神を愛しましょう〜神を信じましょう〜神にぴったりしがみついて、神から離れずに生きましょうと言われても、一体そのことを、どのようにして日々の生き方、行動に移すのか、どのようにするのか、神はどう教えているのでしょうか?
申命記5章は、出エジプト20章が繰り返されています。
申命記は、約束の地に入る前の、同じ契約が再更新されたものが
記されているのです。聖なる民=天に属する神の子らは、約束の地=イスラエルの神の地上で選ばれた聖別された国に住まう、
聖別された民は、これこれを生きて、これこれを生きませんと
教えているのです。
神の教えを、しっかり頭脳に刻み込む、再確認なのです。
クリスチャンの教えでは、新しい契約〜エレミヤ31章や、イエシュアの過越の晩餐での言葉「新しい契約」という意味を、新しい別物の契約などと空想していますが、聖書が語るのは、常に
同じ1つの契約=シナイ山の契約のみを語っているのです。
中身が同じ!同じ契約、神の変わらない言葉、教えがずっと
再更新されていく話をしているのです。
シナイ山の婚姻契約=モーセの五書とは違う、別の契約や教えは聖書のどこにも記されていません。シナイ山の婚姻契約の中には、ノアの契約、アヴラハムの契約も含まれているのです。
裸の王様の服=存在しないのに、あたかも存在しているかのごとく語っている、新約聖書が新しい契約書?それは違います。
福音書以降は、シナイ山の契約=モーセの五書の短い解説のみです!
新しい契約でも、新しい別物の教えでもありません。
そして、モーセの五書=神の言葉、教えを終了したり、変形させたり、変えた教えは、イスラエルの神の言葉=聖書には1つも書かれていません。
新しいという言葉の意味は、新月の新しいと同じ言葉です。
ハダス、再び再更新されるという意味です。新月で、別物の月が毎月空に出てきますか?同じ月が出てくるのです。
月を通しても、神は人に、神の契約が永遠であり、再更新され
続ける性質のものである事を、教えているのです。
現に、婚姻契約=シナイ山の契約は、節目、節目で、再更新されているでしょう。古代中近東の条約=契約は、同じ契約が再更新され続けていくものなのです。
同じ契約に人が歴史上ずっと加えられ続けるから、参加する人の人数、状態が異なれど、神の教え、契約の中身は同じ!
この申命記も、約束の地へ入る前の再確認、彼らイスラエルと少数の異邦人が地上の聖なる国=天の現実を地に反映する国へ入る前の、厳重注意〜それは、神の性質に造られた人の生き方を教えているものだからです。
そして、申命記は古代中近東の国々に存在した、条約=契約形態で記されているものなのです。
だから、モーセがこのような聖書=トラーを書くためにも、
エジプトの王家で、最高の教育を受けた環境に育ったのです。
そして、契約が再更新され続ける事は、常識なのです。
存在していた元の契約とは、別の契約が書き直されるのではないのです。新訳聖書とは、人間が付けたタイトルですが、福音書以降は、契約書形態でなど記されておりません。預言者が書いた
聖書=内容を、使徒が解説しているだけなのです。使徒達は、
最初の聖書の内容を書き換える預言者などではありません。
聖書の最初の箇所の内容の解説のみが、記されているのです。
厳密にいうと、モーセの五書が聖書全体の中心です。土台!
ヨシュア記〜マラキは、モーセの五書の解説書です。
そして、最後の部分は、メシアが地上に来られた後、聖書の
最初の箇所のみを解説してる!!!福音書以降を書いた人たちの
教科書は、モーセの五書と、預言書、諸書のみ!その事実を念頭に入れておけば、見えてきます。聖書に聖書と書いてあったら
それは、100%モーセの五書、その解説の預言書、諸書のみを
指して語っているからです。
不適切な翻訳、誤訳と、そして人間の考えついた正しくない、
ズレた聖書解説のみを聞いていれば、福音書以降に書かれた
内容を完全に誤解して、聖書=神の言葉が昇天以降変化したと、信じ込まされてしまうのです。本当に聖書を正しく読み直して、
神の言葉通りを理解しなければならない事を、神から迫られている事に気がついてください。
ちゃんと考える!神の言葉は、永遠普遍と神が言った言葉の方を
取って、人間の主張=人が編み出した神の言葉を変えた教えの方を破棄、却下、焼却しなくてはならないのです。
本人=著者〜聖霊=神ですが、神が意図した事とは異なる、聖書解説を異邦人の世界では1世紀後半以降、今に至るまで行われてきて、行われ続けているのです。
ある部分は聖書の事実が語られるのですが、でも神の言葉が終了した!変化したという、聖書を理解するための基本中の基本の
土台自体が砂の上、歪んだ土台なのです。これを土台から、土から掘り起こして、全部歪んだものを取り除き、神が伝える意味、意図通りに、聖書=神の言葉の性質、事実に正しく戻り、補正しなくてはならないのです。
神の言葉をどの箇所でも曲げたら、その考え、思想は、聖書ではなく、変形し、歪んで行きます。
出エジプト?日本人だから、エジプト脱出してません〜、
日本人だからイスラエルでもありません〜!自分たちには関係ない事が、聖書には書いてある?
