神殿崩壊から再臨までの今の時 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イエシュアが、マタイ5章で、「成就、破棄」という言い回しをしていますが、それは、当時1世紀の世界で、神の教えを語る時神の教え=トラーに記された意味とピッタリ沿った正しい理解であるならば、それを「成就した」と表現したのです。
一方「破棄」とは、神の言葉とはズレた解釈をしていたら、

それは神の言葉を正しく言い表し生きていない事なので、「破棄」と言う言葉を使っている表現しているのです。
破棄とは、神の言葉が廃れた、廃止、破棄されたとかいう意味などありません。成就などという意味も、成就したから終了などとクリスチャンは解説しますが、そんな意味など聖書には1つも書いてもないのです。それなのにクリスチャンの世界では、聖書とはズレた意味の、聖書の記述とは異なる解説が、ずっと続けられてきてしまっているのです。

こういうずれた聖書解説が、残念ながら山ほど、たくさんあるのです。それは、聖書を聖書で読み解くと言いながら、実際には

聖書を人の編み出した教えで読み解いているからです。

聖書ではない、教えの解説が正当な聖書解説だと、信じ込まれてしまっているのです。聖書=元に戻らない限り、聖書に記された真実が見えてこないのです。


イエシュアご自身がトラーそのもであり、人は神の言葉で造られている、神の口から出た1つ1つの言葉により生きる!と聖書には書かれています。

神の言葉、聖書の1つ1つの言葉のどれも、人間が削除、破壊しようとも、それは実際には出来ません。神の言葉に対して偽証できるだけで、それらは真実には永遠にならないのです。

 

神の言葉を捨てる人には、神の伝える意味が通じなくなるだけです。聖書には、トラーが肉体を取って来られたと書かれている。

神=言葉=トラー=聖霊=イエシュアであるのに、どうして神がご自身である言葉を、ご自分で終了破棄されるのでしょうか?

そんなこと、聖書のどこに書かれていますか?

異邦人は、聖書に書いてない事を、解説しているから、聖書とは辻褄合わなくなるのが、人間の発想した教えなのです。


神の言葉は永遠に固く立つとある、「立つ」ヘブライ語のクムとは、「固く確立される」と言う意味であるので、神の言葉は永遠に揺るがないと説明されているから、神の言葉が途中で消滅、変化などしないのです。聖書に戻ろう!というなら、根こそぎ根底から、聖書とは違う思想を取り除かなければ、中途半端。

中途半端な軌道修正は、中途半端にしか過ぎないものです。
間違いの思想=人の教えの根を、完全に取り除かないまま、

雑草が常に生えてくるように、聖書とは違う教えを根絶しない限り、人の思想という混ぜ物の聖書解説は、語られ続ていってしまうのです。

申命記29:25そのとき人々は言うであろう、『彼らはその先祖の神、主がエジプトの国から彼らを導き出して彼らと結ばれた契約をすて、
29:26行って彼らの知らない、また授からない、ほかの神々に
仕えて、それを拝んだからである。

 

私達は、イエシュアを信じたら、偶像の神なんて拝みませんと

思っていますよね、もちろん、神に反することなどしたくどないと思うものです。

でも、何も偶像は、目に見える彫刻や彫り物だけではないのです。実は、聖書ではない教え〜人が編み出した教え、異教の神々が由来の教えや慣わし=それらの偶像に、分からないまま、知らないまま、仕えて生きている、それらの偶像が何なのかに気が付かないまま、やっていることが、多々あるのです。

しかも、神の言葉=教えに、反対、抵抗する、神の教えに対して、神に造られたに過ぎない人間が、神に物申すなどの行為が、どれほどずれているのか、気がついていないのです。

聖書ではない教え、異教の神々由来の、キリスト教という宗教

文化で編み出された教えや記念日を生きていても、それらが聖書=神の教え、仰せではないとも、聖書を読んでいても、気が付かないのです。聖書ではないということに、聖書に書いてあるのに、気がつけない。それは、人の教えで聖書を読み解いているからです。宗教文化で浸透した、教えや慣わし、記念日が聖書=神の教え、仰せだと勘違いして信じているからです。

