前回迄の記事に書きましたが、異邦人クリスチャンの大衆の間に
2000年近く浸透している既存のキリスト教の教えは、神の
言葉や神が創造された聖日=記念日を、西洋教父達が退けて、
ローマ帝国に属する西洋教父達により作られた別の教え=新興宗教の教えが混じったものである事実をお伝えしました。
全部が全部、聖書とは異なる教えなのではありません。
だから、分かりにくいのでしょう。聖書か人の教えなのか。
熱い〜生粋の神の言葉か、冷たい〜完全に異教の神々の教えか、
これならば、分かり易いのです。
でも、問題は、なまぬるい〜神の言葉に異教の神々の教え、
習慣、儀式、人の思想、記念日を混ぜて混在している異火、異物が混じっているから、どこからどこまでが神の教えで、どこからどこまでが、人の作った教えなのか、聖書を本当に知らない場合には、見分けられない、分からないからです。
なぜなら、聖書に書いてあるのは、ユダヤ教やキリスト教の教えではない、聖書の最初の部分が、ユダヤ教で、福音書以降が
キリスト教の教えでもない。イエシュア=メシアは、エデンの
最初から教えられ、救いの方法も1つ、どの人種もどの時代も
イエシュアを通してしか、父のもとに回復されない!神の言葉、神に造られた人間のデザインや、生き方は、創造の最初から今もそして永遠に変わらないからです。
今やプロテスタントの牧師やローマ教皇も、時代ごとに神の言葉が変化し、それに応じて人も考えを柔軟に変えるべきだ、今の
時代はLGBTQの生き方も認められるべきだ!それが愛だなどと「背教の教え」に賛同するように人に伝え、堂々と神の言葉を
曲げて、人間の考えを語っている人達がいるでしょう。
そして、神の言葉に対して疑いを持て!とまで、言っている牧師達もいる、神の言葉を知らない人達が、勝手に考えて、人に聖書ではないことを教えている、偽教師達の教えはずっと世に蔓延り続けているのです。
神の言葉のどの箇所でも捨てる、曲げる場合には、無限に腐敗は広がって行くのです。
神の言葉を退ける事こそが、神に対する冒涜であり、聖書に基づき、神の言葉を曲げた人の作った教えは、全部聖書などではありません!と発表する事は、当然主張されるべき真実なのですが、異邦人の世界で、大衆がこぞって信じ2000年近くそれら教えが浸透している、それらの教えや記念日は聖書ではない!という事実を提示して、発表するのは、勇気の要ることです。
進化論を信じている100人の中で、たった数名が、世界のすべては神に造られたと言ったら跳ね除けられて笑われるでしょう。
真実を知ろう、理解しよう、分かろうとしない人に話す場合には、聖書の事実を語っているだけなのに、攻撃の対象にされてしまい、会話が無駄になります。
人を批判しているのか〜、程度にしか理解されないからです。
それでは、神の言葉を退け、終了などと人間が決めて否定する事が、どうして神に対する批判、冒涜であると、聖書に基づき分からないままでいるのでしょうか?
聖書ではない教えは聖書=神の言葉ではない!人が作り出した
教えや、儀式、習慣、記念日や祭りはイスラエルの神が教えている創造されたものではない!と言っているだけなのです。
記事に書いている事に対して、ぜひ疑問に思い、鵜呑みにしないで、ぜひ聖書を読んで、ご自分で調べて考えてみてください。
疑問、質問は真実を発見する手がかりだからです。聖書の中に、いつ神が神の言葉を変えた、終了した、そして、神の記念日は終わり、神の言葉は、異邦人に関係ないなどと、書いてあるのか、自分の目で頭脳で書いてある通りを発見し、確かめれば良いのです。
そして、西洋宗教の歴史の中で起きた事実、教師、教父達が、
神の言葉をバンして、生きることを禁じた、これはローマ帝国
含め、同じ事をした、その事実から目を逸らさないで考えてみて下さい。神の言葉を歪めた、曲げたのは、人間の仕業なのです。
全てエデンの園から同じ。
でも、世界は今、聖書=神の言葉の事実に多くの人が戻っている
現象があるのです。
それはユダヤ人、異邦人両者からです!神が終わりの時代に預言された通りに、神の言葉の真実に戻り生きる時が来ると言われたからです。
そして、太古から語られた同じ福音を、神の言葉の永遠普遍の
真実を知った世代からそれ以降は、もう2度と神のトラーを生きることを忘れない!と、預言されているからです。
それが現実に、世界中で起きているのです。
終わりの時代だからです。
今日は神が定められた週に1度の、聖別された日、シャバット
今日が本物の神が創造されたシャバットです。安息日という翻訳の裏にあるのは、ヘブライ語のシャバット。それは止まるという意味の言葉であり、第7日目だけに「シャバット」という特別な名前が付けられています。そして、週の7日、唯一神が聖別している日は、シャバット=第7日目だけです。
週の最初第1日〜第6日目には、数字で呼ぶだけで、名前は付いていない、普通の日だからです。パウロが言う、どの日もというのは、週の1〜6日目、そして、神の祭り以外の日のことです。
レビ記23章の神の記念日のどの日でも、自分の意見で大事だと思えば、大事だなどと、祝わなくても良いのだ〜と考える、
そんな事をパウロは人に教えなどしません!
