巷でよく伝えられている聖書と信じられている教え | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

巷には、様々な教えが流れています。

今はネットの時代ですから、オンラインで様々な情報に触れる事ができます。

何が正しい情報で、何が偽情報なのか、見分けることが必要です。昨今では、メデイアがある本物の情報を隠すために、違う

偽の情報を意図的に流したり、既得権益の領域に踏み込む、触れてはいけない領域にメスを入れる人達を、意図的に潰す、除外する、最悪なケースは、その方は残念ながら〜〜されましたというような報道。そのようなことをしているのですから、何が本当なのか見分けるのは大変。大衆メデイアを通して、人は洗脳されてしまうからです。

 

古代の洗脳は?方法は?今と同じ、人の上に立って教える人達、教師達を通して教えられてしまう、偽情報。大衆が語る不真実。

進化論など、無神論の代表の偽の教えですが、世界へうまく浸透しました。

古代、1世紀後半の異邦人の世界の聖書、信仰に関する情報源はもっぱら西洋教父達が語る教えのみでした。しかも、それら全て口頭伝達です。個人個人で聖書を誰も持っていない、文字を読む教育を受けている人は少ない。もちろん、ヘブライ聖書の中に

何が書かれているのか、異教徒背景の西洋教父達は、知らない、それどころか、彼らこそが、ヘブライ聖書を読む事、学ぶ事、

生きる事をユダヤ人達や他の人々に禁じた張本人達なのです。

元の聖書に何が書かれているのか知らない人達が、彼らが編み出した思想、考えで、モーセの五書を生きる事を、信者達に禁じて、勝手に独自の教えの数々作り出し、伝達されて、教えられてしまった事を書きました。

 

だから、今でさえ個人の手元に聖書があり、神は昨日も今日も永遠に同じ、変わらない、神の言葉は完全であり変わらないと、聖書に書いてあるのにも関わらず、実際には書いてある通り、そのように読んでいないことぜひ不思議に、疑問に思ってください。

人の思想で神の言葉を曲げて、神の言葉は変化した、神の言葉=契約はユダヤ人だけのものなどという勝手な教え、発想は、神の言葉ではなく、その思想を作って刷り込んだ教師達の負の産物なのです。神の言葉の方を曲げる、人間の思想の方を、異邦人クリスチャンは刷り込まれ続けているのです。

そして、その教えは聖書ではない。

様々な表現を聞きます。律法に戻るのか〜信じたらユダヤ人的な事は生きるのはやめなさい〜律法は廃れた〜、律法は生きる必要がない〜信じたらユダヤ人をやめなさいとユダヤ人に対して言う。

それら全て、西洋教父、そしてルターの言葉、考えそのものなのです。神の言葉ではない。

 

律法という翻訳も、元のヘブライ語の言葉、トラー=教え、

インストラクションという意味を反映していない言葉です。

この言葉を元の言葉に言い換えてみると、変な事、神に違反するを言っている事に気が付くと思います。

 

神の言葉、教え、インストラクション(完全で永遠普遍)に戻るのか〜、信じたらユダヤ人的=イエフダ=ユダヤ族のイエシュアのような事は生きるのはやめなさい〜神の完全なる言葉、教え、

インストラクションは廃れた〜、神の言葉、教え、インストラクションは生きる必要がない〜!元のヘブライ語の意味に直して読んでみると、言っている事が変だと、気がつきませんか?

神の言葉に逆らえ〜終わりだ〜そんな教えは聖書ではありません。この言葉=声はどこが出どころ?

神=聖霊?それとも、悪霊?どちらかでしょう。

 

「そもそも、元々異邦人は、神の契約の中には加えられていない、関係ない、契約に記された生き方をする必要がないのです。」

 

これも、前記したように、ユダヤ人、異邦人全て、イエシュアを通してイスラエルの神の元に贖い戻された人は、同じ契約を生きる!と神は教えているのです。もし異邦人は契約を直接受け取ってはいないから契約は関係ないと言うならば、イスラエルの神=イエシュアとも、異邦人は何の関係もなくなるのです。

神の教えの基本中の基本を理解していない理由は、神の言葉を

否定し、モーセの五書を生きるのを禁じた異邦人教師達=デイスペンセーション神学を考えた人の思想のように、ユダヤ人と異邦人を分裂させて考えている、ズレた思想が原因です。