 

イスラエルは、イスラエルの神を捨てて、異教の神々を拝んだと思っているでしょう?そうではないのです。混ぜ物の教え、

だから、姦淫の罪と書かれているのです。この元は、創世記の

最初から書かれていますが、出エジプトした後、シャヴオートの祭りとして祝われている、婚姻契約を最初に受け取った時にも

みることができます。聖書の書かれた内容を注意深く、よく読んでみれば分かります。

奴隷から脱出させられて、神のもの=聖なる民、花嫁となった

直後の事件を読んでみます。それらは、誰でも陥るズレでもあるのです。

エジプトで10ヶ月近く、10の災を通して、イスラエルだけが

守られて、神の奇跡を見て、そして、エジプト脱出をして、紅海に直面し、後にはエジプト軍全部が追って来て、もう絶対絶命の時に、神が海を開いて、イスラエルだけを安全に水を通らせて

救出した、そのような大きな奇跡を体験した後に、こんなことを

やらかしています。

モーセが、神の契約を受け取りに行く前には、シナイ山で神の声

臨在、天が山の上に降りてきて、みな恐れおののき、どうしましたか?

出エジプト19:4 『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。

19:5 それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。

19:6 あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」。

出エジプト19:8 民はみな共に答えて言った、「われわれは主が言われたことを、みな行います」。モーセは民の言葉を主に告げた。
神の声を聞いて、よく分からないけれど、神がそう言われるならば、その通りに行い(生きます)と、イスラエルと少数の異邦人はそう言ったのですが、その後はどうなりましたか?
モーセが神から契約の言葉が記された板を取りに行き、40日
40夜、長い間帰ってこないので、もう、神との仲介者は消えたかもしれないから、他の仲介者を立てようと、このようにしました。

出エジプト32:4 アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。

<エジプトから導き上ったのは、モーセではなく、イスラエルの神であること、忘れています。どうして金の子牛なのでしょう?

エジプトで培った異教の神々の慣わし、金の子牛です。金、彼らのやり方、彼らが一番貴重とするもの、彼らの手みずから作ったもの、偶像、彼らの考えを通してイスラエルの神を拝むことをするのです。>

 

異教の神を、拝んでいるつもりはない。次を読めば分かります。

 

 32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。

そしてアロンは布告して言った、「あすは主の祭である」。

 32:6 そこで人々はあくる朝早く起きて燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。民は座して食い飲みし、立って戯れた。

 

シャバットや祭りが聖書から教えられていたことは、聖書の記述を読めば分かります。カインとアベルも、エデンの園から出てすぐに、コルバンを捧げています。何の詳しい、説明、解説が書いてありませんが、どうして彼らがそんなことをするのか?神はエデンの園から人に同じことを、口頭で教え続けているからです。

だから、エジプトにいた時も、モーセが、神の祭りをするために

荒野〜ネゲブ、カナンの地、エルサレムへ行かせてくださいと

パロに懇願して言ったのは、神の祭りが何かを、神から教えられて、知っていたからでしょう。

イサクがコルバンとして、モリヤ山〜エルサレムの神殿がある

場所で、屠られそうになったのも、全部イエシュアに繋がる事実

だからです。神の宮、聖なる場所で、神の祭りが行われる。

 

モーセが山に消えて後、イスラエルは、イスラエルの神を、

エジプトで学んだ異教の神々のならわし、シンボル、やり方で

神の祭り=シャヴオートを祝おうとやっているのです。

高き所の礼拝とは、混ぜ物、異教の神々の祭壇、異教の神々の

シンボルや儀式を通して、同時にイスラエルの神を拝む、

バアルも拝む、モレク神も拝む。なんでも混ぜる。

イスラエルの遺跡には、イスラエルが住んだ所に、イスラエルの神と、アシェラ(イシュタル、イースター)の女神像の柱が並んでいるものがあります。異教の神々の混ぜ物のシンボルを通して、イスラエルの神を拝んでいた。

