本物のメシア 本物の神の言葉に戻る時代 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

テモテは幼いころから聖書に親しんできた人物であると、パウロが記しています。

聖書に聖書と書いてあるものは100%全て、モーセの五書、

預言書、諸書=タナックだけを指して語っている事実を覚えておいてください。タナックは完全なる神の言葉であり、人を導き

有益と書いてあるのに、どうして、完全である神の言葉が、歴史の途中で不完全になり、途中で終了するなどという神の言葉に反する教えが、本当であると、異邦人の耳には、響くのでしょうか?神の伝える言葉こそが、永遠の真実であり、人の編み出し教えにより、神の言葉の真実が退けられ覆い隠されているから。

昇天以降全てが変化したと空想しているからです。

 

2テモテ3:15 また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。

3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

3:17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

 

テモテの信仰は、ユダヤ人である祖母ロイス、母ユニケから受けたものである事が記されています。ユダヤ人は、トラー=神の教えが伝える通り、神のトラーを幼い頃から日々、寝ても覚めても親、同じコミュニテイに住む周りの人々が教えたのです。

それがユダヤ人の教育だからです。

テモテの父はギリシャ人とされていますが、ギリシャ語を話す

ユダヤ人の背景のある人物です。

そのように、幼い頃からトラーに親しみ、知って生きているのはユダヤ人としての血筋、育ちが背景にある人たちです。

今でさえ、クリスチャンであって、ヘブライの聖書、イエシュアと同じく、彼らが生きていた、トラーに馴染み、神の教えを捨てず、神の教えを律法だ〜などとも言わず、神が禁じているきよくない動物を食さず、シャバットや祭りを祝う人など、ほぼいないでしょう?

私の経験の中では、そのような異邦人クリスチャンに出会ったのは、全くない、ゼロです。

2世紀以降に異邦人により作られたカトリックから継承された

西洋宗教の教えや記念日、祭りには、深く慣れ親しんでやっていても、イエシュアが本当に教えていた教えや、シャバットや祭り、神のオリジナルの教えや記念日は、全く知らないのが普通です。

イースター(アシェラ女神)の名が付けられた復活祭と名前が付けられた祝いの日、復活を表す神の本当の記念日は、神は過越の祭りの種無しパンの7日間の真ん中の日「初穂」(イエシュアはその日に昇天された)として祝うように教えているのです。

大地から新しい命が芽生えて、それが増えて成長していく。

イエシュアの命に連なる人を、種、作物、収穫で神は教えているでしょう。

アメリカではイースターの祝いの日に、テーブルにはポークハムが出されます。ポークハムにパイナップルが乗ったものを、

オーブンで焼くのです。アメリカのイースターの伝統文化の食べ物。ポークハム?それは、イエシュアや、トラーを知る人達は

決して食さないものです。そのようなものは、食卓に上るものではない。それが、異邦人の世界では、神の言葉が変化したと人間が言い出して、神の教えが変えられてしまったのです。元が異教神の文化の異教徒の生き方、生活習慣、食文化に馴染んでいるので、何も違和感ありません。疑問に思う方が変と、思われるでしょう。神が禁じているものとも考えないから、神の記念日としながら、神の禁じたもので祝う。

もしも1世紀のイエシュア信者、イエシュアやパウロ、使徒達が

見たら、使徒15章に記されたパリサイ派のイエシュア信者の

長老たちが、神の教えを知らない異邦人に提案した通り!

交わりに加わる為に、それだけ=けがれた動物を食するのはやめて!と警告されてしまいます。そうしなければ、食卓を一緒に囲めない、交わりができないからです。異邦人には、異教神の文化が染み付いているハンデイがあり、プラス神の教えを理解していないという状態があった事、使徒15章を読めば分かります。

それを、異邦人は神の教えの4つだけ守れば良いなどと、主張していますが、その中の1つ=聖なる民とされた人は、人種に関わらず、きよくない動物は食さない!という教えさえ知らないまま勝手な読み込みをしているのです。

クリスチャンに過越や仮庵、シャバットと話しても、何それ?

古い律法?くらいにしか、考えないでしょう。それが、神が創造された神の子ら、異邦人クリスチャン含め皆が永遠に祝われる

神の記念日と神が教えているのに、その事実、神が伝えていることであるのに、その教えを聖書から知ってはいないのです。

イエシュアが戻られたら、全世界は神のトラーと、シャバット、

祭りを知って祝うことが預言されている事、考えた事ありますか?