神は1つ=エハッド=一体として造られた人を、1つに戻す、

それが神の壮大な修復プランなのに、異邦人神学の思想は、真逆の分裂思想を語っているのです。神と共に建てない人は、壊すものという事になるのです。

 

マタイ12:30 わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。

 
反対するもの〜神の言葉に反対し逆らうもの事だと知っていますか?人に対しても同じですが、その人の考えに反対すること〜
逆らうことであり、神の言うことに協力して働かないとは、神の計画を散らすことだからです。

異邦人は契約の中に加えられていない、イコール、イスラエルの神=イエシュアとも関係はありません!「わたしはあなたを知らない」とイエシュアが言われた意味は、「私の名だけ利用して、私の言葉=契約〜トラーに違反した生き方をしている〜無法=

アノモス〜トラー無しは、わたしと契約に基づいて関係を持って人達ではない」という意味を、イエシュアが言われたからです。

イスラエルの神の契約に遠く離れて、イスラエルの国籍もない

無割礼の異邦人は、イエシュアを通して、同じイスラエルの神〜同じ契約=天の共同相続人になったと、パウロも書いているでしょう。

もし、異邦人が神の提示された契約に関係ないならば、その場合イエシュアとも関係ない、神との関係の根拠がどこにもない、

契約=神の約束、補償、祝福とも全く関係ないという意味です。

 

異邦人は、イスラエルの神がイスラエルへ代表として与えた同じ契約に加えられると書いてあるのです。だから、出エジプトした人たちはイスラエルだけではない、異邦人もいたでしょう。

エジプトで同じようにイスラエルの神の言葉をモーセを通して

聞いて、考えた異邦人。神の言葉を信じて、子羊の血を鴨居に塗った異邦人たち。

シナイ山の麓で契約が与えられる、あのシャヴオートで、異邦人もイスラエルと共に一緒に言ったでしょう。

 

出エジプト24:3 モーセはきて、主のすべての言葉と、すべてのおきてとを民に告げた。民はみな同音に答えて言った、「わたしたちは主の仰せられた言葉を皆、行います」。

 

契約がある。ただの契約ではなく、婚姻契約。それは法的保護、

約束が伴うものです。単なる口約束ではない。永遠に崩れない、壊されない神からの補償、約束で私達が守られている根拠、

証拠。

契約に関係ないと考えるのは、その思想は聖書を正しく理解していないからです。

新訳だけが異邦人に関係がある?これも、ものすごく逸脱して

非聖書的思考回路なのです。

福音書以降は、最初のトラー、そして預言書、諸書の抜粋の註解だけが記されている箇所です。モーセの五書とは、内容が別の新しい契約書などでも、ありません。

その箇所は預言者ではなく、使徒達が書いた書簡です。

そして、使徒達は、タナックに記されていない新しい教えなど、何一つ書いてなどいません。

中身がモーセの五書とは別の新しい契約などでもないからです。

聖書の最初〜モーセの五書が、神の人への教えの完全版であり、

ヨシュア〜マラキは、全てモーセの五書に記されたことに対する、解説なのです。福音書以降は、最初の部分の短い後書き。

 

「神はユダヤ人とだけ契約を結んでいるので、ユダヤ人は神の

トラー=律法=旧約聖書を学んで生きる責任があるのですが、

神の契約に最初から関係のない異邦人、特に現代の異邦人には、神の言葉は、遠い古代に語られた、時代錯誤の教え、異文化、

異国、別の民族の人への教えなのですから、今の私達異邦人には、当てはまらない、神の教えなのです。」

 

これも、同じですが、イスラエルは、契約を受け取る代表として選ばれただけです。イスラエルが受け取った同じ契約の中に、異邦人も加えられているのです。だから聖書を読んで、神の約束とクリスチャンも信じているのでしょう?

