覆い隠されて見えない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神が選んだ国、イスラエル、天の現実を地上に反映する世界で

唯一の場所、その都、エルサレムの神殿が70ADに崩壊され、ユダヤ人は、再び世界へ散らされる時代、終わりの時代が来ました。

そして、その時から、再臨まで、ホセアが預言する状態が続いているのです。


ホセア 3:4イスラエルの子らは多くの日の間、王なく、君なく、犠牲なく、柱なく、エポデおよびテラピムもなく過ごす。
3:5そしてその後イスラエルの子らは帰って来て、その神、主とその王ダビデとをたずね求め、終りの日におののいて、主とその恵みに向かって来る。
 

これは、未来預言です。神殿崩壊から多くの日の間、2000年近く経過しています。

70ADの神殿崩壊から今現在に至るまで、エルサレムには神殿がありません。コルバンも、神殿の柱、エポデ=祭司が着る服、

テラピム=契約の箱もなくとありますが、その通りです。

ホセア3:4は真実を語っています。

そして、未来にはこれからどうなりますか?

 

未来、イエシュアが来られる時には、神の神殿も復興し、

そして、イスラエルはメシアを知る事に至ると預言されています。

1948年5月14日シャバットに、イスラエルの国は、預言どおり1日で復興を遂げました。
王ダビデと書いてありますが、王ダビデの子孫=メシアのことです。ここで注目してください。


クリスチャンの世界の教えでは、2000年前にメシアが地上に来られて、初めてメシアが、人々に伝えられて、認識されたと考えているでしょう?それは、全く違うのです!ユダヤ人の残りの民は、モーセの五書、預言書、諸書に記されてる約束のメシアを知って待っていたのです。どの時代にも。イスラエルがメシア=主に戻る、立ち返るとは、何に立ち返るのですか?

タナックに記されれた、メシアにです!

メシアから離れたからです。だから戻るとあるのです。

そして、アヴラハムが、未来にイエシュアが地上に到来する日を喜び楽しみとありますが、エデンの園から、今迄、どの時代も、イエシュアを通して贖われた人々=残りの民が存在していることを、聖書の記述から知らないとならないのです。

メシア=イエシュアは、最初から神が人々に教え、伝えられているのです。

 

ヨハネ8:55 あなたがたはその神を知っていないが、わたしは知っている。もしわたしが神を知らないと言うならば、あなたがたと同じような偽り者であろう。しかし、わたしはそのかたを知り、その御言=トラーを守っている。

8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」

 

メシア=イエシュアに関して、モーセの五書、預言書、諸書の

至るところに記されているのです。だから、太古の人は、神が伝えたイエシュア=メシア=子羊の血の贖いであるお方を知って、信じていたのです。最初から、メシアが記されている。それは、タナック=モーセの五書、預言書、諸書を学べば分かることです。

ユダヤ人は救い主を信じない!とクリスチャンは言いますが、
そうではないのです。エデンの園を出てから、残りの民はどの時代にも、メシアを神から教えられ、知っていた。贖い、救いを得て聖霊を内側に受けていたのです。神はどの時代にも、ユダヤ人の残りの民を確保していたのです。もちろん、同じトラーを信じた少数の異邦人も同じです。

聖書はユダヤ人=預言者により記され、福音はユダヤ人により

世界へ伝えられるように、神が彼らイスラエルを選んだからです。

クリスチャンの世界では、2世紀以降、オリジナルの神の言葉や教えから離れてしまったのです。離れてなどいない、新しい福音聖霊時代の教えを教えられた、契約を受け取る民になったと、

勘違いしている教えがありますが、それは聖書の伝えていることではありません。

同じ福音、同じ救い=イエシュア、同じ神の言葉、永遠普遍の神と神の言葉=契約なのです。

 

聖書に書かれているのに、神が教えていることが何か分からないままなのです。ある部分を知っている=子羊の血の購いで神のものとなり、罪赦され、永遠の命=神との関係に加えられたことは

知っていますが、それはほんの始まり、一部なのです。

神の修復の計画はもっと深く壮大。神の教えは永遠に繋がるほど

深く、広く、限りがないからです。だから、人は、永遠という時をかけて、神との関係を築き、教えられ続けていくのです。

 

