神がデザインし創造されたイエシュアの業を表す預言的記念日祭り | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

春の最初の祭り、過越の祭りは、都上りの祭りであり、同時に

都上りの祭りは、収穫祭でもあります。

最初に捧げられるのが、「大麦」です。

そして、大麦の初穂〜大地から出る新しい命〜復活の命の実態

である大麦の初穂を捧げてから、7週間過ごす。この7週の間

7回のシャバットが祝われて、穂を数える7週を過ごすのです。

 

新しくされた人が成長する過程です。新しくされた事実を、考えて過ごす強化週間を、神がデザインしているのです。

 

詩篇1の冒頭にかいてあるのは、トラー=神の言葉、婚姻契約の実態を生きる命のサイクルを生きることを教えているのです。

 

詩篇1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。

1:2 このような人は主のおきて〜トラーよろこび、昼も夜も

そのおきて=を思う=瞑想、思い巡らし考える。

<この赤字の箇所は、ブ トラット イエホバ 神のトラーの中で、考え、喜び生きることが書いてあるのです。>

1:3 このような人は流れのほとり=イエシュア=神の言葉に植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、

そのなすところは皆栄える。

 

神の命のサイクルの時を生きる中で、神の言葉を考え続けて神の言葉に根付いて生きる人、神の定めの時のサイクル〜モアデイムの中で生きる人は、御霊の実がなる。神がその人に大事なことを教え、そして神が出会いその人を成長させるからです。

神が創造された神のデザイン通り、神の時の中に生きるなら、

その木は実がなる。神の言葉を無視して生きるなら、成長しない。ずっと中身は同じままで、体は老いる。

そして、春の最後の祭り、ハグ〜都上りの祭りが「シャヴオート」の祭りです。

クリスチャンの中で、神が創造された記念日を唯一語られる、

話題になるのが、この「シャヴオート」です。

実際には、その祭りは、クリスチャンは祝っていないと思います。その祭りの意味も教えられていません。

使徒2章で、聖霊が、人類歴史上初めて降って来た日だ〜と、

クリスチャンは教えられそう考えている、イエシュアが昇天されたから人の中に初めて聖霊が住まうようになったと考えているでしょう?

シナイ山のシャヴオートの方が、もっとインパクトある、出来事でした。天が直接降りて来て、神が直接人々に語りかけた!!!

だから、神を、よく知らない人は恐れたのでしょう。

そして、イエシュアがシナイ山の山頂に降りて来て、70人の長老と、婚姻契約を結んだ暁の喜びの祝いの宴会までしているのです。すごいでしょう。

 

ちゃんと聖書を読めば、どの時代の残りの民の中にも、聖霊が住まい、同じ救いを受け取って、神との関係の中にあり、神と語りあい、神の言葉で教えられ生きていた事実が記されているでしょう。それらの人は直接神=イエシュアと対話したりもしているのです。

ある時期に、ある特別な事、業を神が表されて、なされても、

それで神の性質や、神の救いや贖いの方法が変わる!という、

そのような思想は異邦人思想なので、削除します。

神は自由自在!なんでも出来るお方です。時空や人に制限なんてされません!ロバに対してさえ、ロバの目を開いて、人が見えない天の御使を見せて、そして人間の言葉をロバの口から語らせて神のメッセージを、人に伝えることも出来るのですから。

預言的祭りでは、神は不思議なこと、超自然的なことを行なっていますが、それで神の業や、神の性質が変化したのではないのです。

神は昨日も今日も永遠に同じ!怒りの神像も恵の神像も、みんな

異邦人教父達が考え出した教え、ローマ化けしたイスラエルの神像です。律法時代、聖霊時代も同じ。聖書とは違うことを、異邦人教師達が語り続けて、考えて、人に教えてしまっているから、聖書に書いてある事実が読み取れなくなってしまっているのです。

シャヴオートとは、週〜シャヴア、複数〜週〜シャヴオートという名前が付いています。7日間を7回過ごして、49日が経った

後が50日、だからギリシャ語では、第五十=ペンテコステという名前が付いています。

この祭りは、出エジプトして、ちょうど同じ期間、7週を過ぎて、シナイ山に到着した時と同じです。

そして、エジプトから奴隷脱出して、子羊の血で贖い出された人たちが、皆、神から初めて契約を受け取るのです。

贖い出される前に、神の契約が与えられたのではないことに、

注目してください。それは、クリスチャン達が、律法を生きて

義とされる!などという聖書とは関係ない教えを語り続けている、それは聖書に書いてある事実とは全く異なるものだからです。そしてその契約は、ただの契約ではなく、婚姻契約なのです。神の花嫁とされた人が、神の家に住まう、その全ての詳細を神〜花婿から教えられている!このような理解がない、神の教えは律法だ〜悲しい教えをされているのです。花嫁とされた光栄

