異邦人の世界でされてしまった神の言葉=婚姻契約=トラーを
捨て去った教えは、2000年近くに渡り浸透し根付きました。
ヨハネが警告した「はじめの愛」=婚姻契約=シナイ山で与えられた契約=モーセの五書=トラー=イエシュアが生きて教えた
教えを忘れた!と、ヨハネは言っているのです。
そのヨハネの言葉通り、カトリックやプロテスタントが、イエシュアや1世紀の人々、太古から語り継がれた同じトラーを生きる事、同じ福音、太古から祝い続けられてきた、イエシュアが祝った、シャバットや新月、過越や、仮庵の祭りを、なぜ祝わないのか、ぜひ不思議に思って下さい。
それは、神がイエシュア昇天以降、それらの記念日を祝う事を
終了し、それらの記念日は古い律法の教えで破棄、廃止され、
祝う事を神が禁じ、又はそれぞれが考えるところを勝手に生きて良い自由の時代になり、今までに無かった新しい教えは、昇天を祝う日の意味付けが加えられた日曜日に礼拝日=安息日、主の日、聖日と変更になり、神の祭りは全て廃止された?
その代わりに西洋人が考えた異教の神の名が付けられた、異教神の祭りの日と一緒の日に、クリスマスやイースターという記念日を作り、祭りの意味をカトリック的に変えて、大衆に受け入れらていた祭りと、同じ時期に祝うように既存の異教神の祭りに便乗させて作った。しかし、それら新しく作った祭りを祝うように、神が変えて教えてのではないのです。
西洋教父達〜神の言葉=モーセの五書を禁じる!と教えた人達が
自分達の考える、神の言葉破棄〜今はなんでも良い、そして自分達が考えて意味付けた、そして勝手に選んだ日を、ユニバーサル教の、記念日であると制定したのです。
イエシュアの昇天と日曜礼拝を紐づけて、それが、新しい記念日
と神が言ったと信じてませんか?イエシュアが昇天された日時は不明なのです。土曜日の日没の可能性もあるのです。
週の最初の日に墓に行ってみたら、そこにイエシュアの体が無かったとだけ、記されているのです。
イエシュアがいつ、何時に昇天されようと、神が、神との関係に
加えられた人々〜贖われた人達に与えた契約が存在する、
永遠の印のシャバット=第7日目は変更になどならないのです。
福音書〜黙示録には、第7日目のシャバットは日曜にはなっていません。変わらずに第7日目のままであり、神の祭りも1つも変わらず、エルサレムの神殿で、コルバンも捧げられて祝われていました。
しかも、日曜日とは、当時大衆に浸透して馴染んでいた礼拝日
ローマ帝国の地場宗教であった太陽神の礼拝日、ローマ皇帝の
崇拝日にちなんで、その日を復活と紐づけて意味を与えて、異邦人に違和感なく受け入れらるように、新しい安息日を西洋教父たちが、神のシャバットを捨てて、すり替えた事実をぜひ知っておいてください。
ローマ教の祭りは全て、異教神の祭りのすり替え、異教神の既存の記念日に便乗して、カトリック的に変えたものなのです。
神は神の教えや、神の創造された永遠に祝われると神の口から人に伝えた記念日を、1つも変えてなどいない事を、聖書から
知って下さい。人の教え=西洋宗教の教えから考えても、神の
言葉の真実には辿り着けません。
だから、聖書だけに戻らないとならないのです。
イエシュアが再びイスラエルに戻られてすぐに祝われるのは、
仮庵の祭りであると預言されています。秋の祭りの一連は、
イエシュアの再臨、そして永遠に主と共に住まう事を教えている
預言的祭りであり、過越と鏡のように反射しあっている祭りで
ある事を知っていますか?
しかも、イエシュアが地上に居られるその日には、全世界、
イスラエルに敵対した国々さえもエルサレムに来て神の記念日祭りを祝う!と預言されているのです。
福音書以降〜黙示録に書かれている、安息日=シャバットは、
全て第7日=神の創造されたシャバットであり、祭りは、春と秋の祭りであり、カトリックの日曜礼拝、イースター、クリスマスの祭りのことなど、聖書には1つも記されていません!
