神が創造された定めの日 モアデイム ハギムの全てはレビ記23章に記されている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

現在のイスラエルの様子は、オンタイムで世界に流れています。

去年の仮庵の祭りの最後の日、祭りの最大の日のシャバットの朝

10月7日に、イスラエルはテロリストに襲撃されました。

それから、もう1年もこのような状態が続いています。

 

世界がイスラエルを、無差別に理屈抜きに攻撃する理由は、

イスラエルの神と、イスラエルの神のイスラエルに対する契約〜神の約束、預言の実現、未来にイエシュアが世界を統治する事を、何としてでも阻止したい敵〜神に敵対する〜サタンが、最後の悪あがきをし続けているからです。

このトピックは、別の話題なので、ここでは今書きません。

今年2024年10月2日水曜日の日没が、神のモエッド〜定めの日、ショファーを吹く日がやってきます。

この日から、一連の神のモアデイムが始まり、ハグ〜都のぼりの祭りの仮庵の祭りの7日間が始まるのです。

 

世界には多くの民族が存在します。

そして、多くの宗教が作られています。

世界はイスラエルの神=聖霊と、異教の神々=悪霊、この二つに分かれています。シンプルな事実!神々は多くあれど全部、聖霊以外の悪霊だからです。だから、別物の教えと混じるな!と

神は厳重に警告しているのです。別の霊=悪霊。

異教の神の代表は、エジプトの太陽神、ラーで表されています。

10の災いは、エジプトの神々に対する1つ1つの裁きでした。

そして、最後の2つは、太陽神への裁きと、そして、一番最後は

エジプトの王への裁きでした。

この意味は、エジプトの王は、エジプトの神より偉大であるという、主張を完全にイスラエルの神が裁いたのです。もちろん、人間はイスラエルの神に創造され、神の被造物にすぎないのです。

人が神の上に座る。これを人間はずっとやっているからです。

どういう事でやっているか?人間が神の言葉を勝手に否定し、破棄し、神に対して物申すという事をしていることに、気が付きませんか?人間主体、人間が考えて、神の言葉を仕分けてよい、

これが異邦人クリスチャン教師の主張なのです。

神が言われたことでは無いことを、やる!従うとは、神の言葉を聞く〜聞いて理解したら、その通りに行動する、それが従うというヘブライ語の本当の意味=聞く=シェマです。

でも宗教の教えは、エデンの園の蛇の誘惑と同じ、半分本当、

半分嘘〜神の教え、言葉に別物の声、人の思想のまぜものをすることで、別の教え=宗教を作り上げる、それが宗教の本当の性質であり、人の根本的な問題なのです。

裁きとは、悪い響きに聞こえますが、全く逆です。

イスラエルの神の裁きは、義、正義、平和、公平をもたらすものです。

今の世界、急に闇が表に現れ出てきたことに、普通の人でも気が付いていることでしょう。トップを牛耳る人達こそが、実は悪の温床で、好き放題している、人から搾取し、富を独り占めにしている、人を破壊する、神のデザインとは異なる悍ましい行為をどんどん浸透させようとしている。とんでもないことを、歴史の中でずっとやって来た、今もやっているのです。

でも、それももう少しの辛抱なのです。

悪が支配する世界は永遠に続きません。終わり!が必ず来る。

悪を持って身を固く立てることはできない。どんなに富を持ち、権力を握っても、まことの命を持たない人は、世界でもっとも

惨めで、最も貧しい人達だからです。最後には全てを失うからです。しかも、神の性質に造られたのに、本来の生きかたができない、しない〜損失です。祝福を失った生き方です。

この世のこの時代に生まれて、今ここに生きて置かれているのは、地の塩、世の光として、イスラエルの神の真理を世界へ生きて伝える灯台の役割を、残りの民一人一人が与えられているからです。

人の思想や教えが混じった宗教の教えは、神の教えではありません。

イスラエルの神の教え=言葉は、宗教ではありません。

創造主は、人に純粋な神の言葉〜人はどう生きて、何を生きないのかを教えているだけです。

未来にイエシュアが来られたら、それら宗教の教えを売る商人は

神殿から消えるとあります。

 

ゼカリヤ14:21 エルサレムおよびユダのすべてのなべは、万軍の主に対して聖なる物となり、すべて犠牲をささげる者は来てこれを取り、その中で犠牲の肉を煮ることができる。その日には、

万軍の主の宮に、もはや商人はいない。
 
この預言書にもある通り、人間が作った宗教の教えは終わる時が
来ます。
神の言葉〜モーセの五書を否定した思想も、イスラエルの神ご自身がこれまで!と終わらせる時が来ます。神は神ご自身の言葉を終わらせた宗教など人に教えてなどいないからです。
 