神の聖日を破る〜神が伝える罪であると、パウロはモーセの五書から知っているからです。
私のジーザスは、気持ちが一番大事と考えてくれるから、いつでも自分の気持ちがあれば良いと言って下さるわ〜と考える。
それは、その人の中の脳内メシアが勝手に言っているだけで、
ヘブライ聖書のイエシュアはそんないい加減な事など、言いません。
普通と、聖別された日を、神が区別して教えている事実があるのです。
古代から現在に至るまで、どうしてシャバットがいつであると
分かるのでしょう?
どうしてそんなこと分かるの?と思いませんか?
1日が、太陽と、月でも分かるように、天の万象は、神の定めの日=モアデイムを司るために『印』として造られたと神が言われました。
モアデイムとは、「定められたしるし、厳粛な集会、会衆、定められた場所、厳粛な祝宴」という意味があります。
モアデイムを季節という言葉で、訳されていますから、翻訳ですと、深い意味がよくはっきりとは見えません。
エデンの園から、神が創造された「シャバット」があるのです。神の全創造物が全て揃って、神と人と全ての創造物で、初めて
一緒に祝った日は、シャバット=第7日目!これが、エデンの園の暮らしの始まりなのです。
イスラエルが、荒野でシャバットが来る日の金曜日の昼間に、
いつもの日は、天から1日分のマナが降るのに、その日には
2日分が降ってきて、その日がシャバットを迎える日であることを知っていたのです。
そして、残りの民は、神の定めの日、記念日を、今日に至るまで
ずっとガードして来たのです。
今年は、10月2日の日没から、秋の祭りの一連が始まります。
全ての神の呼び出し日=記念日=聖日の中心は、シャバットです。第7日目。この「7」と言う数字はとても重要な意味がありり神の教えは7を中心で、全てを教えていることに、注意して考えてみてください。7は、完成、完全、完了そして修復。
私達に対して、新しくされた人は、神の目には、完全!完了=
イエシュアと同じ性質を取り戻されていることをずっと神は人に教えているからです。
7を1に変えてしまえば、神が伝えている意味が通じなくなるのです。
クリスチャンの間では、ローマ14章のパウロの言葉を誤解した解説を聞かされて、今ではいつでも「安息日」、それぞれが考える日、それぞれの意見で、神の安息日、記念日を決めて良いという教えが聞かされていますが、その思想、解説が聖書が根拠ではない証拠は、聖書=神の言葉の中にあります。
聖書で聖書を読み解く!と言いながら、聖書を人の思想=西洋教父が編み出した聖書とはズレた解釈で読み、人の教えを通して
神の言葉、パウロの書簡を読んでいたら、聖書を正しく理解することなど出来ません。
書いてあることを、書いてある意味通りに読まずに誤解したままでいたら、それだけで、著者の意図は永遠に、誤解して読んでいる読者には、通じないまま、書かれている事の真意を知らないまま、著者の意図を理解しないままになります。
第一この思想は、人間主体であり、神が除外されています。
よく考えてみて下さい。エデンの園の問題、バベルの塔もその後も、ずっと同じ性質です。
「神に成り代わる」神のようになれる!と蛇に騙されたこと、
それが問題の根。神の言うことを曲げて、人間の主張を生きる!
これを、宗教の教えの中でずっと繰り返しやっているのです。
神が言われた通りではなく、人間が勝手に自分の考え、都合で人が神の言葉を変えて、良いと教えられ、そう考えているでしょう。神の教えを勝手にアレンジする。しても良いと考えている。
神の教えを捨てよ!と西洋教父達が2世紀以降に主張し始めて、それがどんどんどんどんエスカレートして行った歴史の事実。
神の教え=モーセの五書の教えや記念日を生きたら、ユダヤ人でも異邦人でも処刑されたのです。これは、神から出たことではなく、神に成り変わった人間の成れの果ての教えなのです。
それを聖書だ!と、異邦人クリスチャンは教えられてしまったのです。はじめの愛=婚姻契約=モーセの五書から離れた!
