「神はもともと、異邦人とは、契約を結んでいない、異邦人は
神の契約の中にいないのに、ユダヤ人に与えられた契約を生きようとするから、苦しくなるんですよ。
だから、異邦人は神の教えを生きる必要がないのです。」
これはたくさんの問題点がある思考回路から、神の言葉を考えている状態なのです。
神の言葉、教えは、人を創造された神が、神はどのような性質に人を創造されて、人は何を生きて、何を生きないか教えているだけです。
人間は同じ土=アダマから造られて、そして、神の似姿に創造され、アダムとハヴァから全ての人が出現したのです。
人間は、人種により、構造や中身が違うのでしょうか?
何を生きる〜それが、神が造られた性質どおりに生きる生き方であり、何をしてはならないか〜それは神の性質どおりに創造された人の生き方ではない、ズレている=罪である!と教えているだけです。
クリスチャンは、神の言葉を生きる事を、律法主義などと、西洋教父たちの編み出した教えの受け売りをしていますが、神の言葉を、するしない掟リストのように取り扱う思考回路を、律法主義と呼んでいるのです。
何何をする義務がある〜という思考回路からしてズレているのです。犬は犬だから犬らしく行動し、吠えたり、尻尾を振るのでしょう?
鳥は鳥として造られているから、鳥らしく大空を羽ばたいて飛ぶ。
無理やり、イヤイヤ、頑張って鳥は飛んでいるのでしょうか?
それぞれの被造物は、神に造られた性質通りを生きている。
人は神の性質=イエシュアの性質通りに造られているから、
その性質通りに生きる〜それがトラー=モーセの五書に書かれた
人の性質、生き方の実態なのです。
神の言葉を喜んで聞いて、生きる。これが、神の伝える麗しい生き方!と理解する場合には、神の言葉が律法で、神の言葉を生きる事が律法主義であるなどと、そんなこと考えません。
どれほど、神の言葉を破壊する意識を、西洋教父たちの教えは、
2世紀以降の人々に放り込み続けたのだろう、この大きな弊害
負の遺産が、取り払われる、終わりの時が来たのです。
つまり、神が伝える意味を理解していないという問題から来るズレた考えなのです。
神の言葉は人が苦しくなるようなものではないと、神が伝えています。
申命記30:11 わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、
むずかしいものではなく、また遠いものでもない。
30:12 これは天にあるのではないから、『だれがわれわれのために天に上り、それをわれわれのところへ持ってきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない
30:13 またこれは海のかなたにあるのではないから、『だれがわれわれのために海を渡って行き、それをわれわれのところへ携えてきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。
30:14 この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる。
<はなはだ近く〜腹の中、口に頭脳にある。あなたの性質そのもの、自分の一部という意味。>
30:15 見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。
30:16 すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう。
全てを創造された神から、神が創造された人の本来の性質を教えられたら、どうして苦しくなるのでしょうか?
それが、神が造られた私の性質、私の生き方、生きる道=イエシュアが教えられている事なのだと、理解すれば良いだけでしょう。
それは、今までの生き方、慣れ親しんだもの、聞き慣れないものだからかもしれません。肉にどっぷり浸かり生きていたものには、神の教えは異物そのものだからです。肉は神の性質に敵対したいからです。闇は光=神=言葉を好まない。
そして異教神文化に根付いた衣食住生活。異邦人は得に、イスラエルの神の教えを知らないまま、先祖代々生きて来たからです。
肉が邪魔する。
都合の悪い事は全て終わりにして無視したい。プラス、神の言葉に対して、壁が築かれているからでしょう。何何しないとならないの?
