シャバットは婚姻関係を結んだ人へ与えられた特別な印 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

日本の国でも色々な記念日があります。これらは、国が決めた

記念日で、何かを思い出す日でもあります。

その他に日本の文化の中の祝い日があります。

盆暮正月、節分、お七夜、お宮参り、七五三、ひな祭り、端午の節句など、日本で定番に祝われる記念日、祭り事があります。

そられらの祭りや記念日は、必ず何かの「神々」と繋がり、

その神々に祈願するということを、皆しています。

神社仏閣にお参りしたり、その神々は、日本人はヤオロズの神々を信じているので、色々な神々に祈っているわけです。

そして、お正月料理でも分かるように、祝い事に何かの祈願をする意味を込められた食べ物を食べるでしょう。

お節料理など、分かりやすいものです。

それらは、日本の文化の中の、ヤオロズの神々を信じる異教神文化の祭りです。

個人の記念日では、誕生日、結婚記念日などが祝われる代表の

記念日です。それらは、それぞれが祝う記念日であり、自由に

祝えます。長年結婚している場合、相手が結婚記念日も忘れている〜と、ぼやく人もいますよね。

神は、この世界を創造される前から、神の記念日がいつであるのか、神の中には既に存在し、人の為に用意されていました。

贖いの子羊の血〜イエシュアの業は、この世の礎が創造される前に既に屠られていたと書かれており、同時に、私達もこの世の礎が創造される前から、永遠の中に選ばれていたと不思議なことを

神は人に伝えて教えています。

永遠の中に完結している事実からだけ、考えてみてください。

 

神は創造の一番一番最初から、神の記念日の中心を教えています。そして、それが人の生きる道であり、エッセンス〜人のそのものである。エデンの園の安息を、最初から教えています。

その日は、神が創造の全てを完了し止まったことを祝って

神と全創造物と初めて祝われたのが、第7日目の「シャバット」です。神は時と、特別な暦を創造されました。

神は1週間を7日間に創造され、そして、その第7日目だけを

聖別し、特別な名を与え、神と人が共に喜び祝う、特別な出会いをする祝宴の日であると、人に伝えています。

この真実は今も変わりません。

異邦人が、神の言葉=モーセの五書を否定し始めたのが、1世紀後半からです。そしてローマ帝国と、ローマ・カトリックの教父たち双方が、神の言葉=教え=モーセの五書=婚姻契約=トラーを生きること、ヘブライ的要素の全てを、全面禁じたのです。

1800ー1900年代の多くのドイツの神学者も、旧約聖書と新約聖書は永遠に和解できないものであるとし、神の言葉を、

自分たちが理解できないので、そんな思想を言ったのです。

第一、このような考えを発表している時点で、モーセの五書、聖書の最初を正しく理解していない証拠であり、福音書以降に語られているのが、モーセの五書の抜粋であるとも、気がつけない

そのような人たちが考える思想だからです。

このような、聖書、神の言葉を曲げる思想を持つ人々〜教師に

学んだ代償が、歪められた神の言葉、聖書の不適切な解説、神の言葉という土台が歪められた人の思想で語られる聖書解説なのです。接木されたに過ぎないものが、神の言葉に対して敵対する

おごるなかれ!と言ったパウロの言葉の意味が見えます。

神の教え=トラーと、神が創造された特別な会見の記念日、

呼び出し日がクリスチャン達の間で、2世紀以降、祝われなくなった理由は、神が禁じたからではなく、異邦人教師達、ローマ帝国が神の創造されたシャバットや記念日、祭りを祝うことを禁じた!その事実を聖書から、キリスト教宗教歴史からぜひ学び、

知っておいて下さい。嘘はいつか光の前に晒されて、真実を人々が知る日が来るからです。そしてそれが現実に起きているのです。

聖書を読めば分かるでしょう。7は1には永遠に変化しない。

永遠不変で完全であり良いもので真実である、その神の言葉がどうして途中で悪いものになり、変化するなどと言う、人の思想を信じられるのか、その方が本当に謎、不思議です。

あなたの聖書に書いてある、安息日とは、第7日目のシャバットであり、祭りとは、過越や仮庵の祭りであり、クリスマスや

イースターではないからです。

 

