それらは、西洋人=異邦人=人間が作った宗教の教えであり、神ご自身が語られている、神の言葉や教え、インストラクションではありません。

イエシュアの贖いの業、救い、許しは、2000年前に忽然と

現れて、初めて人に伝えられ、教えれらたのではないのです。

この贖いの業は、永遠の中に既に完結していて、どの時代の人もどの人種でも、同じイエシュアの子羊の購の血の実態を受けて、内側に聖霊を受けて生きていた残りの民が存在していること、

それが聖書に書かれていることを、殆どのクリスチャンは読み取っていないと思ます。

古代、イエシュアが来られる前は、様々な方法で、同じイエシュアの完了の業を教えられたと書いてあります。

どんな方法で?預言者を通して。ヘブル1:1それら預言者が

語られたことが、聖書になっているでしょう。

モーセの五書、諸書、預言書。これら全て、預言者により書かれて、聖書の中で聖書と語っているのは、全て、モーセの五書、

預言書、諸書のみを指して書かれているのです。

その中に、神の完全な教えが書かれている、福音が書かれている

からです。そして、福音書以降は、モーセの五書、預言書、諸書の使徒たちによる、後書きなのです。

1世紀、福音書以降の箇所に記され、登場している人は、誰も

福音書〜黙示録を読んでいません。パウロの書簡は特定の群れの

人々が読んだだけです。1世紀後半以降〜2世紀最初に書けてに、福音書以降が、使徒達により書かれたからです。

 

得にモーセの五書の中には、イエシュアの完了の業の全て書いてあります。神のモアデイム=定めの日=記念日を通して、エルサレムの神の家、その前は、移動式ミシュカン=神殿を通して、

その中で、実際に五感を通して体験的に、イエシュアの業の全てを知ることを、教えられていたのです。それらの神の教えの完全版が、モーセの五書には記されています。

それらは全て、イエシュアの業を表し、教え、そして皆が生きて

実体験学習をするように、イスラエルの神であるアバご自身が

デザインされたものだからです。

クリスチャンの教えでは、2000年前に、急に神の業〜子羊の贖いの血が有効になり、初めて罪許され、初めて人の内側に聖霊が住まうようになったと教えている、考えているでしょう。

そうではないのです。永遠から有効。同じ。エデンの園から、

同じイエシュア=救い、イエシュアの贖いの業が教えられていたのです。最初から同じ。何も違いがない。永遠の中、この世の礎が創造される前から、私達も既に神に選び出されていたと、理解不能なことが書いてある、それら神の言葉は、信仰により受け取る事実です。

過越で、家の戸に屠った子羊の血を塗った人達、イスラエルと

少数の異邦人、エジプトでは羊は忌み嫌われる動物なのに、それら子羊を自分の家の前に起き、過越の時にイスラエルの人と同じように、神に教えられた通りに屠り、神が言われた通りに、鴨に屠るった子羊の血のを塗った人達の家は、死が通り過ぎた。

最初から、同じ福音です。

2000年前の、過越の祭りの日、ちょうど、子羊が屠られる

時間に、イエシュアも処刑されたのです。

イエシュアがエルサレムの神殿に、ロバの子に乗って入った日は、ベツレヘムから連れてこられた、過越の祭りで屠られる羊たちが、神殿に入る時と同じ時でした。

全部、ピッタリ、神のされた業は、神のデザインされた聖日=

モアデイムと、重なっていることに、気がつけるでしょうか?

神は、イエシュアの業、特別な業を、神の創造されたモアデイムに行った、そして、これから未来に行うからです。

イエシュアは過越の祭りの日に、過越の子羊となって、地上で

その事実を証明して下さったのです。他の日、普通の日ではない。

神が定められた、聖別された記念日は、最初の到来、そして

再臨を表し、教えているものなのです。

過越の日に、イエシュアは、贖いの子羊として屠られたのです。

偶然ではないのです。神が神の記念日を創造されたのは、

全て、イエシュアの業を表す預言的モアデイム=祭りだからです。

この過越の日から、7日間が、種無しパンを食べる祭りの日で

翻訳では、「除酵祭」と書いてあります。パン種は罪を表すものです。私達は、イエシュアの業により、パン種=罪=ハメッツが

削ぎ落とされて、マッツア=種無しパンいらないものが削ぎ落とされた状態になったことを教えています。

パウロも1コリント、5と11で、過越の祭り、種無しパンのこと、新しくされた人の実態を、教えているでしょう。

パウロはイースターの話など、一度もしていません。

この7日間の種無しパンの真ん中の日に、「ヨム ビクリム」という日があります。「初穂を捧げる記念日」です。

この日に、イエシュアが復活されたのです。偶然ですか?