神は神が創造された記念日を人に伝え、その意味を伝えています。神は、神が6日の間で全ての業を完成して7日目に止まっただから、人も神と同じように6日の間、働いて!7日目には止まり、この日を記念して、神と共に祝うと教えています。
それが、神に造られた神の似姿通りの人間の成り立ち、デザイン
生き方である事を、神が人に教えているのです。
第1日〜第6日〜労働日!と神が教えています。
これは、収入を得る労働だけではなくて、様々な作業、創作作業引越しや、家の改装や、修理、模様替えなどのように、大掛かりな仕事、学校の宿題や、その他諸々は、この6日の間にすると言うこと。家事は最小限で、それぞれが勝手に過ごすのではなく、家族仲間皆と共に過ごす時間にする。
そして、7日目は、神が聖別された日なので、止まり、祝う。
エデンの園の実態に皆で戻り祝う。神と共に集い、神と人と、
人と人との交わりを通して、新しくされた人として修復、癒しを
体験する時なのです。
神はいつでも人と共に住まわれて、私たちはいつでも神と話せる、関わりを持てます。でも、神は特別な時を人に設けて、そして共に祝う、特別な出会いをすると約束しました。人の生活でも
家族と特別な人と、特別な時を持つ、祝う、その意味がどんなものであるか知っているでしょう?いつもと違う、装いと、ご馳走と、そして親密で楽しい時を一緒に共有する、特別な時、特別な思い出。
こういう事です。神が造られた暦には、特別な日が定められていて、そして、神はそのカレンダーに印をつけています。
そして、人も神との特別な出会いの記念日に、神と同じ日に印を付けて、いつもその日を思い巡らしながら、神との約束の日を、心待ちに、日々を過ごします。
歯医者との予約と同じく、特定の日に特定な時間に、歯医者とのアポイントメントを取って、自分だけの為に、その歯医者は時間
取り、費やし、治療をしたり、相談をしてくれます。
週の間、近所のスーパーでばったりその歯医者に会うかもしれませんが、それは、予約の時に歯医者と会うのとは又意味が違います。
そして、その予約の日、その時に、歯医者は、あなたと会う為に
そこであなたを待っているのです。でも、その予約の日をあなたがすっぽかして会いに行かなかったら、あなたが来ない、現れないならば、その時間、その歯医者に、あなたは会う事はできません。その結果、特別な時を持つ事を失うのです。
これが、ずっと2000年の間、クリスチャンの間で行われてしまっているのです。
人が作った日を祝うのに、神が創造されて神が人を呼び出して
特別な出会い、体験をしよう!と招いている日を、クリスチャンは知らないから、祝わわないでしょう?イエシュアが教えて、祝っていた日をクリスチャンは1つも祝いません。シャヴオート(ペンテコステ)だけは話題になりますが、その祭りが何を祝っているのか、その祭りの趣旨を知らないです。なぜなら、異邦人は契約には関係ないと言うからです。その祭りは、神から婚姻契約を受け取った日であり、同時に収穫祭でもあるのです。
神が呼び出している記念日の全て、その日がいつか、その日の意味が何か、誰も教えないし、教えられてもいないから祝わない。
神は、神が人を呼び出した日を、聖別=特別な目的の為に分たれたから、その日に会おう!と約束してくださいました。
神の聖別された日は、神に贖われた人達〜婚姻契約の中に加えられた全ての人々の為に神が、神との関係にある証拠『印』結婚指輪と同じく、外から見て分かる印を与えて下さったと教えています。
シャバットは、贖い出され、救われて、聖霊を受けた人々、
出エジプト=奴隷脱出した人達に与えられ、渡された婚姻契約の
印、神との関係が存在し、神の約束が真実である印である!と神が人に伝えています。
その契約が、単なる契約ではなく、婚姻契約書である事が、分かるのは、モーセの五書、聖書に記された用語が、婚姻契約用語であり、古代中近東に実際存在していた契約書、条約の形式通りに、申命記は、そっくりその通りの形態で書かれているからです。
だから、花嫁、花婿、娶る、裏切る、法廷に出る、離縁、婚姻契約を破る〜姦淫するetc etc etc、そのような婚姻契約に使われる用語でヘブライ語では記されているからです。
翻訳を読んでも分かります。
続く
Shabbat Shalom