ええ〜面倒くさ!という程度の理解、意識なのもかもしれません。
神の契約を真摯に受け取った当時のイスラエルと、異邦人の意識からは遠く離れている。神に大事な事を教えて頂いているという意識からは、遠く離れたズレた意識です。
結婚生活でも同じですが、最初の志や決意を忘れるのは、はじめの愛=婚姻契約=どのように生きて、神との関係を育むか、神から教えられようと熱心に切望する意識が薄れる、そして神の言葉を忘れて生きているからでしょう。
危険なものを危険と、創造主である神から教えられて、反抗心向きだしで怒り出す〜なんだか、元からずれている。
神はあなたは〜を生きるように造られ〜を生きるようには造られていないと、人に伝えているだけです。
そんな意識を持つとは、それぞれ、神との間に、隔たり、壁がある
証拠なのです。相手=神の言うことを疑う、信じられない。
エデンの園のアダムとハヴァと同じ。神の言葉を疑う。
自分が神の座に座りたい〜神のようになれると蛇にそそのかされた誘惑。
そして、神が伝える意味が理解できていないから、不明に感じるのです。古代の人たちは、皆理解していたのです。
「神はイスラエルだけに契約を与えたので、それが異邦人にも
与えられていると言っているのは、ある人に当てられた手紙が、宛名が間違った別の人へ送られた手紙と同じ、自分に宛てられていない
手紙を、自分に宛てて書かれたと、勘違いして読むのと同じことをしているのです。」
この思想は、神の契約書=聖書=神の言葉が何であるのか、聖書がどのような性質で、構成で書かれているのかを、全く理解していないことから来る意識です。
異邦人も、同じイスラエルの神に、神の言葉により造られたのではないのでしょうか?同じ土=アダマから造られて、アダムとハヴァから全世界の人類が増え広がったのです。
人は一体として繋がっているのです。その先祖や、エデンの園から同じ!
異邦人も神の口から出る1つ1つの言葉=トラーにより生きると
イエシュアが申命記8:3を語られた事、理解していないのです。
聖書は婚姻契約書です。得にモーセの五書の申命記は、契約書形態で記された書です。モーセは当時の古代中近東の政治、経済、そして、他国との条約書などを理解していたのです。
なぜならエジプトの王室で育ち、当時エジプトでは世界でも最も最高の教育がされていた場所です。
そして、その近隣国との条約を理解していたのです。
聖書に記されている言葉は、全て婚姻契約用語です。
神と、そして私達の関係は、花嫁、花婿とありますね。
花婿は、ヘブライ語では、ハタンです。
花婿自身が花嫁と1つになるという意味でもあります。
神の方から一方的に、私達の所に来て、アプローチ、近づいて
下さった、下さっているのです。
私たちが必死に何かをして、神にアピールして、神を説得して、やっとこちらに気を向かせて注目してもらう、そのような事を
考えたり、やっていませんか?これが偶像、異教の神に仕える
偶像礼拝の正体なのです。自分で何かして、神に働きかけて
神を動かそうとする。
もっと良いお供えを置いたらもしかして、神がやっと重い腰を上げて、そのお供えの匂いでも嗅ぎに来てくれるかも〜、これをしているでしょう。異教の神殿でも。
結局、自分が何かすることで、神を自分の思い通りに動かそうとしている意識が偶像礼拝の根であり、律法主義なのです。
自分の行動で、手柄を立てる。神の言葉を生きることを、神は
律法主義などと言っていません。神の言葉を生きよ!と教えているでしょう。
神の言葉を、ズレた動機で、上記したように生きる場合には、
それは偶像礼拝であり、律法主義です。
自分でアピールし、必死にごめんなさいを言い続けて、神に懇願し
許しを請う、そして、何か見返りに貰いたい。
神は私達の所に、私達がどこに埋もれていても、隠れていても、閉じ込められていても、ご自分の方から来てくださるお方です。神の意識は常に私達の上に、絶え間なく注がれています。私たちが忘れていても、神の言葉を忘れよ〜と神から意識をはぐらかされる事を人から聞かされている間も、ずっと神は私達から目をそらさないのです。
狭き門より入りなさい。滅びに至る門は広いから。
細い声=神の言葉、自分が意識して考えないと分からなくなるけれど、意識すれば、はっきり神の声は響いて分かる、神の言葉を人に与えて、神の考えを教えて下さっているでしょう。
神が遠く離れている〜と感じる。だって見えないし。触れられないし。会えないし。顔もないし。感じないし、聞こえない。だから、何か手に取り分かるような、奇跡や不思議体験を多くの人が求めるのです。
これは、異教の神々の信者と同じなのです。何か感じたい。
