一旦聞き慣れた教えで考えることをやめて、聖書に記された事実だけに戻ってみて下さい。
聞き慣れた教え〜神の言葉が終わった、変化した、聖書の最初の部分は、キリストが来られる前までの律法を生きて人が義とされたから、それらは終わり〜など、記事にずっと書いている内容ですが、全部それらは人の思想〜人間が作った宗教の教えです。
異邦人教師が語るように、聖書は、旧約聖書=ユダヤ教、新約聖書=キリスト教が書かれているものではありません。
現代のメシアを知らないユダヤ人は、創世記〜マラキだけが聖書だと考えています。そして、1世紀、福音書以降が書かれている時代も、ユダヤ人、異邦人イエシュア信者も同じだったのです。
彼らの、聖書は、モーセの五書、預言書、諸書だけ!!!
福音書〜黙示録が書かれたのは、マルコ、西暦66–70, マタイとルカは、西暦85−90、ヨハネ西暦90−110。
西暦70年の神殿崩壊の後です。それまで、その書は無い、
1世紀最初に居た人達、生まれた人達は、もう生きてもいない。
福音書、使徒、黙示録、パウロの書簡も、西暦50年代、とにかく特定の人しか、パウロの書簡は読んでいないかったのです。
イエシュアが来られた1世紀、聖書に登場する人達は、新約聖書だけを読んでいたなどと、空想しているでしょう?
そして、聖書に記されている福音書以降、1000%全ての人達は、タナックのみが教科書であり、西洋教父達のが教えた、
モーセの五書を破棄せよ〜などという教えが聖書ではない、
そんなことを言う人は一人もいない世界のことが記されています。もちろん、その当時から、グノーシス主義、禁欲主義などを放り込む異教徒思想に洗脳され、異邦人思想哲学を刷り込む
偽教師の教えが蔓延っていたことを、パウロが書いています。
別の福音とは、モーセの五書とは異なる教えのことだからです。
モーセの五書が聖書全体の土台、柱であり、神の言葉の中心
その中に、人の生きる全てが記されています。罪の詳細全貌の全ても記されています。福音書以降だけ読んでも、何が神の定義する罪なのか、分からない、そこには、神の教えの全部は書かれていなからです。モーセの五書=トラー神が人に教えるどう生きるか?の全てが書かれている完全版であり、永遠に変わらない言葉です。
ユダヤ人は、旧約聖書を旧約聖書などというタイトルで、聖書を呼びません。トラー、預言書、諸書=のヘブライ語の頭文字を
取って、タナック。最後の言葉は、フと聞こえる名前です。
トラー、ナヴィーム、ケトウヴィムの頭文字です。תַּנַ״ךְ
そしてメシアを知らないユダヤ人は、福音書以降を、ユダヤ人を迫害する偽のメシアの教えだと誤解しています。そして、その
箇所は、預言者が書いたものではないので、聖書ではないと考えて、読みません。
彼らが、福音書を読まない、メシアがタナックに記された約束の
メシアであると認識できないのは、色々理由がありますが、
一番大きな理由の1つは、異邦人クリスチャンの教えが語る、
ローマ化けしたメシアのせいであることを、知っておいて下さい。
クリスチャンの世界で語られるイスラエルの神像、イエシュア像は、タナックに記されたそれとは、かけ離れたものだからです。
大体、神がご自分で言われた言葉〜タナックに永遠普遍と書いてある言葉を、廃れた〜破棄しにきた〜終了だ〜などという、
そんな神、イスラエルの神ではないからです。嘘つきの神。
でも、彼らがもし福音書以降を読みさせしたら、そこに書かれているイエシュアがタナックに記されているメシアだと気が付けるはずです。
全員ではないですが、そこに書かれているのは、偉大なるトラー教師イエシュアが素晴らしいトラーの解説をしていると、私の教師である方の友人、彼らの近所に住んでいたエルサレムのヤシバのラビが言ったと、だいぶ以前にそう教えてくれました。
そして、異邦人との違いは、この箇所に、モーセの五書を否定した教えが書いてある〜などという発想がないのです。
中には、正しくトラーを理解していない、又は神秘思想やその他
変な思想を持っているユダヤ人ももちろんたくさんいますから、
一概に言えませんが、正しくトラーを理解している教育背景があり、トラーに正しく根づいて生きている人なら分かるのです。
使徒5章のガマリエルのように、神のトラーに根づいて考え