1世紀当時の人々、未だ西洋思想宗教ができる前の、聖書の世界だけで考えて下さい。
そこには、トラー=モーセの五書を否定する教えもない、日曜
礼拝もない、イースターもクリスマスも作られていない。
聖書に書かれているのは、100%モーセの五書の世界。
1世紀当時のユダヤ人と少数の異邦人達が祝っていたのは、イエシュアや使徒が教え、祝っていたレビ記23章にある、神のモアデイム〜定めの日、記念日です。
 
クリスチャン達が、イエシュアや使徒達、当時の人々やイエシュア信者達が祝った記念日を祝わなくなったのは、2世紀以降〜
完全に祝われなくなったのは、4世紀以降、ローマ帝国と、カトリック、西洋教父達により、モーセの五書にある、神の教えを生きること、神の創造された記念日を生きることをやめさせる法律を作り、禁じたことによるのです。
人間が、神の教えを奪い、神の創造された記念日を、信じる人から奪ったのです。
 
それに気がついた人達は、神の言葉に戻っているのです。
それが世界中で今起きているのです。
多分30年前、いや20年前でも、クリスチャンの教えの世界で
シャバットや過越、仮庵などという言葉さえ、聞かれることもなかったのです。
それよりずっと以前も、アメリカでも、そんなこと聞いたことも一度もない、聞かれない、誰も知らない。クリスチャン教会の中で、誰一人、聖書の中に記された真実な教え〜神の言葉が廃れた、異邦人には関係ないという教えではない、ヘブライ聖書に書かれた純粋な神の言葉や教えや、神が創造された記念日を教えて祝うことなどして来ませんでした。
私達異邦人は、西洋教父、教師達が編み出した教えと、そして彼らが禁じた神の言葉=モーセの五書=トラー=婚姻契約に記された生き方を禁じられ、神の言葉は異邦人に関係ないなどという、別の声を聞かされて続けて来てしまったのです。
それらの西洋教父達の教えや神学教理は、神の言葉から意識を
逸らせるものであり、現実に、神の言葉は廃れた、神の言葉は
重要ではない、異邦人には関係にない、生きる必要がないと、
多くの人達、得に教師達の口から、そのような教えが主張され、浸透してしまったのです。
神が自分に与えた宝を奪われている、そのことにイエシュア信者が加担しているとも知らずに語り続ける教師達。
この負の連鎖は、聖書=神の言葉に戻る場合にだけ、断ち切る事が出来るのです。聖書ではない、不真実な教えの方を破棄する。神が与えて下さった生き方、宝を取り戻そう!イエシュアが教えた、シャバットの醍醐味や、祭りの幸いな体験、神との特別な
出会いを取り戻すことができます。
 
日曜礼拝、イースター、クリスマスは、西洋宗教を考えて作った西洋教父達が作った祭りであり、そして、彼らが神が創造された
記念日=レビ記23章を祝うことを、法律で禁じた張本人達です。この事実から、目を逸らさないで考えて下さい。
律法は廃れたから、イエシュア昇天されるまで祝われていた記念日は廃れたと考えているなら、それは聖書=神の言葉を信じないで、完全に人間が作った宗教の教えを信じ込んでいるのです。
 
福音書〜黙示録に書かれているのは、シャバットを祝い、新月を祝い、過越の祭りを祝ったこと、シャバットを祝う、イコール、レビ記23章の全部のモアデイム=定めの日の記念日を祝ったという意味なのです。
日本人でお正月を祝うなら、年越しの準備、大晦日、年越しそばを食べて、元旦にお屠蘇やお節料理を食べて、三ヶ日を祝うと
誰でも言わなくても、分かっていることと同じです。
そして、イエシュアがエルサレムに戻られたら最初に、全世界の人々を迎えて祝う祭りは、仮庵の祭りと預言されています。
聖書を正しく読めば、意味が理解できます。
 
詩篇89:15 祭の日の喜びの声を知る民はさいわいです。主よ、
彼らはみ顔の光のなかを歩み、
 
これは、祭りのショーファーの音を知る人は幸いという意味です。音を「テルア」とヘブライ語で書いてあります。
テルア〜 告げ知らせるというでしょう。
日本語でも、それです。叫ぶ!
これから、来るヨムテルア、角笛を吹いて、神の到来を知らせる日の祝いのこと、これから来る一連の秋の祭りのことです。
「祭り」と読んで、単なる祭りで、それらが何かクリスチャンは何の祭りか、教えられてはいないから知らないでしょう。
この箇所を書いた人、読んだ人達は何が神の祭りであり、それらが何かを理解して読んでいるのです。
神が、神の子ら、贖われた人々を永遠から永遠に呼び出して代々祝うと教えられている記念日は以下です。
 