クリスチャンは、同じイエシュア、聖書を読んでいても、神の教えが終了したと考えているので、神の教えや、神が創造された

神が人を呼び出している記念日=定めの日=アポイントメントの日を祝いが何なのか、聖書に書いてあるのに、よく分からないと思います。

人の教え=神学が語るキリスト教という教えは知っていても、

オリジナル聖書に書かれた神の言葉、教えを深く学ばないのです。

でも、過越の祭り、イエシュアの贖いの業が、過越の祭りで実際に子羊イエシュアが屠られて、証明され表されましたよね。

それは、エジプトの過越で教えられたことと同じ。永遠の中に

屠られたイエシュアと同じ実態なのです。見ても見なくても、

永遠の中に屠られた子羊の贖いを信仰により受け取ることは

どの人種もどの時代も全く変わらない!同じ!同じ方法!

 

それ以前から、エデンの園で神自ら屠られた動物の皮をアダムと

ハヴァに着せたことと同じ!

イエシュアが処刑されたのは、過越の祭りでしょう?福音は全部同じこと、同じ日=神の記念日を通して表されて教えられているのです。イースターという異教女神の名が付けられた祭り、しかも別の日=日曜日にすり替えられてしまいましたが、復活の命の現実は、過越の祭りの1週間、種無しパン=新しくされた人を教える7日の間の真ん中の日、”初穂を捧げる日”に祝われているのです。

神が創造され定められた記念日は、最初からずっと、神の教えを知る人たちにより、祝い続けられてきたのです。祝う人は、

おもにユダヤ人ですが。

西洋宗教の記念日は、クリスマス以外、全部日曜日である理由を知っていますか?

それは、復活を記念しているからと説明しますが、元は、ローマ帝国皇帝の記念日、太陽神の記念日が日曜日だからです。

西洋宗教の記念日や祭り、日曜礼拝、イースター、クリスマスは、異教の神由来のものだからです。クリスマスも異教神由来の日に便乗して作った記念日です。聖書にはない記念日、プラス

イエシュアの誕生日は12月25日と聖書にそんな事など、書いていない、そんな時期に羊飼いが野宿して羊の出産を見守る季節などでもない。

空想、作り話を、実際のイエシュアの誕生と被せ、異教神の祭りに便乗させて、カトリックが作った記念日、ハロウイーン=異教、悪魔崇拝の祭りの日を変えた、イースター、多産の女神の祭りを変えた事とも同じ。

神はそんなことなど、1度も教えないし、人に伝えてもいません。神は神の創造された記念日や教えを、永遠に変えない、別の教えに永遠に塗り替えないからです。

 

イエシュアを信じるユダヤ人、1世紀はパリサイ派が主流でしたので、パリサイ派のイエシュア信者のユダヤ人たちは、神殿崩壊後、ずっと密かに存続していたのです。

そのパリサイ派が、過越の祭りの晩餐の儀式で取り入れられたのが、3つのマッツアを砕く儀式なのです。

70AD以降、神殿が存在しないから、神殿崩壊後に、様々な儀式や祈りを通して、イエシュアを伝え続けていたのです。

そして、密かにイエシュアを伝える方法を、編み出したのです。それの1つが、アフィコメンと呼ばれる、過越の晩餐で行われる子供達が参加するゲームなのです。

ユダヤ人の世界は、子供が分かること、楽しめることを盛り込んで、神の言葉の意味を教えるのです。

このゲームは、過越の晩餐の最初に、3つに重ねたマッツアの真ん中を砕き、その真ん中の部分を、部屋のどこかに隠すのです。

そして、晩餐の最後にその砕かれたマッツアを子供に探させるのです。

これは、イエシュアが来られたこと、砕かれたマッツアは、

屠られた子羊=イエシュアを表しているもの、タナックに記されたように、永遠の中に屠られた子羊が地上でそれを証明したこと、砕かれた体=イエシュアを表しているのです。

過越の祭りの最初に隠されたマッツア〜復活して天に戻られて今は目には見えないイエシュアの事実を教えているのです。

そして、世の終わりに、イエシュアが再び戻られることを、晩餐の最後に隠されていたマッツアが現れ出ること、子供たちに隠されていたマッツアを探し出すことで、教えているものなのです。

アフィコメン〜「私は来た」という、一回だけの動作を表すギリシャ語であり、ユダヤ人はこのギリシャ語の言葉の意味を知らないまま、この過越の晩餐の楽しい儀式をやっているのです。