いいえ、この日は、新しい命、復活の命を表す神のモエッド=

定めの日=聖日だからです。

この日、早朝、日の出に、大祭司が大麦の初穂を刈り取り、神の前に捧げる儀式をするのです。大麦の初穂をささげ、秋の大収穫を祈るのです。同時に、イエシュアはこの初穂の日に、大地から切り取られて、復活したのです。エデンの園で、人が神の言葉を無視して食べてはダメ!と言われた知識の実から、食べました。

人は食べてはダメ!と神から禁じられても、禁じられたことを

神の言葉、教えは無効になったと勝手に言い続けて、神が罪とされることをやる、食べる!同じ罪を続けています。

その結果、人が呪われたのではなく、大地が呪われたと書いてあることに、注目してみてください。

呪われた大地。きよめられ、新しい命が復活する。イエシュアは私達の呪いとなって、罪となって全てを負い、そして復活された事実と重なるのです。

 

神のモアデイムは、全て、イエシュアの最初の到来と、再臨を

表しているものです。私は長年、イエシュアを救い主と信じながら、聖書に書かれている神の教えを知りませんでした。

それは、宗教が作った教えで、神の言葉を覆い隠されて来た悲しい結果なのです。でも、人の教えではなく、聖書に戻る時に、

聖霊を通して、神は神が人に伝えている永遠の真実、真理を教えてくださいます。聖霊=言葉だからです。これを、潰そうとサタンはやっきになり、エデンの園の最初から、神の言葉を潰す、

壊す、歪める作戦をやり続けています。神の言葉=遺伝子、

設計図を歪めれば、人を破壊できることをサタンが知っているからです。

そして、神の性質ではない、別もの=宗教の教えの生き方を、

人にさせることが、できるからです。

種無しパンの祭りから、7週間、7回のシャバット、穂を数える

7週を経て迎えるのが、春の最後の祭り4番目は、シャヴオートです。

この時に、天がシナイ山に降りて来て、神の声を皆が直接聞き、奴隷であった人達が、エジプトから贖い出されて花嫁とされ、

神のもの、聖なる民とされ、正式に婚姻契約を受け取る祭りの日がシャヴオートの祭りです。ペンテコステ=第50とギリシャ語では言いますが、神の花嫁となった人が正式に、婚姻契約を受け取る祭りが、シャヴオートの祭りなのです。

モーセの五書=律法とクリスチャンは言いますが、契約の意味を理解していないから、そんなことを言うのです。

これは、古代中近東の条約をまず理解すれば分かります。

そして、法的に保護されている、保証されている、口約束ではなく、神ご自身が永遠に破らない契約〜婚姻契約を与えたという

意味を、全く教えられていないのです。法的に正式に婚姻していない、夫と妻の関係にない、そんな無責任な関係、妻として望みますか?何の法的保証も、責任も、意味もない関係。そんなこと、人に対して、神である方はしていないのです。法的に根拠、証拠のある、婚姻契約を与えた。花嫁となった人達は、神の家に住まうならば、神が教える聖なる民の生き方をする。条件付きなのです。花嫁とされたのは、神の一方的な恵によるもの。信仰により受け取るしかない。でも、花嫁とされた人は、以前とは違う

生き方を、神の中でする!これがクリスチャンの世界では

教えらていないのです。律法=婚姻契約=神の教え、指導、インストラクションは廃れた〜!と聖書ではない、人間の教えが浸透し、西洋教父が編み出した教えを、異邦人クリスチャンが異口同音、神の言葉に敵対するスローガンを言い続けて2000年。

神の言葉を生きるとは、そんなに複雑なことなのでしょうか?

神が与えた婚姻契約書に対して、律法という異邦人思考回路は、聖書とはズレています。

人間の世界でも、口約束だけでは、何も根拠がないでしょう?