熱い=ピッタリイスラエルの神のものか、冷たい=異教の神々か、生ぬるい=イスラエルの神と異教の神々、女神の混ぜ物=

吐き出そう!と、黙示録にも書いてある通り、異教の神々、

人間の教えと混じった混合物=生ぬるい=異物は吐き出そう!と神が警告していることを、ちゃんと考えたら何が異物の教え=聖書ではないのか、聖書にてらし合わせれば見えてきます。

 

申命記29:27それゆえ主はこの地にむかって怒りを発し、

この書物にしるされたもろもろののろいをこれにくだし、
29:28そして主は怒りと、はげしい怒りと大いなる憤りとを
もって彼らをこの地から抜き取って、ほかの国に投げやられた。今日見るとおりである』。
31:16主はモーセに言われた、「あなたはまもなく眠って先祖たちと一緒になるであろう。そのときこの民はたちあがり、
はいって行く地の異なる神々を慕って姦淫を行い、わたしを捨て、わたしが彼らと結んだ契約を破るであろう
<イスラエルが異物、混ぜ物、別の神々の要素が混じったものに

付いて行くことを、約束の地に入る前に既に、預言、警告しています。私達異邦人も同様に、混ぜ物の教えを、知らないままに教えられて、イスラエルの神の教え=オリジナルの教えから、離れたのです。>

32:46彼らに言った、「あなたがたはわたしが、きょう、あなたがたに命じるこのすべての言葉を心におさめ、子供たちにもこの
トラーのすべての言葉を守り行うことを命じなければならない。


異邦人はイスラエルの国籍を今地上では持っていません。なぜ?
地上の今の肉のイスラエルの政府は、異邦人でイエシュアを通して、イスラエルの神に戻った人を、イスラエルの国民とはみなしていないからです。それは、今のイスラエルは、神ではなく、

人間の統治の時代にあるからです。でも、未来は違います。
 

エレミヤ 30:3主は言われる、見よ、わたしがわが民イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る。主がこれを言われる。
わたしは彼らを、その先祖に与えた地に帰らせ、彼らにこれを
保たせる」。

この預言は、実現しました。イスラエルが何度も世界中に散らされて、イスラエルに住まわない時は、イスラエルは荒廃した地でした。

申命記28章に、イスラエルに与えられている契約が永遠に有効なので、契約の中にある困難が襲うことを、警告されています。
神の教えることを、無視して生きない場合には、厳しい訓練が
待ち受けていると。そして事実その通りになっています。
雨が降らず、地が荒廃し、そして、敵が侵入して、約束の地から
吐き出されてしまう。
マークトワインが、イスラエルを旅した時に、知ってか知らずか、申命記に記されたイスラエルが荒廃した様子を言い表しました。
1867 年にイスラエルの地を訪れたマーク・トウェインは、
イスラエルを次のように描写しています。
「… 土壌は十分に肥沃だが、雑草に覆われた荒涼とした国。
静かで悲しげな広がり… 道中、人を見かけることはなかった… どこにも木や低木はほとんどなかった。役に立たたない土壌の

お供であるオリーブやサボテンでさえ、この国からほとんど姿を消していた。」
マーク トワインの言葉を読んで、その後に、この箇所を読むと
見えます。

 

申命記29:22後の代の人、すなわちあなたがたののちに起るあなたがたの子孫および遠い国から来る外国人は、この地の災を見、主がこの地にくだされた病気を見て言うであろう。
29:23―全地は硫黄となり、塩となり、焼け土となって、種もまかれず、実も結ばず、なんの草も生じなくなって、むかし主が怒りと憤りをもって滅ぼされたソドム、ゴモラ、アデマ、ゼボイムの破滅のようである。――
 

 

 

続く