砂=人間の教え 宗教という土台の上に建てられた家 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神が人は何を生きるのかの、全てを人に教えているのが、

モーセの五書に記された内容です。モーセの五書だけが、人の生きる詳細が書かれている完全版です。どういう意味かというと、人の生きる詳細の全てが書かれているのは、モーセの五書だけだからです。罪の全てもモーセの五書だけに書かれているのです。だから、モーセの五書を読まない、又は無関係と考える人は、神が伝える罪が何か理解していないという事なのです。

福音書以降には、人の生きる全ての面での詳細は書かれていません。そこには、最初の箇所の抜粋しか書かれていません。

福音書以降には、罪の全貌、詳細も書かれていません。

クリスチャンの教師や、牧師は、福音書に書かれていない教えは

全部廃れたという、神の言葉の真実を遥かに逸脱した斬新な解説をしていますが、それは、神の言葉ではありません。

福音書以降には、魔術や獣姦に関して書かれてはいません。

だから、それらは罪ではなくなったのですか?罪は永遠に罪。

歴史の途中で神の言葉、人の生き方、罪の定義は変わりません。

でも、それらは、罪である事は、理解出来るでしょう。

なぜ、福音書以降に全てが書かれていないのか、理由は簡単です。

聖書の最初の部分に、神が人に伝える教えの全ての完全版が書かれているから重複していないのです。

中学の数学の教科書に、九九表なんて書いてないでしょう?

それは、皆が小学2年生で習う九九を知っている前提で、中学の

数学の教科書が書かれているからです。それと全く同じ!

最初に書いてある事を、敢えて繰り返していないだけ。

九九表がないから、九九の計算法や仕組みが無くなった訳ではないでしょう。

そして、聖書はモーセの五書の教えを理解している前提で、全てを話しているのです。聖書のどの書も、モーセの五書を100%支持して、解説しているのです。

詰まり聖書のどの箇所も、モーセの五書に記された教えにつながるものであるからです。だから、神の言葉のどの箇所でも、違反する思想は、神の言葉の全体を違反してると神が教えているのです。現実にそのようになっているでしょう。

 

愛が大事という教え。神の教えではなく、愛が大事?なんとな〜く分かったようで、全く意味がはっきりしない定義なのです。

なぜなら、神が伝える愛とは、トラー=神の教えに根付き生きる上で成り立つものであり、神の教えのどの箇所も、イエシュアが

示した通りの愛で、神の教え=トラーの全てを生きると教えているのです。人が考える〜が愛だとか、愛とはこうあってほしいという、そのような人間が考える定義と、神が伝える愛とは全く別物です。神の愛の全ては、神の言葉に根付いて生きる事だからです。これは、今のLGBTQでもよく分かる事でしょう。

愛し合っていれば、同性同士でもよいではないか!その愛の定義は神が伝える契約の中に生きる愛とは、東と西ほど遠く離れた

別物異物の愛の定義です。

だから、イエシュアが教えた教えはモーセの五書、キリストの

律法と訳してしまっていますが、イエシュアのトラーは、イエシュアが示した通り、イエシュアが定義する神の言葉の意味で、根底にあるのはイエシュアの愛の生き方で、神の教えの全てを生きて表現する事だと教えているのです。

キリストの律法と、モーセの律法、正しい言葉に直しましょう。

イエシュアのトラー=教えと、モーセのトラー=教えは、同じ!

この事実に気がついていない人が、イエシュアとモーセが別物の教えだと語っているのです。

本当の勘違いの連続なのです。イエシュアも使徒も預言者も

聖書には、モーセの五書以外の別の教えを語っている箇所は1つもないのです。

人が生きる全てが書かれているのが、モーセの五書です。

そして、聖書の他の箇所はどれも全て、モーセの五書に対する

解説が書かれているだけだからです。

神の教えは異邦人には関係ない、だから異邦人は、神の言葉を

ユダヤ人のように学ぶ必要がないと言っていますが、本当にそう言う通りに、異邦人は現実に、神の言葉などちゃんと学んで理解などしていないのでしょう。

では異邦人は一体何を学んでるのでしょう?神学という人が考えた思想で、翻訳聖書を人の思想神学で読み解くことをしているのです。ある部分は聖書の事実でも、その大元の土台が神の教えが