祝福、そして花婿から、花嫁としての生き方を、1から教えられる、それがどうして、律法になるの?変でしょう。

婚姻契約は、異邦人が語るように「律法」などではありません!

律法という不適切な誤訳翻訳は、神の言葉を指して語られるものではありません。神の契約は「ブリット」であり、律法の裏にある本当のヘブライ語は「トラー」=神の教え、インストラクション。という意味なのです。律法などという意味は神の言葉や教えを指して、1度も聖書では使われていない言葉なのに、その翻訳が、残念ながら、浸透してしまっているのです。

翻訳は元の意味を隠してしまう性質があります。

だから、翻訳だけを頼りに考えていたら、神の言葉の本当の意味は不確かで分からない、本当の意味が埋もれて、人に誤解を与え続けてしまうことが、分かるのです。

そして、このシャヴオートでは、「小麦」が捧げられるのです。
小麦の収穫を祝い、この最上の小麦に、今度はパン種を入れた
パンを、神の祭壇に捧げるのです。
この最上の小麦にパン種を入れて捧げる意味は、イエシュアの
要素=エッセンス=種が入れられた人を表しているのです。
要らないもの=罪=パン種が削ぎ落とされた人を、過越で教えられ贖い出された花嫁に、正式に文字で記された婚姻契約=トラーを与えられたのです。
 
イスラエルの神は、神の創造されたモアデイム〜定めの時〜人と
特別な会見の日を設けている日全てを通して、イエシュアの業
福音の中核を教えています。実際にその祭りの意味を知り、実践して祝うことを続ける人たち、川のほとり=イエシュア=神の言葉にうわり生きる人には、季節が巡ると神の教えることが、
より深く理解できて、神のみ旨通りを生きれるようになる。
年輪が毎年増え、強くなる。そして実が毎年たわわに実るようになると教えているのです。
イスラエルの神には、神ご自身が創造された記念日があり、それを通して、人に新しい人として生きる実際のレッスンプランを
それぞれの人に対して設けているからです。
人間主体〜神が創造されたものではなく、人間が考えたものを
実践する、それこそが、神をないがしろにしている、明らかに分かる証拠でもあるのです。気が付かないとならない。
神は人が作ったものなんて、ありがたくもなんとも思っていない。むしろ、神が伝えた通りに生きて!とずっと言い続けています。神は人に、神の言葉を曲げて別物を編み出す人に、よくぞ考えた〜なんて、褒めない。
神は、神が言われる通りにして!と言われている。
神の言葉が本物であり、それがDNAであり設計図。遺伝子組み換えするなかれ!神の領域に踏み込むなかれ!
神が言われた通りをしたら、神の意図通り、天が地に現れ出るからです。
神の声の下で、神の声の中で、神の声を聞くなら、神の言うことが理解できて、神の意図通りを生きることが分かってくると
教えているのです。それを人間が無視するから、何が本当なのか分からなくなって、宗教の教えで、空回りしてしまうのです。
原点に戻る。どうして、神が言われることを人が退けて、人間主体、人間至上主義、人間が判断して神の言葉や考えを仕分けて良いなどと考えているのか?それ自体が異常事態です。それは、神の言葉は、古い、悪い、呪い、律法、それらをイエシュアが無効破棄したなどとと教えられて来たせいなのです。神はそんなこと教えてなどいません。
 