メシアが2000年前にこられたユダヤ人イエシュアであることを知らないユダヤ人は、アフィコメンをデザートと呼び、何を意味しているのか、知らないのです。

これを伝えて継承したのが、パリサイ派のメシアニックユダヤ人なのです。ノア、アヴラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、預言者たち、パウロ、使徒、世界の四隅に福音を伝えたのは、ユダヤ人です。

私が救い主を知ったのは、聖書から直接です。でも聖書に書かれたユダヤ人メシア、イエシュアを教えてくれたのは、ユダヤ人のトラー教師たちでした。私が聞いていたのは、西洋宗教の西洋神学で解説する、ヘブライのイエシュアではなく、ローマのジーザスだったからです。

この4つの杯は、出エジプト6:6−7にある、神がイスラエルをエジプトから引き出したことを教えているものです。

クリスチャン、異邦人も同様に、同じくイエシュアを通して救われた事実があるならば、この出エジプトは私達一人一人の贖いの事実の歴史なのです。

1の杯は、きよめの杯、「導き出し」、קידוש、キドウシュ、

2番目の杯は、マギッド「救いだし」3番目は、ビラカットハマゾンברכת המזון「贖い出し」そして、4番目は、ハレル「わたしのものとした」これを、イエシュアが、過越の晩餐でされていたのです。

そして、過越の祭りでは、種無しパン=マッツアでこれを祝うのです。種無しパンは、復活の命、贖いで新しくされた人を表すものなのです。罪が削ぎ落とされた、そして新しくされた、大地から新しい命が芽生えてそれが成長して増えていく〜復活の命は

初穂の日に祝われる、神が創造されたオリジナル記念日が、最初からあるのです。

だから、普段の日に「種ありパン」でするカトリックが変えた

儀式は、イエシュアがされたオリジナルを変えてしまったものでありこれは、過越の祭りでされるものであり、過越の祭りを毎年祝いなさいとイエシュアも言われた教え、祭りが、クリスチャンの世界では、2世紀以降継承されないで中断されてしまったのです。

預言者、イエシュア、使徒、パウロが教えていたのは、モーセの五書です。諸外国でパウロに教えられた人は、シャバットや

過越、仮庵を祝っていたのです。パウロの書簡にも、どのような心構えで、過越の祭りを祝うのか書かれてます。1コリント5:6-8 11:20-29それを、クリスチャンの世界では聖餐式に読む箇所として、元の意味が、過越の祭りのことを教えていることを理解しないまま、読んでいるのです。

パウロはトラーを教え、パウロに教えられた人達は、日曜礼拝、クリスマス、イースターを知らない、祝ったのではない、彼らが祝ったのは、シャバット、新月、過越、仮庵であることを、

聖書から知っていますか?

 

福音は、2000年前から伝えられることが、初めて始まったのではないのです。エデンの園から神のトラーが教えられていた。エデンの園をを出てからすぐ!神の教えを教えられた人たちに

より、伝えられ続けたのです。だから、ノアは極悪な時代たった一人神の教え=義を神から教えられていたから、それを、知ってノアは神のトラーを生きていたと書いてあるのです。誰かが、選び出されて、神から直接語られ、人々に同じ神の教えを伝え続けてきたからです。

終わりの時代は、ヘブライ文字で記された聖書が書かれた時代。だから、モーセ以降は終わりの時代なのです。

聖書には、最初からメシアが記されていて、モーセの五書、
預言書、諸書の至る所にメシアが解説されているのです。
メシアが2000年前に初めて現れて、初めて神の教えがフルに完全に明かされたのだなどと考えているならば、それは、聖書の最初の書かれている内容を知らないだけなのです。

原始福音とか、教えが変化するなどの思想は、聖書とは異なる

概念を異邦人が伝えてしまっているから、歪んだズレた聖書概念を教え込まれてしまっているのです。神の言葉は完全でどの箇所も変わらない!一貫して最初から最後まで同じことを教えているのです。

神殿崩壊後、ユダヤ人はエルサレムから追放され、やがてイスラエルからも追放され、世界の四隅に散っていく、終わりの時代になりました。

1世紀、地上に来られたイエシュアが、タナック=モーセ、預言書、諸書に記されたメシアであると信じた人のほとんどがユダヤ人です!異邦人は少数。パウロが訪問して、トラーを教えて、指導した諸外国にいたイエシュアを信じた人たちも、同様にユダヤ人が大衆です。異邦人がその中に混じっていただけです。

 

 

続く