一般的に語られる教えは実は聖書に根拠がない教え | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神の教え、神の考えていることを理解するには、神の言葉で教えられている意味を、まず正しく書いてある通りに知る必要があります。

神の言葉を捨てよ!と、神の言葉に根付いて生きる意識を異邦人が禁じて、尊とむべき神の言葉を生きることを禁じて信者達に命令し、神の言葉の宝を人々から剥奪した異邦人教父達。

異邦人教師たちのその、神に対する反逆的行為の負の遺産のおかげで、私たち異邦人イエシュア信者は、神から与えられた宝、

祝福が奪われてしまってきたのです。そして、人の作った教えや記念日〜宗教の教えを実践することにすり替えられてしまった。

 

聖書は誤りのない完全なる神の言葉だと言いながら、聖書を2つに分断し、最初の部分はユダヤ教〜ユダヤ人への教え、最後の部分はキリスト教の新しい教えだと疑いもなく信じ込んでいる。

イエシュアを通して全ての人が父の元に戻る、これ以外救いの方法はどの時代の、どの人種にも与えられていないのに。

イエシュアを通してイスラエルの神の1つ家族にされたのに、

異邦人とユダヤ人別の教えを生きる?同じ人間でしょう?

神との関係は、神が提示した婚姻契約を生きることと教えているのに。

神の言葉を呪いの律法と考える異邦人と、神の言葉を祝福と約束と守りである理解している残りの民の意識の違いがあるのです。

 

神の教えに根付き、神のシャバットや祭りを祝うことで、もっとイエシュアの業の意味を深く深く、更に毎年毎年繰り返し繰り返し、一年に渡り神から、様々なことを教えられるものです。

神が創造された記念日を祝うことを、異邦人クリスチャンは捨てよと教えられた悲しい歴史〜その代わり人間が考えた教えや、

記念日を祝っているとも、全く気がついていないのです。

神の創造された全ての記念日は、全部イエシュアの業そのもの、贖い、救い、新しくされている事実そして、修復を表して、教えているものであることを知っていますか?

そして、それらイエシュアの業は地上でも、実際に行われた、

これから行われる預言的祭りであることを知っていますか?

古代の人は、イエシュアが地上に来られる前から、色々な方法をで、メシアの事実を教えられて、理解していたのです。

どの時代も同じく、聖霊を内側に受け取って、同じく贖い、許し、救いを受けていたのです。

過越の祭りなど、直にイエシュアの贖い、救い、新しくされている復活の命を得ている事を教えているものです。

ミシュカン=移動式神殿=固定式神殿で教えられたこと、全て

イエシュアです。聖霊=神、イエシュアが共に住まう事実を五感を通して、体験的に教えていたのです。そして、人が神にどのように新しくされ、神の前に傷のないもの、芳しい香りとして受け取られているのか、どのように神に近づきどのような状態が、

神から切り離された実態なのか、そしてどのように神と人と修復癒されるのか、神殿での全ての一連の儀式、コルバンを通して教えられているのです。それがモーセの五書に書いてあるのです。

 

神殿はユダヤ教のものなどと解説している人がいますが、

一旦ユダヤ教、キリスト教という概念を全部捨てて、神の言葉だけに戻って下さい。エルサレムの神の神殿は、イエシュア=イスラエルの神の家!クリスチャンが関係ないというならば、それは

あなたはイエシュアと関係ありません!ということになるのです。

神の家は1つです。地上で天の神の家を表す家、場所はエルサレムの神殿だけです。未来にイエシュアが戻られるのは、エルサレム。ローマではない。

ユダヤ教=メシアを知らない人の教え、キリスト教=キリストの救いを受けた人の新しい教え、それらの概念も聖書とは全く違うものです。神の言葉は創世記〜黙示録まで全部同じです。創世記の最初、エデンの園の中から、永遠に屠られた子羊の血の贖いは教えられ、実際にアダムとハヴァに与えられていたからです。

そしてモーセの五書の至る所にメシアが教えられ、実際に、イエシュアは人に現れ出ています。

イサクがモリヤ山=神殿の丘で神の命じで屠られるそうになった

あの出来事は、イエシュアの贖いの羊のコルバン、そのものを教えているものです。

神ご自身が、贖いを備えていることを、教えているでしょう。

それをアヴラハムもイサクも、イエシュアの贖いの意味をはっきりと理解している。彼らの内側には聖霊が住まい、神との関わりの中に生きていたことが書いてあるのです。

ヨセフの人生の出来事も、全てイエシュアを表しているものです。分裂した家族〜エデンから出た家族は、兄が弟を妬みで殺した。人類初の殺人事件は、家族の間で行われた、これ以上に重い罪はないでしょう。