終わった、分断された別の2つの教えなどと、神の言葉の土台を

根底から覆す土台を元に、全てを語っているでしょう。

 

事実、異邦人はユダヤ人ではないから、聖書を丹念に学ぶ必要がないと言った異邦人教師の言葉どおりになっています。

だから神の言葉、教えを正しく理解できていない穴にはまっているのです。

異邦人は、神の言葉を学ぶことが、神に対して最も崇高で深い

アヴォダ=礼拝であると知らないのです。神を知るという行為は神の言葉を探究すること、神を求めよと神が言われた言葉は、

神の言葉を探究し、神が伝えることを人が知ることを熱心に求めよ!という意味なのです。一体どうやって神を知ると考えていますか?霊的ふわふわ、感覚の世界を想像していたら見えません。

神=言葉=聖霊です。

神の伝えた言葉の意味を正しく理解しないなら、どうやって生きるのか不明という事だからです。神が伝えている言葉が聖書には書いてあるのに、その意味に気がつけないのです。なぜ?

神の古い教えは異邦人には関係ないから〜異邦人は関係ないから、古い箇所など学ばなくてよ〜いと主張する教師達に教えられているからです。教師が神の言葉を正しく丹念に学ばないなら、生徒が聖書をよく理解する訳などありません。しかも、人の思想を通して翻訳聖書だけ読んでいたら、分からないことだらけなのに。

確かに異邦人にはデイスアドバンテージがあります。なぜなら、

パウロが言った通り、先祖代々異教神の教えの文化で根付き、

育ち、イスラエルの神の教えを全く聞いた事もない、ユダヤ人のようにトラーを聞いて育ってなどない。何も知らない契約から

遠く遠く離れた、無割礼のもの、イスラエルの国籍もないものだからです。

そして、異教の国々に散らされても、ユダヤ人だけが、ヘブライ聖書をずっと固くガードし、子供達にヘブライのトラーを教える教育を今に至るまでずっと施して来たのです。それは、神がイスラエルを選んだからです。神の言葉をガードし、世界へ伝えるために。だから、彼らが本当にメシアを知った暁にはすごい事が起きるでしょう。

ユダヤ人で、変な思想に染まっていない、テモテのように幼い頃から、トラーに親しみ、根付き、生きている、正しくヘブライ聖書を学び続けて理解してさらには、メシアを受けている人達が知っているトラーの中身。そらを教えられると、その中身がプロと素人の差で分かる通り、雲泥の差があります。どの世界も同じですが、プロに習うのと、素人が教える内容とでは、歴然とした

差があるからです。聖書の世界も同じなのです。

だから、イスラエルの神は、神の言葉を正しく知り、人に伝えて生きる代表として、イスラエルを選んだ理由がそこにあるのです。パウロがどうして異邦人を教える役割を与えられたのか、分かります。当時のメシアを知り同時に、パウロ程トラーに精通した学者はいなかったからでしょう。

頭脳が悪いとか良いとか、そういう問題はないのです。

世襲制度的な、先祖代々染み付いて教えられてきた、トラーを

知って生きる事が、ユダヤ人には継承されてきているからです。

イスラエルでさえ、高きところの礼拝をずっと混ぜて来た失敗があるのに、異邦人なら尚更、元々神のトラーを知らない自分の

思想や異教徒思想を盛り込んでしまう危険が満載だったのです。

でも、神はご存じです。そして、神の言葉に応答する残りの民を確保しているのです。イスラエルと異邦人の中に。

負の連鎖の思想を持つ教師=神の言葉が聖霊そのものであり、

神と直結する方法であり、神の考えを知る術であるのに

それを捨てる、重要ではないと、教師にそんな聖書に関しての

意識を植え付けられ、教えられ方をする場合は、本当に悲劇なのです。豚に真珠、真珠の価値を知らない人が、真珠をドブに投げている。

新約聖書だけ読めばよい?そこだけ読んでも意味は不明です。

マタイの福音書の冒頭にはイエシュアの系図があるでしょう?

その意味は、前がある、その継続だからです。

途中から読んでも、よく分からないのです。人の書いた書物も

下巻から読んでも分からないでしょう?