それらは廃れた〜終了した〜と2世紀以降の西洋教父、宗教の

教えを聞いて、信じて、皆が実践しているから聖書に書かれている、神が伝える事が本物である、聖書を信じます!と言いながら、その発言通りには、実は信じてもないし、実行もしていない事にも、気がついていないのです。不思議な現象でしょう。

廃れた教えは、無用だと考えているからです。

 

テモテのようにトラーに親しむ人は、神の言葉を捨てて、別物を生きるなどしませんでした。神の言葉を捨てる意味を、神の言葉、神の教えから知っているからです。

当時、1世紀の人たちは、トラーに幼い頃から親しみ、しかも

パウロのようなエルサレムを拠点とする当時最高のトラー学者に繋がり、トラーの教えを学ぶ人たちは、ユダヤ人が中心だったのです。諸外国でも。トラーに代々根付いたユダヤ人の群れに、異邦人が加わっただけです。

そこから、世界へ、トラーが伝えられて行ったのです。

キリストが来られたからキリスト教という宗教が出来たのではないのです。

古い聖書の箇所、異邦人が旧約聖書と名づけましたが、その箇所は律法で、ユダヤ教が書いてあるなどと、解説している教師、

牧師がいますが、聖書には、ユダヤ教、キリスト教が書いてあるのではありません。

キリストはキリスト教という宗教を作ってなどいないのです。

神の言葉を終了した別の新しい教えなど、イエシュアも、使徒も誰も教えていない。福音書以降にも、そんな教えは1つの書いてなどない。

イエシュアが教えられたのは、トラー=純粋な神の言葉!

西洋人、人間の思想が混じる宗教ではない。

ユダヤ人のイエシュアは、父の教え=トラー=モーセの五書を正しく教えて、生きてみせるために来られた。それがマタイ5章に書かれたイエシュアが言われた「成就」の意味です。正しく、

神の教え=トラーを紐解き、実際に生きること=成就と記されているのです。当時の1世紀のラビたちの世界での、慣用句を

イエシュアがマタイ5章で使って、解説しているのです。

 

聖書に記されたメシア、子羊の血の贖いが本当である事を、

地上で実際に証明するために、イエシュアは来られたからです。

たとえ聖書に、子羊の贖いの血が永遠から存在する、イエシュア

子羊が永遠の中で、この世の礎が存在する前から存在している!と書かれていても、人間は、実際にそれを見るまで信じないでしょう!真実である証明は、実際に来られて、地上で実現する事でもあるからです。

神が語られていることを、実際に地上で証明するためにも、

イエシュアは来られたのです。

神の記念日、祭りを知って祝う人には理解できます。

神が創造された記念日は、全てイエシュアの業、地上で実際に

起きた事、贖い、救い、子羊の血、復活、聖なる民=花嫁にされ、そして、未来には、これから起きる事、イエシュアが再び来られて、最後はイエシュアが統治する世界に生きること、福音を網羅して教えている記念日だからです。これは、祭りを知って

祝わない人には、聖書に書かれた福音の事実が盛り込まれている事に、注意が行かないし、分からないのです。

クリスチャンの牧師や教師にモアデイムの話をしても、全部頭の上を通り過ぎて分からないと言っていましたが、聖書に書いてある事、祝うべき日を知らないままだから、 馴染みがないからです。

実際に春の祭りは、地上で既に実現しました。それが、イエシュアの処刑、復活、そして、シャヴオートで、婚姻契約=トラー

聖書を受け取ったことで分かるでしょう。

 

そして、神がエデンの園から人と共に住まい、そしてエデンを飛び出した後も、神は贖われた人の間に住まう〜人の中に住まう神であることを、移動式ミシュカンで教えられたのです。

移動式〜朽ちる体の中に既聖霊=イエシュア=神が住まっている事実を教えているのです。イエシュア=肉体を取って来られたトラー=神=言葉が人の間に住まったと、ヨハネの福音書の冒頭に書かれているのが、それです。約束の地に入る〜神の治める天の国、そして固定式神殿〜新しい体で、神が永遠に私達と共に住まわれる事を教えているのです。今は地上の旅路〜荒野、約束の地に入る事を目指して、でも地上に居ても、実は贖われ救われ聖なるものとされた人はもれなく、今天の現実=神の中にいて、神も私達の中にいるという、この世にあってこの世のものではない、境界線=割礼、聖別された不思議な存在である事が、書いてあるのです。理解不能。だから、信仰により受け取る!