神の創造された記念日を通して、神が最初からイエシュアの業

同じ救い贖いを教えています。過越はイエシュアの処刑、昇天と

ぴったり重なったでしょう。

そして、未来にイエシュアが来られたら、最初に祝われるのが

仮庵の祭りです。秋の祭りは、これから地上で起きるイエシュアの再臨、子羊の婚礼、そしてイエシュアが統治する世界へ入る

一連の出来事を表す、預言的祭りだからです

 

私は神が呼び出している特別な日など、聖書を長年読み続けていならが、全然気が付けなかったし、知りませんでした。

シンプルな事実があります。神が呼び出している日、神が永遠に代々祝うわたしの記念日、と言われたレビ記23章の全ては、

神が言われた通り永遠に祝われます。そして、それは神が創造されて人を呼び出している聖なる集まり〜主の日=聖日なのです。

神が呼び出していない日を、クリスチャンは、主の日、聖日などと、勝手に言い換えていますが、それは聖書に照らし合わせれば不真実です。神の暦と記念日を塗り替える罪を、ヤロべアムの罪と神は人に教えて、そしてダニエル書にも同じことが書かれています。

ダニエル7:25

彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時とトラーとを変えようと望む。

神が今も贖われた全ての人に対して呼び出している、神が神の暦に印をつけて、会見の時私が現れるのを、神が待ってくれていたなどとは、十六年前迄知りませんでした。人が作って人が人を呼び出している日に、神は特別な会見を設けてなどいませんし、神はその日に人を呼び出してもいません。それらは神が人のために創造され特別に設けられたアポイントメントの日ではないからです。

どの日でも神に会う、神といつでも語ることができる。いつも一緒にいる。でも神が設けられた特別な日は、神が特別な出会いを用意して待っている!と約束しているのです。神の人に与えた記念日は、神と婚認関係の中にある人だけに与えられた日だからです。

婚姻関係にない他人と、特別な記念日など祝わないでしょう?

それと同じことです。

福音は最初から同じ!太古〜永遠から語り継がれた同じ福音!と

ヘブライ聖書に、いや翻訳でも書いてあるでしょう。

しかも、神はどの箇所にも、イスラエルの間に住む異邦人も同じ教えを生きる!とずっと神が人に教えているではないですか?

聖書は、イスラエルを代表として、書かれましたが、それは、

全世界の人、神が選び出された聖なる民、永遠の中からイスラエルと共に選び出された異邦人含め、全ての人に向けて与えているのです。

もし異邦人は契約に関係ない!というならば、福音書以降も異邦人には何の関係もありませんというのと同じであることに、気がついて下さい。福音書以降には、モーセの五書とは違う、又は

モーセの五書を廃止した、別の新しい聞いたこともない教えや、別の契約が書かれているのではなく、聖書の最初の部分の短い解説だからです。

契約の命に生きること〜キリストの実態を受けて生きること、

これは聖書の最初から、黙示録の最後まで同じことが書かれているからです。

しかも、イエシュアの言葉を聞いてみてください。

「わたしはイスラエルの失われた羊のところにしか、遣わされていません!」と言ったでしょう?では、異邦人はイエシュアと関係がないのですか?全部辻褄合わなくなります。

イスラエル=代表、婚姻契約を与えた人のところに来た。

異邦人のところに来ても、契約=神の教え=モーセの五書の中身を知らない人のところに来ても、タナックに記された約束のメシアを知らない人のところに来ても、彼ら異邦人には、よく分からないからでしょう。だから、契約を受け取り、神からずっと神の教えを聞いて生きた人達のところへ来たのです。

 

こう考えれば分かります。年の離れた長男が、親から最初に色々教えられている。そして弟妹は幼くて何も知らない。その長男に託された親の教えを、長男が弟妹に教える役割があり、イスラエルの役割、立場はまさに、それなのです。だから、弟妹である

異邦人は、以前は契約から遠く離れ、神の教え=トラーも知らず、肉の生まれでは、イスラエルの国籍もなかったけれど、今

イエシュアを通して、イスラエルの神の元に戻った人は、誰でも同じイスラエルの神の天の共同相続人であると、教えているではないですか。イスラエルの自然のオリーブの木に、野生=異邦人は接木されたのでしょう?接木されたのに元の木に拒絶反応などされて、切り離されません。1つの木になる!