そんな認識で聖書を読んでいたら、何も見えなくなります。
神は、イスラエルを神の家族の代表と選んだだけであり、
アヴラハムも全民族の父である〜異邦人でも、イスラエルでも
誰でもイエシュアを通して神の元に引き寄せられた人たちは、
もれなく同じイスラエルの神の家族になったと、神の言葉=聖書は教えているからです。
それが神が創造された、人間の性質=デザインだからです。
そして、子羊イエシュアの血の贖いを受けた人は、誰でもヘブライ=イブリ〜超えた人、壊れた以前の自分は、イエシュアと共に
死に伏して、エジプト奴隷を脱出して、水を潜って超えた人たちだからです。
エジプトでの出来事を通して、神の子ら全てに、同じことを神は教えて続けているのです。水を通り贖われた。イエシュアの血、生ける水を通して、奴隷状態で閉じ込められていた隔たりの場所から救い出されて、神のもとに戻るために運び出されたでしょう。
ヨセフが穴から取り出されたように、ヨナが魚の腹から取り出されたように、隔たりの場所まで、イエシュア=生ける水が流れてきて、私たちも、イエシュアに運ばれ続けてきたのです。
申命記 5:6 『わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
5:7 あなたはわたしのほかに何ものをも神としてはならない。
5:8 あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない。
上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中に
あるものの、どのような形をも造ってはならない。
5:9 それを拝んではならない。またそれに仕えてはならない。
<人の教えに仕えてはならない!!!>
あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて三、四代に及ぼし、
5:10 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には恵みを施して千代に至るであろう。
偶像、偶像と言いますが、偶像、物理的描写、肖像、表示とは、何と聖書には書いてあるのでしょう?
神は、天にも地にも、自分のために刻んだ像=神の姿を作っては
ならないと、人に対して禁じられました。
アイドル、偶像とは何?それらは、イスラエルの神を誤解させる
表示、表現、象徴、彫刻etc etc etc 全てを含むものなのです。
イスラエルの神を誤解させる表現=人間の編み出した教え!
宗教の教えも偶像なのです。自分のために刻んだ、言葉で表す
イスラエルの神とは異なる教え=偶像=アイドルです。
いくつかの種類の偶像が、記されています。
ヘブライ語で「ペセル」。これは、木を掘ったり、又は石を刻んだりして、ある特定のオブジェ=物体に似せて作るものです。
「トムナ」ある事柄の概要や描写、ある種類、人種のグループ動物でも人間でもですが、それらを描いたシンボルなどです。
そして、「セメル」人や動物の体を意味する外形の表現、描写
動物やその他、世界にあるもののイメージを表すもの。
「トウバニ」男性と女性の形を比べるものを作る。
ありますよね。こういうの日本にも。
神はこのように、人が考えた目に見える、手に触れられるものを
人間の考えで編み出したものを作り出して、神を表現してはダメであることを、人に禁じています。
それらは、イスラエルの神を正しく表現、描写しているものではない、イスラエルの神には形がない、だから、人間が作ったもの人間が考えたもので、イスラエルの神を正しく表現などできない、全てが人間の思想、手により編み出された由来のものだからです。
そして、人間が考えて編み出した教えこそ、偶像そのものです。
聖書に書いてない、イスラエルの神が伝えてもいない、様々な
教え、礼拝、記念日、それらは人間由来であり、イスラエルの神を正しく表現、描写、表していないものだからです。神が禁じていることをはっきりと認識しないとならないのです。それらを、神は姦淫の罪、最も忌み嫌う!という強い口調で話しているのです。
そういうこと〜神の言葉に人間の教えの混ぜ物を、人間がするなかれ!!!神の言葉、教え、記念日に人間が手を加え、変形、
改ざん歪めて、別物に変えてはならない!!!とずっと神がそう言っているのです。その忠告の意味、何の行為を意味するのか、全く気が付かないでしょう?それは、宗教=人間が作った宗教
文化の中の教えや記念日が、聖書であると勘違いして、信じて
皆が普通に1900年以上も実践しているからです。
でもそれは、イスラエルの神のデザイン、イスラエルの神のものではイスラエルの神には異物のものなのです。聖書ではない!