 

よく考えてみてください。聖書に登場する人々、それは福音書〜黙示録に至るまで、全ての古代の人たちの教科書は、モーセの

五書、預言書、諸書だけです。そして、聖書を記した預言者は
メシア=イエシュアを知って、聖書を書いているのです。

それを理解した人、しない人がいただけ!その違いがあるだけです。同じイエシュア、同じ福音、同じ贖いの代価、同じ救いの方法しか聖書には書かれていません。太古は生贄で一時的に罪が

許されて、現在はイエシュアが来られたから、救いが完成したなどと考えているでしょう?救い贖いは永遠の中に、既に完成しているのです。それを、信仰によりどの時代でもどの人種でも同じく受け取れる!神はえこひいきなどしないからです。

この世の礎が造られる前、永遠の中に屠られた子羊イエシュアと、そして、永遠の中から既に神に選び出されていると書いてあることは、神が伝える真実だからです。西洋哲学思想で、物事を時系列、線上に考えるから見えないのです。ヘブライ思想、永遠から見る。永遠の中に完結している事実から見る。円の真ん中に向かい、円のどの地点にいても、同じように受け取れる。

救い、贖いはある時を境に、有効になったのではない。

神が全てを完成させた6日間、全ての業が終了!完了!

欠けたものは何一つない完成完全な状態で、表されているのです。だから、神は止まられて、シャバットを創造物とそして人と共に祝った!とあるのです。神が創造物全てと最初に祝ったのはシャバット!その日に皆が止まり同じ意識で、神に向かって

歓喜の祝いを体験した。それがずっと続いているのです。第一日目=日曜日は、神が伝える事実では労働の初日であり、シャバット、止まる日、安息日ではありません。イスラエルでは日曜日は仕事も学校も普通にあります。

 

今も同じでしょう?聖書があるのに、世界中の人皆が救い主、

イスラエルの神を知って生きているのではないでしょう?

オンラインでも聖書が読めるのに、真実が全ての人に伝わっているのではない。イスラエルの神と神の言葉を知ろうとする人が

神の言葉、教えを探る以外、知るという事はないからです。

そして、神の言葉が正しく教えられないならば、聖書に書いてあることを自分の空想で読んでしまうことが、起きているのです。

これは、否めない事実です。得にイエシュアの例え話や、パウロの書簡など、誤解して読んでいる解説で、神の教えが変えられたと勘違いさせられてしまっているのです。

 

クリスチャンの世界でも同じでしょう?聖書があるのに、その中身を皆が正しく把握し、学び、知っているわけではないのです。

神が永遠普遍、神と神の言葉は変わらないと、神ご自身が言われているのに、どうして、その神の言葉の真実がクリスチャンには通じないのでしょうか?半分は神が伝える真実でも、人の教えを信じて、それが神の言葉、聖書と勘違いしているからです。それと全く同じ事なのです。聖書を読む根拠=砂の上〜人の教え、

神の言葉が2000年前に変化したという聖書ではない、ズレた聖書概念を通して読み込みしている事が問題なのです。

 

神の言葉が、どのような形でも、変形、否定、潰されるのは、

エデンの園の蛇の作戦なのです。神の言葉を潰したら、人が迷い出て破壊されることをサタンは最初の最初から知っていたでしょう!

神の言葉を退けたから、人の中に罪=死=神との超えられない隔たりができてしまったこと、その事実、意味を、ちゃんと考えていますか?

同じこと=同じズレ、罪をどうしてやるように推奨されているのか、しているのか、その危険に気がついていない、その方が不思議です。神の言葉はどの時代も同じです!神の警告は同じ!

10の言葉の冒頭にある、「わたしの顔の上に別の顔を置くなかれ!あなたのために!」とヘブライ語では書いてあるのです。

別の顔=偽の教え=人間が編み出した、神の言葉を変える、否定する、終了したという、それこそが正に別の顔=偶像礼拝の根!なのです。

気が付かないのは、信じるものの口から神の言葉に反する事を、発言させている、とくに教師や牧師と呼ばれる人たちから、

そのように教えられてしまう、蛇の巧みなやり口に気がついていないからです。教師が間違った教えなどするはずなどないという

都市伝説を信じているからです。

神の言葉が終了、無用、無効などということが、どれほどの冒涜罪であると神が人に教えているか、聖書から気がついていないからです。

 

続く