だったら、同じ家族の一員とされたのに、神の教え=契約は関係ないなどと考えている事自体が、聖書ではない思想であると、

なぜ、聖書〜神の言葉、教えから気が付かないのでしょうか?

人の教え〜神の言葉を否定する教えに邪魔されているからです。

西洋教父達の教え、反トラーの思想を全部捨てて、神が伝える

通り、神の言葉は誰にもでも、どの時代でも同じ!変わらない!と神が伝えている事実だけに、戻って考えてみてください。

 

異邦人教父達が、聖書とは違う教えを編み出した行為は、神の前に立つ日に、どう説明しようとも、神の言葉を知りませんでした

分かりませんでした〜などとは言えないことになります。

なぜなら、聖書=神の言葉を異邦人教父達こそが真っ向から

否定した教えを作り、一般信徒の教え続け、それが今に至るまでずっと継承され続けているからです。

 

神との関係に加えられた証拠の印として、神はイスラエルにシャバットを与えました。そして、神はイスラエルと一緒にエジプトから出た人達も、同じくイスラエルの12部族に加えて、数えているのです。

その異邦人達へも、同じ神の契約の印=シャバットが与えられている事実が、直接神の口から語られているのです。

ちゃんと、神の言われた事実を読み取るのです。

 

出エジプト20:10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。

トラー=神の教えは、異邦人には関係ないと言うならば、

それならば、異邦人は神との関係にもない!ということです。

 

神が与えた契約の印のシャバットを捨てるように西洋教父達に

異邦人はそう教えられ、神の言葉=トラー=婚姻契約を生きることを禁じられた異邦人達は、神が与えた祝福の生き方〜イエシュアが生きたそのものの真髄、宝、本物を奪われていることに気がついて下さい。

大体、神が呼び出している日を忘れさせられて、宝を奪われている!と言うことに気がついていないのです。もし誰かが、あなたの財産や権利を隠している、目隠しして知らせないことをしていると、想像して下さい。それを、やられてしまってきたのです。

 

神のもの=聖なる民とされたのに、神が人に伝える教えを捨てるなら、その態度は一体何?それが神に対する愛?婚姻関係にある人の意識?神が与えたものを拒否し、人が作ったものにすり替えて生きることを、神が伝え望んでいるといつ言われましたか?

神は、「わたしが言うそっくりそのままその通りに、神の家を作って」とモーセに伝えた意味があるのです。

人の創作物でも設計図や寸法が違ったら作者の意図はその通りに

現れ出ないからです。だから、神の言葉を変える罪は、偽物を

編み出し、本物が現れ出なくなる妨害でしかないのです。

ピカピカに磨かれた鏡に映し出される本物ではなく、曇った鏡に映る違う映像、画像と同じ。

それでは一体クリスチャンは救われた後、何を生きると神に教えられていると考えているのでしょうか?

イエシュアを通して、神の元に戻った人は、もれなく、同じ木〜

イスラエル=自然の木に接木されているのに、その接木された枝は、異物ならば、切り落とされてしまいます。

臓器移植した、臓器がその体が異物とみなし、排除しようとする

作用と同じです。

クリスチャンは、新約聖書の教えだけを生きると考えているでしょう?新約聖書も、時の異端者マルキオンの思想から生まれた

タイトルですが、福音書以降の中書かれた神の教えは、モーセの五書トラーの教えの抜粋のみであり、新約聖書には、神の教えの全ては記されてなど書いてないことを知ってください。

 

聖書から気がついて下さい。イスラエルの神は、異邦人教師達が

唱えるように、変化する神、変化する神の言葉を教える神では

ありません。神は永遠から永遠に変わらず、イエシュア=神は

昨日も、今日も永遠に同じ!神の言葉も草木のように枯れず、永遠に固く立つと言われたその言葉がの方が真実であること、

聖書から確認してください。

今日、神が呼び出している聖別された週一度の記念日です。

そして、シャバットは全ての記念日の中心であり、人の生きる道

エッセンス、真髄そのものです。エデンの園の安息に生きることに戻る。

 

Shabbat Shalom