全ての神の記念日、時は、7がテーマです。7は、完全、完璧、完了を表すものであり、神の贖いの業は完全であり、私達はこの世の朽ちる体の中に在って、今イエシュアの命をもらった新しい人とされていることを教えているのです。
神が天の万象の万象を造られたのは、神のモアデイム=神の定めの日を司る、その「印」として造られたとヘブライ語では書いてあります。モアデイムを、季節と訳しています。
一年の命のサイクル、時は、全て神のモアデイムを巡っていくものだからです。
全ての記念日の中心は、シャバットです。第7日目のシャバットそして、月1回の新月。新しい月が現れ出るのではない。
モアデイムとは、定めの日と言う意味です。
そして、もう一つ、ハグ、ハギム(複数)があります。
ハギムは、都上りの祭りです。それは3つあります。
都上りの全ての祭りは、「収穫祭」であり、収穫にまつわる記念日です。収穫を通して、イエシュアに贖われた人、新しくされ、成長し、そして最後には全て神に贖われた人が集められることを
表しているものです。
異邦人クリスチャンの間では、聞き慣れない、祝ったことも、
体験したこともない祭りなので、じっくり、ゆっくり考えながら
読んで頂けたらと思います。
 
1)春の都上りの祭りは、聖書の暦の第一の月、ニサンの15日。過越の祭りです。
これも、第一の月の1日から、7日間を2度繰り返した後の日
第15日に来ます。14日の日没は、既に15日の始まりです。
その日が、過越の日であり、その日の夜に夜を徹して、過越の祭りの晩餐の祝宴をするのです。夜に突然エジプトを脱出したからです。これをイエシュアも弟子達も毎年行い、そして実際にイエシュアはこの日、過越に処刑されたでしょう。それは、神の祭りは全て地上でのイエシュアの業を表す預言的祭りだからです。
 
この晩餐の中で、イエシュアがマッツア〜種無しパン〜砕かれた
イエシュアの体が砕かれて、種無しパン=マッツアは、パン種=ハメッツ要らないものが削ぎ落とされた事実を教え、そして
4つの杯、出エジプト6:6−7に記されている、エジプトの奴隷状態から贖い出された通りに、人は偽の神々の手からイエシュアの贖いの代価で買い取られ、娶られている事実を教えているのです。過越の晩餐の食後の杯が3杯目の杯〜贖いの杯と呼ばれるもので、イエシュアが弟子達に、イエシュアの贖いの業を再確認しているのです。
この過越の晩餐でされた儀式は、当時のパリサイ派の流儀であり
それを通してイエシュアは、新しく更新された同じ婚姻契約が
有効であり、その印が、マッツアと贖いの杯であることを教えました。
クリスチャンの教えは、この過越の祭りを祝うことをやめ、
イエシュアがされた過越の晩餐の儀式を変えて、月一度、
カトリックは毎週日曜の、聖餐式というものに変形させました。
しかも、種ありパンで。種のあるパンでは、神が人に教えている、イエシュアの業で罪が削ぎ落とされた人にされている事実、意味が消えてしまいます。
そして、過越の日から、7日間、種無しパン=マッツアを食べるのです。使徒には、「除酵祭」と訳されていますが、種無しパンの7日間のことです。ちゃんと1世紀の人は変わらずに、神の記念日を祝っていた記録があるのです。聖書に書かれている通りに先入観を全て捨てて、まず書いてある通りに正しく読んで、下さい。聖書の中に、彼らがシャバットや祭りを祝うことを神からやめるように言われ、日曜日、イースター、クリスマスを祝ったと書いてあるのかどうか、聖書を自分で調べれば良いのです。
彼らが祝っていたのは、レビ記23章の神が創造されて人を呼び出しているモアデイムであり、西洋人が作った宗教の記念日は祝っていませんでした。
使徒12:3、20:6
 
2)過越から始まる7日間の種無しパンの真ん中の日に、新しい命を祝う、「初穂の日」があります。この日にイエシュアが復活されたのです。大地から、新しい命が芽生える様子でも分かるでしょう。その新しい命が、どんどん増え広がって成長していく。
復活の命は、永遠の中から、イエシュアが地上で復活される以前、創造の最初から教えられてきたのです。
 
続く