狭き門〜神が伝える通りを生きる。広き門、大衆受けする宗教の教え、人の教えを生きる。
 
春の祭りが終わると、今度は、秋の祭りに向かうのです。
この時期、春から秋の祭りまで、イスラエルでは雨が一滴も降らない乾季になります。こんな体験日本ではしませんよね。
長いこと、一滴も雨が降らないのです。日本では想像できませんが、真夏でも雨が降りません!野外でイベントや結婚式などを
プランするには、雨が降らないという条件はありがたいですが、実際にイスラエルに住む場合には、夏の時期、水が枯渇する、
人も水を飲まないと、危険な状態になります。
すぐに脱水状態になるからです。イスラエルの土地自体から、
神は色々なことを人に教えています。
生ける水〜イエシュアなしに、人は生きられない。谷川の鹿が川の水を求めて出てくるという場面は、イスラエルにいたら、本当に理解できます。カラカラ〜。
南部、ネゲブのエンボゲックやエンゲデイなど、カラカラな大地、でもその中に湧き水〜オアシスがある。
その雨が次に降る時期がちょうど、仮庵の祭りが来るあたりなのです。その時期になると、大地に不思議な植物が生えて来ます。
ニョロニョロのように天に向かってまっすぐ伸びる植物。
 
秋の祭りは、第七の月の1日から始まります。数字の7に注目!
注意して聖書を読むと、全て喜び祝うとは、神のモアデイムに
関して、賛美し、歌っているものです。
この日は、ヨムテルア、ショーファーを吹く日から始まります。
 

詩篇89:15 祭の日の喜びの声を知る民はさいわいです。主よ、

彼らはみ顔の光のなかを歩み、

 

テルア〜角笛を吹く、叫ぶ、世界へ宣言する日!

この日は、王の戴冠式を予告させるものでもあるのです。

王の到来を告げる角笛の音、注意喚起!王の到来を準備せよ〜!

 

ここで、復習してみます。

春の祭りの内容は実際に、既に地上で起きた出来事です。

1)過越〜出エジプト〜子羊の血の贖い

イエシュアは過越に処刑され、初穂の日に復活された。

イエシュアを通して贖われた人は、義とされ、新しくされ、聖霊をいただいている。

そして、贖われた人〜花嫁とされた人達が、「シャヴオート」で、婚姻契約を渡され、その後、今この世の旅路を、花嫁として、神の中に住まい、聖霊も私達の中に住まう。朽ちる体、移動式神殿だけれど、もう私達の現実は、天の中なのです。

 

過越から、秋の祭り迄、イスラエルが出エジプトして約束の地に入るまで、これらは、並行していて、贖われた人全て〜私達は

イエシュアのものとなった後、この地上の旅路を歩み、やがて

約束の地〜次の時代に移行するでしょう。

それを、教えているのです。地上の旅路〜荒野の旅路の訓練。

同じなのです。

約束の地に入る〜次の時代へ行くには、肉のまま、生まれつきのままでは入れません。この世の旅路の、地上の訓練、新しくされた人=聖なる民となった人を生きる訓練が用意されているのです。

秋の祭りは、これから未来に起きる、預言的祭りです。

イエシュアの到来、王の戴冠式、大贖罪日、そして仮庵〜イエシュアが統治される世界に皆が永遠に住まうこと!

これから起こる未来の預言的祭りの一連が、秋の祭りで

表され、教えられ、毎年生きて準備するリハーサルをさせられているのです。

神のモアデイムは、全てイエシュアがテーマなのに、クリスチャン達は、それを忘れるよう、捨てるよう、祝わないように教えられてしまった悲しい暗黒の歴史があるのです。西洋教父達、教師達の発案と、ローマ帝国=異教神上がりの思想を持つ皇帝のせいで、神の言葉を退け、捨てて、生きることを禁じた!!!

1世紀〜イエシュアが教えた教え〜トラー、イエシュアの天的な神のトラーの生き方とは、遠くかけ離れてしまって、神の言葉と神の記念日を捨てたから、聖書に記されている事実、神が伝えている教えなのに、こんな解説をしないと通じない、いや解説しても通じない状態になってしまったのです。

 

ヨムテルア〜「王の到来を宣言する、叫ぶ」日から、10日後が、ヨムキプル、大贖罪日です。クリスチャンも再臨を信じているでしょう。でも私達は地上から消えません!

現実逃避はありません。天が降りてくるのです。

この大贖罪日で行われる、神殿の中でやる大祭司が行った一連のことを、理解すると、イエシュアの贖いをそのまま表している儀式であることが、分かります。

古代の人は神殿がある時代、体験学習できる神殿で、イエシュアの贖い、到来をしっかり教えられていたことが、分かる内容です。これは、これから来る神の記念日、祭り、1つ1つのモアデイムに関して書く時に、大贖罪日に関して詳しく書きたいと思います。

 

続く