神の言葉を捨てる〜神になり変わりたい〜その人の罪の代償は死であり、神との隔たり、そして実際に、神の似姿に造られた人間として一番外れた行為、命の破壊が行われたのです。

夫婦の関係の破壊、崩壊、家族の崩壊が最初からずっと聖書には書かれています。主にイスラエルが通った人生の出来事を通して。12部族〜70人、この数字は、意味があります。

エジプトに降った12のヨセフの兄弟、その家族は70人。

シナイ山で婚姻契約を受け取り、イエシュアとシナイ山の上

天の中で、婚姻契約の契りを交わした祝宴をしたのも70人の

長老です。イエシュアの12弟子の数字も同じです。

約束の地に入る前に偵察に送られた人も12人です。

 

エジプトに上り、長居して四百三十年の間、異教の神々の地で

培ってしまった異教神の教えの影響を受けたイスラエルが、

子羊の血で贖い出された。

これは私達イエシュアの血で贖い出された異邦人の歴史とぴったり同じです。

そして、出エジプトしたイスラエルと、少数の異邦人が遭遇したのは、エリムの12のオアシスと、70の棗椰子の木です。

異邦人はイスラエルの12部族の中に加えられ、イスラエルとして数えられていた事実を、知っていてください。神はイスラエルと異邦人を1つの家族としている事実を最初から教えています。

 

オアシスは、イエシュア〜生ける水です。そして、7という完全を表す数字の10倍の70、ナツメヤシは、新しくされた人の

実態を表すものです。天に向けてまっすぐ生えている木、両手を天に広げて喜びが溢れ出す姿に見える木。贖われた人の姿です。

なつめやしの枝は、イスラエルの国旗でもありました。

だから、1世紀イエシュアの過越の祭りの前、屠られる子羊が

神殿に入った同じ日に、イエシュアもロバの子に乗り神殿に

入られました。その時に、イスラエルはローマ帝国に逆らわない方法で、自分達の国を表すしゅろの葉〜やしの木の葉を振って

イエシュアを歓迎したのです。

 

イエシュアが再び来られたら、エルサレムのイエシュアの家=神殿から、イエシュアは王の王として、全世界を統治するのに、神の国は異邦人には関係ないというその思想は聖書ではないことに気がついて下さい。その日には、人間の教え=ユダヤ教やキリスト教など何もなく、純粋な神の言葉=トラー=モーセの五書=婚姻契約に記された神の言葉を皆が生きる時になる。

それがエレミヤ31章、イエシュアの過越の晩餐で語られた

再更新される同じ婚姻契約を生きる時が来る預言なのです。

 

契約が新しくなる〜再更新される中身は同じ婚姻契約=トラーとは、未来に実際にイエシュアが来られた暁には、どの点が違うかというと、レビ族のアロンの家系の大祭司ではなく、ユダ族=ダビデ王の家系であると同時に、始まりも終わりもないメレキゼデク=義の王=天の大祭司の位に属するイエシュアが王の王であり主の主〜大祭司として、エルサレムの神殿から世界を治める!

その違いがあるだけです。シナイ山の契約では、ユダ族の王は

レビ族の大祭司にはならないからです。

でも、本物が来られたら、地上で影の役割で天の現実、天の大祭司=イエシュアの代役をしていた、レビ族のアロンの家系の男子のお役目は終わりになる!この違いだけ!

それが、ヘブル書に書かれている内容です。でもクリスチャンの間では、最初の契約=モーセの五書は終わり!などと、勘違いしているのです。祭司制度が変わる話をしているのです。

神の教えの中身は何も変わりません!永遠に。神に創造された人間は同じだから。天国は未来に行く場所で、そこを目指すと考えているのですが、ヘブル語では、天が地に降りてきて2つのものが1つになると書いてあります。天が地に降りてくるのです。

勘違いに次ぐ、勘違いは、前提がずれている〜モーセの五書=

神の教え、言葉が廃れたという間違った思想と、そして聖書に何が書いてあるのか、正しく学ばない教育の欠如のせいなのです。

 

今世界では、キリスト教の教えの世界で、一般的に教えられ、

実践されて来たことが、実は聖書ではないことがたくさんあると

発見しながら、神の教えが1つであり、永遠普遍という事実に迄中々辿り着けない、中々発見できない途上にある人もいます。

でも、神の言葉の真実をずっと追求して行くならば、神の言葉は廃れてなどいない、神の教えや記念日は何も変わっていないことを、求め続ける、探し続ける、戸を叩き続ける人は、必ず神が伝えている永遠の真実をいつか発見します。神の言葉の真理にだけ止まり考え続ける場合、神の言葉=聖霊が気がつかせて下さるからです。言葉=聖霊だからです。