自分で聖書に書かれている事を、確かめれば良いのです。
もし、いつでも安息日などと言うならば、それでは全ての日が
休日になってしまいます。そして、神が人に伝えた人間の成り立ち〜神がされたように、6日の間働いて、第7日目=シャバットする、祝うという、神の暦、真理を消す教えになります。
そして、聖書に記された、普通と特別=聖別の区別が、意味がなくなるのです。神が伝えている聖別の定義が消えます。
こういう思想は、ヘブライ聖書を知らない異邦人思想の特徴なのです。自分の考えで神の言葉の定義や教えを勝手に、自由自在に変えて、自分の考えを編み出すのです。
以前も書いたように、ローマ14章で、「人の意見に関して」と、パウロが最初に言った上で、それぞれの人が考える、それぞれが個人の大事な日という事に関して、パウロが言及しているのです。
それら人の意見を批判しないように、とパウロのアドヴァイスがあります。
パウロは、レビ記23章以外の、一般の普通の日=定冠詞も付いていない、ただの普通の日、その中には個人や国の特別な記念日があり、神が聖別された日以外の事を話しているのであって、
その個人の意見に対して批判するなかれ!と言っているのです。
神の言葉を、人間が勝手にそれぞれが変えたり、又は人間が別物の神の記念日を作り出したり、神の記念日を、神が伝える事とは違う取り扱い方をして良いのだなどと、パウロは微塵たりとも
言っていません。
神の聖別を教える記念日、神の定めの日〜レビ記23章の記念日や、聖別を教える食べ物、レビ記11章食規定が変更になって、今はそれぞれ、なんでもかんでも祈って自由にすればよい、自由に食べることが許されたなどという、つまり神の前に罪を犯してよい!などとも、パウロは一言も言っていません。
レビ記11章に記された神の言葉に違反して良いなどと、パウロが言うわけがないからです!もしパウロが、そのような事を言うならば、パウロは人に、神に対して神の教えを破り、人に神のに対して罪を犯すように勧めているという事に、聖書から気がつかなくてはなりません!
パウロが神のトラーに違反する事=罪を犯すことを、パウロが人に教えたり、実践しない、その証拠は使徒21章に記された、
パウロの請願で、世間、公にパウロが100%モーセの五書を
生きている、教えている!モーセの五書=トラーに違反していません!と証明した、証拠がはっきり記されているからです。
そして、神の使徒である人が、神の言葉に違反せよ、罪を犯して良い!などと決して教えません。
モーセの五書のどの箇所も違反して良い〜その意味は、神の言葉全体に対して違反し、罪を犯すことであると書いてあるでしょう。
もし、パウロが、神のトラーに違反しても良いと教えるならば、
パウロは偽教師と、神に即座に認定され、追放されます。
パウロの書簡は聖書ではなくなり、パウロが語る事を聞くのは
危険と言うことになってしまうのです。
神の創造された記念日を、異邦人教父達が捨てよと教えて、
神の教え=トラー=モーセの五書、そして神の記念日を生きることを、異邦人教父達が禁じたせいで、クリスチャン達は、2世紀以降、神の教え、ヘブライ要素の強い教え=異教徒文化の生活習慣や教えと異なる全てと、神の記念日を祝うことを完全にやめたのです。この神が伝える事実に目、耳を閉じないで、神の言葉を否定し、神が創造されて人に与えている記念日を変える教えは、歴史の中で違反した異邦人教父達、教師の教えであるという事実を確認してください。神が神ご自身である、言葉を神は変えたりご自身の言葉を捨てよ、終了した、生きるな!などと言ったと
考えていること自体が、ズレた土台=砂の上に建てられた家の中で暮らしているのです。
だから、神の言葉を捨てる場合、神の教えや、神が伝えている神の記念日で教えられる意味など、理解できない、いや実際理解していないのです。宗教の教え〜人が作った思想や教えは理解していても、神が伝える神の言葉の意味を理解していないという事になるのです。
覚えておかなくてはならないのは、神の言葉を捨てるとは、神の考えを知る手がかりを、捨てていること!神に近づくすべを捨てている事です。言葉=聖霊=イエシュアなのです。聖霊を否定する事であり、イエシュアを否定する事なのです。神の考えを理解できないまま、あるいくつかの神の教えだけで、考えるだけ。
又は、神の言葉ではない、人の思想や教えの空想の中で、不真実な教えに対してぐるぐる思索を巡らし、考えているだけで、
神の教えが、神の教えを捨てる人には、決して正しく伝わらない状態に陥るのです。
人の教えで、神の言葉を捨てよ!生きるな!という教えを信じる人は、神の前に罪に陥っていても、ズレた生き方をしていても、その罪が何であるのかさえ、神の言葉で伝えられているのに、
何年経っても、気がつけないままになるのです。
なぜでしょう?神が伝える罪の詳細の全ては、モーセの五書の中にしか記されていないからです。そして、それらは神が伝える通り、永遠に変わらない基準であり、神が人に伝える確固たる、人の生き方、デザインを教えている〜ズレとは、神のデザインと外れて生きる詳細を教えている、神が創造した本来の人間の性質ではない生き方を、教えているものだからです。
そして、人の生きる全てもモーセの五書の中だけに完全版が書かれているのです。後の聖書の箇所は、神の教えのほんの一部の抜粋しか書かれていない。人の生きる全ての詳細は、モーセの五書の中だけに、完全版として記されているからです。他の聖書の箇所は、全て100%モーセの五書の解説だからです。