途中から読んでも分からない。空想で読み込んでいることが多いのです。あることは、分かっても、誤解の連続をしているでしょう?書いてある言葉の意味も取り違えています。

大体、神の言葉終わりありきの西洋宗教思想を土台にして聖書を読んでいるスタート地点からして、ずれているのです。聖書は、最初から最後まで同じことしか、書かれていないことを読み取れていないのです。そんな思想で、聖書を曲げて読んでいる、そのことが大問題。そして、自分たちが習って来た、西洋宗教の文化や習わしや、儀式や、習慣や礼拝を想像して、福音書以降を読み込みしているから、なおさら真実が見えない。

福音書以降の中に書かれているのは、カトリックやキリスト教の宗教の教えや活動や礼拝ではなく、ヘブライの世界、モーセの五書、トラーに根付き生きていた人たちのことしか、書かれていないのです。異教神の寺バシリカを自分たちの礼拝場に変更し、建物の上に十字架を立てて、そこを礼拝堂とする、そんな事は1世紀のエルサレム、イスラエル、周辺国でも行われていませんでした。

日曜礼拝も、クリスマスも、イースターも、幼児洗礼もない。

日曜礼拝席上献金も、日曜日にやる聖餐式もない。

彼らがやっていたのは、聖餐式ではない、過越の晩餐で行う、

種無しパンと4つの杯の儀式。

パウロがコリントの人たちに教えているでしょう。1コリント5と11章で、「過越の晩餐」を祝う心構えを。

シャバットでは、2日分のパンを表す普通のパン〜ハーラーを

裂いて、ワイン〜喜びの印であるワインを乾杯し、ご馳走を食べて盛大に祝う。そして過越の出来事を思い出す。

シャバットは贖い出された人達、婚姻契約を与えられた印として

与えられ、代々永遠に祝われるわたしの記念日だと神が言ったからです。

今とは全然違う、生粋の聖書の世界、トラーを生きていた人たちがいただけです。男の子が生まれれば8日目に割礼を授けた。

現代のように、トラーは廃れた、きよくない動物でもなんでも

食べて良い時代になった、今ではいつでも人が考える日が安息日などと非聖書的思想を言う人は誰一人もいない、それが福音書〜黙示録に書かれている人達の生きた世界なのです。

クリスチャンはそのように福音書以降を読んで、理解していません。

何を話しているのか、最初の部分が分からなければ、誰かが電話している片方の会話だけを聞いているその話の内容を空想しているようなものと同じです。

聖書の最初の部分を知らないならば、最後は単に、タナックに

対する短い後書きなのですから、最初の全部が分からないなら、抜粋読んだけでは、全貌は見えない。

しかも、福音書以降には、西洋教父の思想のせいで、書いてある意味を曲げて解釈しているオンパレードなのですから、聖書の最初の部分を理解していない場合には、後書きだけ読んでも不明なのです。不明であり、神の言葉を誤解したまま〜神の言葉は廃れて新しい教えを読んでいると勘違いしたままになります。

現代の宗教〜人の思想で聖書を読んでいるから、自分の宗教文化を想像して勝手に読み込んでしまっているのです安息日=シャバット=第7日目を日曜礼拝と、聖書に書いてある事を人の教えで塗り替えて、完全に記述を無視して平気で読み違えているでしょう?不思議でしょう。どうしてそこまで、書いてある事を曲げて

書いてない読み込みが出来るのか。

事実、クリスチャンは完全に7を1に読み替えしています。

永遠普遍の神の言葉を暫定的で変化する神の教えと読み込んでいる。

イエシュアはトラーを破棄しに来たのではないと言っているのに、ジーザスはトラー=神の教えを終わらせるために来たと言い続けているのは、なぜ?不思議な思考回路でしょう。

神の言葉を廃止するために来た?

イエシュアはサタン=神に敵対する者ですか?元の言葉に直すと、変だという事が分かるのです。

全部最初からやり直さないとならないのです。土台が歪んでいるから、神の言葉終わりありきの歪んだ非聖書思想の土台の方を、全部壊す!

そして、土台=神の永遠普遍の言葉=トラー=モーセの五書を

正しい位置に戻す。永遠の礎として揺るがないものとして、

その地位を神が伝える通りに戻す!それが本当の悔い改めです。それがない限り、ずっと人の思想で聖書を歪めたまま、半分本当

半分嘘の教えを信じる、宗教を生きる神の意図とは違う信仰生活のままになります。