 

どの時代も、どの人種も、イエシュアの贖いの血=子羊の血を

信仰により受け取り、聖霊を受け取った残りの民たちのことが

聖書には記されているのです。

アダム、ノア、アヴラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、イスラエルの民、預言者たちそして、名もない聖書にも記されていない

普通の人々〜残りの民はどの時代にも存在しているのです。

異邦人タマルや、ルツも同じです。彼らは、ユダ族=ダビデの家系のメシア、イエシュアの祖先を生んだ母なのです。

 

イエシュアが2000年前に来られる前も後も何も神の教えは変わっていません。救いの方法も、贖いも、許しも、聖霊が人の中に住まう事実も、そして、神の教えも一点一画何も変化していません。

変わった事実は、文字で記された神の言葉=トラーが全世界へ

異邦人へ、運ばれて行く、終わりの時代に入っただけです。

イザヤ2:2-3

終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。
多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。

主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。

 

みおしえ、主の言葉=トラー=モーセの五書の事であることを

知ってください。

この箇所、ヘブライ語では、こう書いてあります。

ご自分の道とは、ダレヘイ 彼の道=イエシュア=トラーの義を生きることの中と書いてあるのです。

そして、トラー=神の教え=モーセの五書、ダヴァル=言葉、

トラー=神の言葉がエルサレム、シオンから、世界へ出て行く

これが、使徒2章以降起きている預言です。

神の教え=トラー=モーセの五書=神のご自身の言葉が世界へ

伝えられる!人が作った宗教の教えが伝えられるのではないのです。でも、残念ながら、神の純粋な言葉が、人の思想で歪められ異火、異物の教えが神の言葉の中に混入して、異邦人の世界へ神の教え、トラーが歪められ、ヘブライのイエシュアではなく、

ローマ化けしたジーザスが世界へ伝えられてしまいました。

でも、聖書ではない人の思想で語られる聖書解説が、神により

修正される、終わりの時代に入ったのです。

個人が、聖書に基づき考えれば、神は必ずその人に、神の言葉から真実を教えて下さいます。

ガテマラで、数人のご婦人が聖書を学ぶのに家庭で集っていて、聖書を読み続けていたら、その中に、ずっとシャバット、シャバット、シャバット=安息日=第7日目が書かれているのを皆が発見し、一人が神の教えていることの意味に気がついて泣き始め、それぞれが聖霊=神の言葉により、神が伝えている永遠の真実〜神は神の言葉も記念日も変えてなどいない!そのことを発見した。いや聖霊により書かれた言葉に、聖霊によりその事実を教えられたのです。聖霊が臨まれて、皆がひれ伏して泣き出した出来事を、私を教えて下さるもう一人の先生が、教えてくれました。

そして、そのご婦人方は、「あなたの創造された記念日、私たちに与えて呼び出して下さっていた日が、シャバット=第7日目であることをずっと今まで知らずにいました!」と告白し軌道修正〜悔い改めをしたのです。

そうですよね。神が今も呼び出している特別な日に気がつけない。

聖書に書いてあるのに、それらは廃れたという異邦人の教えの声を完全にかき消す、聖霊=神の言葉が彼らに臨んだのです。

神の言葉は聖霊ご自身です。だから、聖霊が書かれた神の言葉を聖霊ご自身が歪めたり、変えたり致しません。人が神の言葉を歪めて、変え続けている!それに気が付けば良いのです。

聖書に照らし合わせて、確認すれば良いのです。

私自身も聖書を正しく理解していない、多くの誤解した解釈の、宗教の教えだけを聞かされて、宗教の教えを生きるように考えていました。でもイエシュアに出会ったのは、神の言葉から、直接メシアを知った体験があったので、神の言葉は人に神を知らせることができるという、大きなことを教えられていました。

それは、神の言葉は人に神の真実を必ず明かして下さること。

たとえ偽の教えに騙されていても、神の言葉を忠実に知ろうとする人に、神は定められた時に必ず真実を教えてくださいます。

そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたを自由にします。

このイエシュアの言葉は真実です。

人の教えこそが、人を奴隷にし、人を縛り、神の教えを遮り、

盲目にし、神との隔たりの壁を作り続けて、真実を見せなくさせているのです。

ある部分は真実であるけれど、その土台=モーセの五書を、終わった廃れたという嘘で歪めた土台の上に建てた家は、当然のごとく歪んで行きます。

歪んで聖書とは辻褄が合わない部分を、又人が考えた思想で補修し続けているだけです。だから、それら神の言葉を否定する教えは、どんなに小さい教えでも、聖書ではない。

 

続く