神は、神の言葉をご自身で刻み、そして、婚姻契約を結んだ儀式を、天と地を証人とし、70人の長老と、天の中=シナイ山の上イエシュアを囲み祝宴し、そして、この契約が存在する証拠として、印を与えています。それが「シャバット」であると、神が伝えているのです。

よく考えていくと、異邦人の世界では、神の言葉ではなく、人の思想を教えられていることが、よく見えてきます。聖書に書いてない教えや、記念日を信じて実践しています。

それは、聖書に書かれている神の言葉を理解していないことでも

分かります。

異邦人の教えの世界では、神の言葉を「律法」という不適切な翻訳を通して、プラス、神の言葉に古い、悪い、呪い、廃れたなどという、定義まで添えて、神の言葉に対する敵対心を植え付けられ続けて来ました。神が呪いの律法から、解放するためにも、

イエシュアの購い救いを与えたなどと、とんでもなく、神の言葉を勘違いした、聖書から逸脱した事を、言い続け、教え続けて

2000年が経つのです。

これらの思想、教えは、聖書ではなく、異邦人教父、教師が編み出した教えであり、そしてローマ帝国の教え、勅令で、神の言葉=モーセの五書を、バン!生きることを禁じて自分たち独自の

教えを、聖書の神の言葉の中に混ぜた新しい教えを作ったのです。異教神の祭りが裏にある祭りと共に便乗して、日曜礼拝〜

太陽神の礼拝日、ローマ皇帝崇拝の日、イースター〜多産の女神の祭り、クリスマス〜ミトラ教の祭り、ハロウイン〜ケルト人、シャマインの祭りなどに便乗して作った人造の祭りなのです。

それらは聖書の、神の祭りではありません!神の聖日でもありません。神が人を呼び出している日でもありません。神の定めの

モアデイムでもありません。

聖書を読めば、それが嘘か本当か、はっきり分かります。神の

呼び出している定めの日=モアデイムの完全版の暦は、レビ記

23章に記されています。

聖書を読んで、個人個人が、神が伝える永遠の事実を確かめれば良いのです。

勝手に人間が、神の時や教えを変えてしまった結果、クリスチャンは、何が本当か、分からないままになっているのです。

聖書が手元にあるでしょう。聖書に戻ろう!と聖書を掲げながら言うならば、その言葉の通り、聖書だけに戻る必要があることに、気がついた多くの異邦人、ユダヤ人も世界中に今いるのです。

クリスチャンの世界の聖書解説は、原則を違反しています。

聖書を聖書で読み解くのではなく、聖書を人〜西洋教父、教師

が作った思想で、読み替えているからです。

そして、聖書の原則は、その言葉が聖書の最初に書かれたことを土台にすることです。その言葉の使われ方は、聖書の最後まで

同じであり、変わらないからです。愛と言えば、何を根拠に愛と言っているのか。永遠と言えば、永遠。変わらないと言えば、変わらない。それを平気で塗り替えているでしょう?

 

神が伝えた意味を、その言葉が何を意味して使われているのか、その通りに正しく理解する方法は、最初にその言葉が聖書で使われたところに戻ることです。先例法と言います。

聖書は、途中で神が伝えた言葉の意味=定義が変わらない!

異邦人教師たちが、主張するように、神の言葉の意味は変わりません。この時点で、異邦人クリスチャンの教えは、聖書ではなく、人の思想を土台にして、語っている部分が多数占めていることに気がついてください。土台=神の言葉の土台=モーセの五書を曲げ、それらが終わりという、仮説前提で、全てを解説しているそれが大元の問題です。

害虫を見つけたら、その虫だけ退治していても、意味がありません。元を絶たないと、ならないのです。「害虫の巣」を根こそぎ破壊する。今のイスラエルと同じです。テロリストの拠点=武器=戦闘拠点を破壊しないとならないのです。

神の言葉の土台を歪め、覆す人間の教え=モーセの五書は廃れた

この諸悪の根源である、人の思想の土台を根こそぎ除去しないとならないのです。これこそが、全ての問題の根であり、エデンの園から同じ神の警告なのです。神の言葉を曲げたから、罪が全世界の人の中に今も浸透し続けていること、ちゃんと考えないとならないのです。

エデンの園と同じ問題。神の言葉に嘘を混ぜた!それです。

人の教えなど、神の言葉に混ぜてはダメ!という、理解がない人には、聖書を正しく捉えることは不可能です。結局半分は宗教=人間の教えを語り続けてしまい、それは本物ではないからです。

 

続く

 

 

 

初穂 復活の命、イエシュアに連なる人々を収穫で表しています。