生きる人は、メシアを発見するからです。
パウロの大先生であったガマリエルは、きっとイエシュアがメシアであると、後に気がついたはずです。
使徒 5:38 そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。
5:39 しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。そこで彼らはその勧告にしたがい、
神が神ご自身である言葉を否定、終了することがないのは、聖書の最初の75%に、書かれているからです。福音書以降にも、同じことが書かれて、イエシュアも言われたでしょう。でも書いてある通りに聖書の記述を読み取らず、書いてあることを曲げて
解説しているから、福音書以降には、モーセの五書終了ありきの別の新しい教えが書いてあるなどと、完全に勘違いしているのです。
神の言葉や、神ご自身の性質が変化するという発想、思想は異教徒背景の異邦人思想なのです。
イエシュアはトランスフォーマーなどでは、ありません。
神の言葉で、神の性質と言葉は、昨日も今日も永遠に変わらない、神には移りゆく影や変化はない、神の言葉は完全であり、
永遠に固く立つと教えているからです。怒りの神〜恵みの神〜
異邦人の発想思想であり、聖書に記されているイスラエルの神ではないと、聖書から認識して下さい。
プラス、神は神の言葉を、旧約聖書、新約聖書などと名付けて、分断した人種、時代ごとに別の性質の神の言葉が存在している
と人に紹介などしていません。
そのタイトルは、異邦人が勝手に聖書に付けたタイトルです。
聖書を1つの建物として考えてみると見えます。全部が繋がっています。モーセの五書=これが全ての聖書の土台です。西洋教父は、聖書という建物の一番の土台、大事な部分を破壊してしまいました。
土台がゆるい、又は砂の土台では、建物は歪んで、壊れたり、
潰れたりしてしまうのです。
そして、聖書とは辻褄の合わない歪みを矯正するための補修をするために、そこから出てくるのは、宗教という人の教えの産物です。
聖書の他の箇所は全て、この 1)モーセの五書が土台であり、モーセの五書の解説しているもの、それが聖書です。
2)諸書は、モーセの五書に記された神の知恵をいかに生きるかが
記されています。
3)預言書は、モーセの五書に記された教え、それに生きることが無い場合に、人は罪に陥ることが、記されているのです。
神の教え=トラー=婚姻契約に戻れ!それが預言書の中心のテーマ、神からの託宣です。
イスラエルの歴史を通しても、預言書の中にも、それが記されています。預言書、イコール未来に何が起きるのかが書かれていると思いますが、その中には未来に起きることは、大幅に占めていません。
預言書の役割は、神の教え=モーセの五書に戻り生きなさい!という、神からの警告、促しの書です。
そして、4)福音書は、トラー、預言書、諸書に記された、文字で書かれたトラーが、肉体を取って地上に来られたイエシュアの
短い地上での記録です。イエシュアは、ハ トラーと呼ばれていたのです。神=言葉=聖霊=イエシュアだからです。
イエシュアが地上でモーセの五書に書かれた通りの人の生き方を
教えて、実際に示し、永遠の中に屠られている子羊の血の贖いを
地上でも実現し、タナックに記された永遠の中に屠られた子羊の代価=贖い=完了の業を証明してくださいました。
5)使徒は、全世界へ、トラーが伝えられた記録です。
そして、後の6)書簡は、パウロや使徒が書いた、それぞれの
生活、地域でのトラーの実際の知恵の適用を教えています。
そして、7)黙示録は、エデンから出て、エデンに戻る最終章が
記されているものです。
聖書は、創世記〜黙示録まで、一貫していて、どの箇所もモーセの五書を土台に、モーセの五書を解説しているものです。
ですから、聖書を正しく理解しない場合には、人の教えで聖書が分断されている2つ別の教えが書いてあるのだと信じ込まされて、福音書以降には、モーセの五書を終わらせた新しい別の教えが記されているなどという、聖書には書いてもいない空想を語っているのです。
神の契約はイスラエルへ代表として託されただけなのです。
異邦人にも届くように!