神の記念日は7が全ての中心です。7は完全、完了、完結を意味し、神の完了の業は完結し、そして、人はイエシュアにより新しくされている事実をずっと教えているものなのです。
7日。そして、神の記念日はこの7が中心です。
これは又説明しますが、神の祭りのデザインは、7を巡り教えられています。
人の生きる命のサイクルの1週間は7日間。これは誰も否定できないでしょう?人が7日で1週間を生きるように、神によりデザインされて創造されているからです。
神は日曜日〜第一日目に止まられたのではありません。
1日目は、労働初日!そして、創造の最後7日目に止まったのです。これは、神の壮大な修復の計画でも同じ暦なのです。
7日、7週、7年、7年を7回繰り返す。
これは、全て修復を表す神の暦です。
神の記念日は、レビ記23章、出エジプト23章に記されています。
神の呼び出した日=聖別された日は、2種類あります。
一つは、モアディム〜季節と訳されていますが、天の万象は神の定めの時=モアデイムを司るために創造されたと、神が言われました。神が呼び出している記念日は、全てモアディムです。
アポイントメントの日〜神が人と特別な会見をするように、創造され定められた日。
シャバット、新月は、モエッドです。
そして、もう1つあります。神の祭り〜都上りをして祝う祭りを
ハグ、ハギム(複数)と呼びます。これは3つあります。
ハギムは、春、1)過越、2)シャヴオート、秋3)仮庵の祭りです。これらは、都上りの祭りです。
このエルサレム=都に上るというのは、絵画的にも分かる教えです。全ての人が、神の家=イスラエルの神の元、大家族として
1つに集められる!!!日本でも、日本の盆暮正月に、実家に
帰省しますよね。各地に住んでいる家族、親族が1つの家に帰る嬉しく、楽しい時を過ごすのです。
家族は1つ。本家=実家に帰る!
そして、全ての祭りの中心は、シャバットです。
7日間の、過越、仮庵の祭りは、最初の日は曜日に関係なく、
シャバット、週の第7日もシャバット、祭りの最後の日も曜日に関係になくシャバットとして扱い止まり、祝うという神のデザインです。
シャバット=第7日目以外の記念日、祭りでは曜日に関係なく、全てシャバットとして、始まり、シャバットとして終わります。
どういう意味かというと、春の過越の祭りも、曜日に関係なく
その祭りの初日はシャバットになります。だから、イエシュアが2000年前の過越の祭りの日がはっきり分かりませんが、木曜日だとしたら、木曜日でもシャバットになるのです。
過越は、第一の月の15日。7日を2回繰り返した次の日が、
過越の祭りです。そして、過越の日から、7日間、種無しパンの
週の祭りです。これも7日間です。
何を神は教えているのでしょうか?過越で、新しくされた人=贖われた人=イエシュアの命=聖霊を受けた人=完全にされている。朽ちる体でも、聖霊が内側に住み、イエシュアの復活の命を既に頂いている事、その事実からだけ、神は人に教えているのです。
巷に聞く、罪人、許された罪人の教えは、それは、以前の人=
イエシュアと共に死んで、死亡証明書をもらった人のことを話しているのです。そして、死んだ人は今はいません。
私達は、イエシュアと共に復活して、新しくされた!みよ!
全てが新しくなった!ということを信じるなら、その事実からだけ生きよ!と神が教えていることを、この7=完了、完全と教えていることを理解しないとならないのです。
勘違いしてはならないのは、私達は、主と共に復活し新しくされても、体は同じままです。そして、新しくされても、ズレる。
絶対にズレません!などと神は言っていないのです。
以前の自分の生き方に引っ張られるから、神の言葉に根付いて生きよ!と教えているのです。そうすると、ズレた考えや、行動が即座に分かり、即座に本物の自分の生き方に戻る!その繰り替えしが、地上の訓練なのです。
スポーツでも、楽器演奏習得でも、踊りでもなんでも、練習を繰り返して、達人になるのです。新しい人を生きる事も、全く同じ=神の言葉=インストラクションに根付いて、生きる訓練、練習がないなら、ずっと生まれつきの子供のままに留まり、よちよち歩きをして、成人にはなりません。
これは、荒野の移動式神殿で教えられている通りです。
でも、その中には聖霊が住んでいる!神の宮とされたのです。
修復不可能な以前の自分は、頭脳=脳回路の中に実際に記憶として、死んだ人で生きていた思考パターン、行動パターン、様々に
傷を受けた、本来体験するべきでは無かった体験を学習して
頭脳に記憶しているのです。
だから、それらの記憶〜死んだ人の記憶があるから、神の言葉に根付かないなら、不注意な生き方になり、気をつけないと、
以前の死んだ人で学習した性質に引っ張れてしまいますよと教えているのです。
だから、日々、神の言葉に根付き、新しい人として、新しい人の生き方を、よちよち歩きの赤ちゃんが歩く練習を日々して、
スタスタと歩く達人になるように訓練を地上で受けているのです。
信じたら、即座に天に移動しないのは、この世は次の世界、次の時代に行く、訓練の場!荒野〜神の声だけを聞いて生きる、本物の自分の生き方を学習する、、実際の訓練体験の場として、神はこの地上の旅路〜荒野〜約束の地にはいる準備訓練を、神の言葉を聞いて生きる事で教えているのです。
続く