神が伝える仰せではない!
神は人間の発想をありがたがりません!逆に、人間が神の言われた事とは違う事をすることを、姦淫の罪と強く警告し、断固として禁じている事が、聖書には書かれているのです。
それらが、「高きところの礼拝」混ぜ物の教えの礼拝の実態であり、人間の伝統の言い伝え、先祖の言い伝えと書かれているものなのです。
他人の臓器と同じ。人の臓器を移植したら、それは自分の性質とは違う異物だから、体が拒絶するのです。そのように、イスラエルの神は、イスラエルの神に属さない異物を最も忌み嫌うと
教えているのです。イスラエルの神は妬む神であるからと書いてあるでしょう?自分の空想の神、ローマ化した神ではなく、聖書に記されている、神ご自身が紹介している、神の性質=言葉を
知る必要があるのです。
神の実態、教え、大事な記念日が偽物にすり替えられる事、どうしてエル エリヨン、最も高きところにいる神が許せようか!と言われている意味を、理解できるでしょう?人間が、イスラエルの実態を作り替える、歪めて表現、人に伝え生きる事を許さない!と、神は言われたのです。
人間でさえも、自分ではない事を、他者に表現されたり、別の
人格として誰かに紹介されたら、不快、ドン引き、否定を主張しませんか?それは私ではありません!と。
神なら尚更そうなのです。人間が解説する、イスラエルの神とは異なる解説、表現、主張=それらは全部異物〜吐き出そう!と
聖書では、神がそう言われ警告しているのです。
神は、人間の編み出した教えをそのように拒絶する!と禁じているのです。
そういうことをするのが、異教の神々に仕える、異教徒、異邦人であると、神が警告しています。それこそが偶像礼拝なのです。
聖書とはズレた教えを人間がする事によって、神を正しく表さず、神に対して違反して、神の聖なる仰せを人間が拒否、却下、無効としているのです。
神の他に別の神々を作るなかれ!とあるでしょう。
それは、神の顔の上に別の顔を置くなかれ!とヘブライ語で書かれているのです。別の顔=人間の教えで、イスラエルの神の真実を覆い隠すな!という意味です。本物=神=言葉を隠したら、
偽の教えに騙されるからです。
神=言葉であると、聖書に書いてある実態の意味に気がついてください。神が伝えることを、人間が否定し、無効とし、破棄し、終わりとする、それこそが偶像礼拝の根であることが、聖書にははっきりと最初から最後まで記されているのに、読み取れないのです。人の教えという目隠しが、神の言葉の上にされているからです。
神にしがみつく、ダバッグするとは、どういう意味でしょう?
イエシュア=イスラエルの神にしがみつけませんよね。
物理的に、しがみつける神は目の前にはいないのだから。
空想の神像に脳内で空想してしがみつくのですか?
そうではありません。ヨハネの4章にも書いてあります。
ヨハネ 4:24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
神は霊であり、肉体物理的に見えない。霊とまことで礼拝するとは、どういう意味?てことです。
神にしがみつくとは、深く神との関係の中に根付き、そして、
神の仰せ、教え=トラーに記された神の言葉で伝えている、人の生き方を生きること!それこそが、神にしっかりしがみついて、ダバッグ=ぴったり密着して生きる事であることが、エデンの園の最初から黙示録の最後に至るまで教えられて記されているのです。その事実が、イエシュアの教え、イエシュアの生き方を通してトラーの真髄をどう生きるのか、深く教えられているのです。
生きる事は、キリスト。生きる事=イエシュア=トラーを生きよ!と聖書は伝えているのです。トラー=神の言葉=聖霊=イエシュア=神そのものだからです。イエシュアは、生けるトラーであり、イエシュアが生きられた通り=神の言葉の本質を生きよ!それが、キリストに付いて行くものの生き方、道=義=イエシュア=神の言葉でその生き方がどんなものであるのか、伝えられているからです。
続く