アヴラハムは全民族の父〜同じトラーに記された神の祝福を世界の民族へ与えるために選ばれたと書いてあるのです。
考えてみて下さい。信仰義認とは何でしたか?それは、アヴラハムに与えられた契約です。その契約が永遠に存在する、その契約を与えた印が「割礼」なのです。
信仰により神の子羊〜イエシュアによる贖い、完了の業を受け取るだけで、義とされる!それは、アブラハムに神が与えた約束であり、それは代々子孫全てに与えられるのです。
信仰により受け取った贖い、救いは取り消されない。
信仰により、神を受け取る、イエシュアの業を受け取る人は、義とされる、どの時代も、ユダヤ人でも異邦人でも全く同じなのです。
それは、全人類へ同じ、イエシュアを通して神の元に戻った人
全てに与えられている契約だからです。
西洋教父の教えは、古代ユダヤ人は、律法を生きて義とされ、
異邦人は信じるだけで救いを受ける、それを今の教師も言い続けているでしょう。それ聖書、神の教えではありません。
どの人種も同じ!
信仰により受け取っただけ!アヴラハムと同じ。
そして、義とされた人が、婚姻契約を与えられたのです。救われる前に、花嫁となる前に、神の契約が与えられたのではないでしょう。
花嫁とされた人が、花婿の家で暮らす、全てを教えられるために、与えられた婚姻契約書。それは、花嫁が生きる全て、守られる全て、そして花婿からの祝福、約束、保証を与えられたのです。
神の教えを生きて義とされるために、神の言葉が与えられているのではないのです。この点を誤解しているでしょう。クリスチャンの世界では、神の言葉=契約が与えらえた目的や意味を誤解しています。神の言葉を生きて義とされた〜そんな人、歴史の中に
人種別にも、誰一人としていない!と書いてあります。
誰も、イエシュアを通して以外、父の元に来ることはできないとイエシュアも言われたでしょう。勝手な教えを編み出した、異邦人教父達の負の遺産は、全部排除しなくてはならない人造思想なのです。
異邦人へも、同じみ言葉=トラーがシオンから出て世界へ伝えられる!
だから、神の言葉=婚姻契約書=聖書を、自分ではなく、他人へ当てられた手紙と同じなど考えている場合、その意識は、神から遠くの場所に離れているのです。本当に聖書は絶対!と言いながら、同時にこのようにずっと言い続けている矛盾に気がつかないのは、人の思想に頭脳を占拠されて、人間が作った聖書概念で、聖書を歪めて読んでいるから、自分の言っていることが、聖書の記述に矛盾していることさえも、気がつけないのです。
完全であり同時に不完全、真実であり、同時に不真実、永遠であり同時に一時的などという定義自体が、矛盾しています。
神の言葉=契約、約束を、自分の者と考える場合と、他人のもので関係ない考えているのでは、意識はまるで違う世界であると分かるでしょう?
全部他人事、自分へ伝えられている神の言葉という理解が丸でない自分には直接関係のない、関わりのない神の言葉であると、
考えている。契約から遠く離れていた!とパウロが言った救われる前の以前の意識のままななのです。
関係ないから、神の伝える事を、真摯に受け取らない。廃れた古い教えは、関係ないから、どうでも良いなんて考えているのです。
神の言葉で、廃れた教えなど1つもありません。あなたの体で
ある部分は壊死して機能しなかったら、それは体全体の機能に
影響があるのと同じことです。
自分には関係ない〜神と距離、隔たりがあるという意味です。
神=言葉=聖霊=イエシュアだからです。
そして、建物の土台=基礎を破壊する教えは、聖書全体を破壊
腐敗させる思想なのです。
モーセの五書は、聖書の土台であり、聖書という建物全体を支えているものです。
基礎、土台を歪める、破壊する教えは、建物も歪め、破壊します。
歪んだ土台、砂の上に建てたビルは、最後には必ず壊れます。
終了します。
続く