最初の部分が関係ないなら、福音書以降も異邦人には関係なくなるということに気がついてないのです。神の約束も、保証も何もかも異邦人には関係ありませんという事になります。

イスラエルの神の元に戻るのは、どの人種でもイエシュアを通してだけ!これ以外の救いの方法は人類には無い、与えられていないのです。でもキリスト教の教えはユダヤ人と異邦人の救われた方が違うなど、聖書とは関係のない、人の思想を異邦人は語っているのです。

時代錯誤の教えという点ですが、古代の文化、生活と、今とは異なることがあります。でも、神の教えの真理は不滅、普遍です。

例えば、祈る時に頭に被るショールが、同時に寝具、掛け布団にもなる、そのようなものを持ち歩いて生活してるなど、イスラエルでもしていませんが、そこで教えられているのは、衣の四隅に付ける房です。これはマタイ9章の長血を煩う女性、そしてマラキ書の預言にも繋がるものです。

私達は、イエシュア=生ける水を内側にたたえている、土の器です。土から造られた仮の体の中に今生きていますが、聖霊=イエシュアが内側に既に住まわれています。

その人達は、どこの場所で生きていても、生ける水=イエシュアを環境に、周りに運んで生きる人である事を教えているのです。4とは、世界の四隅、神の創造された世界の四隅に、イエシュア生ける水が流れて、その水の流れるところ、全てが生きると

教えられている通り、私達が聖なる民であること、イエシュアを

代表して地の塩、世の光として生きていることを教えているのです。

モーセの五書の中に記された神の全ての教えは、人が理解していないだけであって、神は人に1つ1つ大事な真理を教えているのです。

クリスチャンが十字架を身につけるならば、神が与えた印を取り入れたら良いのです。神がそうするように教えている、神の仰せだからです。衣に房は付けられないならば、ハンカチの四隅に糸をつけて、リマインダーにすることができます。

十字架は、神が与えた印ではないのです。クリスチャンの中では主の死と復活を思い出させるものとして付けていますね。

でも何の意味も知らない普通の人も、今では十字架をファッションとして身に付けています。

神の与えた印日々のリマインダーになる印は聖書に書いてあります。

そして、これは、簡単には説明できませんが、多くの教えは、

神殿の中に入る時に関する教えです。

でも、その中で教えられていることは、実際にエルサレムの神殿に入らなくても、神が教えている真理なのです。

神殿=イスラエルの神の家だからです。

神の家〜神殿に入れない状態とは、死=命と切り離された生き方

をしている場合です。そして、罪を犯しているということではなくても、例えば死体に実際に触れる人は、それだけで、けがれた状態になると教えていますが、罪を犯したのではないのです。

又は、出産後の女性は罪を犯した状態だから、汚れているのではないのです。

死や、体から出血、漏出物があるとは、本来の状態ではないのです。人は死を体験するように、最初から造られていません。

別離を体験するようには、造られていない。

だから、死に触れると、本来の状態ではなくなります。

本来の状態で生きていない場合に、同じように周りにも死の影響を与えてしまうことを教えています。

当時、神殿が存在する時に、神殿=神の宮に入れない状態を

詳しく教えています。神は神の子らの状態、生き方が、神の性質どおりではない状態では、神の家の中に入れないこと、泥の土足のままで、畳の部屋にはあがれない。それがふさわしくないから、教えているのです。これはちゃんと聖書を学べば、得にレビ記を学ぶと、深く見えてきます。

この中には、新しくされている事実、イエシュアのされた業の

全貌、赦し、贖い、そして神の前にどのように近づくか、修復するのか、どのように癒されるのか、神は私達を新しくされた人としてだけ見ていることが分かる、すごい内容が書いてあるのです。

ここでは、詳しくは書きません。詰まり、聖書に書いてあることで意味不明、面倒、厳しいなどと読者が受け取るならば、それは

神の伝えていることをその人が理解していない!神から意識が遠く離れた状態であるという、それだけなのです。

だから、熱心に神を求める〜神の言葉で伝えている真理を求めよ!と神が伝えているのです。それがないなら、どうして神が考えている事が理解出来るのでしょう?という事だからです。

神の言葉は間違ったことを、人に伝えなどていません。

神の言葉が厳しすぎるとか、むちゃだと考えているのは、

エデンの園の内側から、外側に飛び出して閉じ込められた状態のままだから、神の言葉の真実が見えないのです。

人を、縛り付ける厳しい律法の教えなどと、西洋教父達の教えを

刷り込まれていて、神の言葉を正しく聞いていない状態にあると

気がついてください。

 

続く