例え、今目の前に神が現れても、神を理解するというのは、内側の深い納得以外に無いのです。誰か、人との関係も同じです。
その人と、分かり合える、通じ合えると確信できるのは、目の前に物理的にいるからではない。目の前にいても、心が遠く離れて通じ合えない人がいるでしょう。
だから、イエシュアと直接会って話した人でも、イエシュアが神であると分からない人が大勢いたのです。
逆に、噂を聞いて、タナックに記されたメシアだと信じた多くの人もいたのです。
「ハタン」とは、花嫁とぴったり1つになって下さる方です。
その意味はイエシュアを通しても、教えて下さっています。
私達の全て、失敗も、恥も、不信仰もつぶやきも、消してしまいたい過去の出来事や、いやな体験や、悲しみ、傷の全て、イエシュアが全部自分と1つになって全てを負って下さっているのです。恥も負って下さった。だからイエシュアは丸裸で木にかけられたのです。ローマ帝国の「木にかける刑」は、そんな布なんてかけてなどいません。
当時は、エルサレムで普通にそこらじゅうの木に、罪人がそのまま木にかけられていたのです。
だから、何一つ、どんな事でさえも、神の愛から私達を引き剥がせるものはないと言われた通りなのです。
異邦人の世界で教えられているイスラエルの神像は、ヘブライ
聖書が語る神=イエシュアとは全く違う、ローマ化けしたジーザスです。だから、罪悪感持たされ、あなたはどれだけ足りないとか、神の前にまだまだダメとか、必死で神に注目されようと説得するようなアプローチをこちら、神に対してし続けているので
疲れるのです。
全く逆です。だから、神の言葉=契約=聖書は、イスラエルだけに
与えられた他人への手紙で、自分宛ではないと考えている遠い意識。そして、福音書以降は異邦人へ当てられた手紙と考えているのですか?福音書以降に記されたイエシュア信者の殆どはユダヤ人なのです。読者ももちろんユダヤ人が中心です。
諸外国にいたイエシュア信者も、諸外国に住むユダヤ人主体の群れです。その中に異邦人が少数混じっているだけです。
聖書が閉じられた後、西洋教父たちが神の言葉〜トラー〜モーセの五書を否定し、モーセの五書を生きる事を禁じて、独自の教えを編み出して宗教を作ったのです。2世紀以降に、異邦人信者たちは、ユダヤ人の群れと完全決裂し、西洋教父達の思想で独自の西洋宗教を作って、新しい教えにの宗教に移行して行ったのです。だから、異邦人独自の群れができたのです。
そんな出来事は、聖書には書いてないのです。
それらは、聖書が閉じられた後に起きたのです。
そして、福音書以降は、書かれている当時、殆どの人は使徒達の書簡の存在も知らないものです。
福音書では、マルコが最初に書かれたと言われていますが、神殿崩壊後西暦70年以降。パウロの最初の書簡が書かれたのは、西暦45年〜その意味は、当時の人は誰も、新約聖書なるものを読んでいない、特定の人に宛てられた書簡〜手紙は、その群れの人が読んだだけです。
4~5世紀まで正式に、福音書以降の使徒が書いた書簡は、聖書としても認識もされていないものなのです。
福音書〜黙示録に書かれている内容は、イエシュア、使徒達、全ての人は100%モーセの五書の教えを考え、語り、その解説の諸書、
預言書だけが、彼らの聖書だったと理解して下さい。
福音書以降は、聖書の最後のほんの短い解説に過ぎない。
過ぎないというと、意味が不明になりますが、モーセの五書を塗り替える、否定する新しい教えは、使徒の書簡の中に1つたりとも記されていない!その事実をどうか、聖書に記された事実から把握して下さい。それには、不適切な翻訳や、モーセの五書終わりありき、否定ありきの聖書解説は、聖書でではない事を全部分からなくても、知っておいて下さい。
神は神ご自身であり、ご自身が発言した言葉を否定しません!トラーのヘブライ文字の一点一画も、天地が今存続するなら神の言葉は廃らない!という強調で、イエシュアが表現された通りだからです。
聖書の最初の部分を理解していれば、そんな誤解など絶対にしない。異邦人教師たちが編み出した、非聖書的教えの百科事典が
聖書になってしまい、そのような聖書とは異なる誤解の解説のみが、今まで異邦人の間でされ続けて来ただけなのです。
神は嘘つきと、人間が認定するのでしょうか?そんなこと、どうやってできるのでしょう?神は嘘などついていない。
神が一度永遠と言いながら、後で気が変わりましたなどという
嘘は言いません。
真理、完全、永遠普遍の言葉が歴史途中で、変更、不完全、不真実になどなりません。クリスチャンの世界で普通に主張している事が、矛盾だらけで変だと聖書から気がついて下さい。
続く