静かで細い神の声を聞き分ける | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

贖い、救いを得る事と、神の契約=シナイ山の契約は、関係がありません。どういう意味かというと、贖い、救いを受けるために、その目的の為に、神のトラー=婚姻契約が与えられたのでは、ないからです。

そういう思想は、異教の神々に仕える意識と全く同じ、偶像礼拝の根でもあるのです。これこれして、神に認められよう、神から

特別の恩恵を受けよう、自分が何かして、神を動かそうなどと

いう意識、全くズレた思想だからです。神の言葉がなぜ与えられているのか、その根本がズレている=人の思想を土台としているからです。

 

救われることと、婚姻契約の命を生きることは、別の2つのものである事を、聖書に記された事実から認識してして下さい。

これを、一緒くたに考えているから、神が伝えているシンプルな事実が見えてこないのです。

人間は誰一人、自分の行いで、贖い、救いを手に入れられない!

こんなに簡単なことなのに、どうして、救われるために、認められるために、神の言葉を生きるなどという解説をしているのでしょうか?

2つ別物とは、この世界が神により創造される前から、永遠の中に屠られた子羊の血の贖い〜イエシュアの贖いは、存在し、

その事実を、ユダヤ人も、異邦人も、どの時代に生まれても、

それを受け取る事だけで、父の元に取り戻される事実は、

最初から永遠から同じです。誰一人、イエシュアを通して以外、

父の元に来ることはできないと書いてある。それはユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、どの時代に生まれても、全く同じであるからです。

1つの救い=イエシュアしか存在しないからです。神は変わらない、変化しない、神の言葉、救い、福音も1つで同じだからです。それを聖書から読み取っていないこと、それが聖書を曲げて解説している、原因なのです。

 

でも、クリスチャンの世界の教えは、救いや福音が時代や人種により別物であると解説しています。そして、それは聖書に記された事実ではありません

聖書の記述とは、ズレている人の考えついた教えだからです。

贖い、救いは神からの一方的な譲渡、ギフト!それを、信仰により受け取るだけしかない実態なのです。

 

そして、神のもとに元戻された人、新しくされた=聖霊が内側に住まう人に、与えられたものが、婚姻契約です。

贖われる前、新しくされる前に、婚姻契約が与えられたのではない事を理解しないとなりません。奴隷脱出=以前の自分は、偽の主人に繋がれていた、偽の主人から、本物の主人が代価を払い、私たちは神の元に買い戻された、それが贖いの意味なのです。

そして、神の聖なる民=花嫁とされた人に与えられたものが、

婚姻契約=トラーなのです。それが、聖なる民の本当の生き方であり、神との関係を生きる実態だからです。

古代は、神の言葉を生きてイスラエルはかろうじて許されたとか、義とされたとか、神が言ってもない事を、異邦人の世界では

解説されてしまっているのです。神の言葉がなぜ与えられているのかの理解根本、元がズレているからです。だから、過去は律法生きて、生贄捧げて許された、昇天以降は聖霊時代で許されたから、違う教えが出てと信じているのです。古代も動物の血は

罪を消さない!と書いてあります。罪の赦しのために、神殿で

コルバンが捧げられたのではないからです。

贖われた後、贖われて、救いを受けた人達に、婚姻契約が与えられたのです。新しくされる前ではない!出エジプトで、それが教えられているでしょう。

神の最初の創造の人〜イエシュアの性質そのもの、デザインを

生きる事!新しくされた人は、神に贖われ罪の縄目の法則の下から、解放されたので、神の性質を、罪に妨害されないで、自由に生きる事ができるからです。それが、自由の本当の意味です。

神の意図通りを選択する自由!神の性質を生きる本物の自由を与えられたと書かれているのです。

神の言葉や教えを自由に削除、仕分け、無視する、無効とする

そのような選択が、神から与えられたという、聖書ではない教えを、教えられてしまっているのです。気が付けば、聖書=神の教えの根底=土台を揺るがす教えを、1世紀後半以降、異邦人の

世界では、されてしまい、それが根深く浸透しがっちり、聖書とは違う解説が地位を築いてしまっているのです。

事実、クリスチャンの教えは、十字架に律法が付けられた〜、

律法は廃れた〜、信じたらユダヤ的なことやめなさい〜異邦人には関係のない教えだと、聞かされ続けて、本気でそう信じて実践しているでしょう?

今や、LGBTQを、聖書を曲げて称賛する牧師までいるのですから、どこまで聖書=神の教えを勘違いして、読み込みし、人を

誤りに導いている罪に盲目なのでしょう?

聖書のどの箇所の言葉に対しても、それは同じなのです。

神が伝えたことを、人間が曲げて解説する、それがLGBTQを支持、推奨し、神が禁じた関係を賛同し、神が禁じた食べ物を

食べて良いとする教え、神が人に伝えた、どの種類の、どの神の言葉教えであれ、シャバットや祭りやその他もろもろ全て含めて、どの神の教えに対しても、人間が神の言葉を変える、曲げることを、神が禁じていることに、気がついていない危険な状態なのです。

LGBTQを称賛することと、食規定を破棄する教え、シャバットを変更したという教え、どれも神の目には、全て同じ罪、神の

教えからズレている教え、聖書ではない人間の考えなのです。

聖書には何と書いてありますか?文脈や意味を外さないで読めば

理解できます。神が人に伝えている事に、人間が違反すること、

それがどんなことであれ、その生き方はズレていると、神は教えています。ズレ=罪=ハタ、的=神の教えを外す事、的外れ。

それが、どんなに的の真ん中近くに見えても、神の言葉=的からズレていれば、それはズレているのです。

神の言葉は、神が完全であるように、全く完全で変化ないからです。神の言葉は掟リストではなく神が造られた神の似姿通りの人間の性質を取り戻された人はこれこれを生きる、それがあなたの本当の性質だから、これこれは生きません、それはあなたの性質とは違うから、それらを生きませんよと、神が伝えているだけなのです。簡単でしょう?

神の教えを守るために、必死で神の教えを生きるのではないのです。鳥は頑張って飛んでいるのではないでしょう!鳥だから、飛ぶ。でも、雛鳥は飛び方が分からないから、飛ぶ練習が必要なのです。それと同じ。新しくされた人=雛鳥は、与えられた空を

主の意図通りに自由に飛ぶ練習が必要なのです。それは、神の性質通りを生きる事の練習、それが聖書に書かれている、神の教え=イエシュアが教えた父の言葉=トラーの真髄なのです。

 

神が伝えていること、教えていること、それが本来の人間の生き方だから、教えている、シンプルで単純な事実なのに、人は

やれ律法主義だ〜、その教えは今は十字架につけられた〜など

完全に人間の理屈や、都合を述べて、神の言葉を否定し続けているのです。考えたら恐ろしい行為、死に匹敵する罪と、神は人に教えられていることなのに、堂々と平気で大手を振り主張し、

やれる、ズレている、的を外しているのに気が付かない。

イエシュアを愛すると言いながら、同時に神が忌み嫌う事が

分からないまま、神=言葉=イエシュア=聖霊を否定する。

 

ヤコブ 2:8 しかし、もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊いトラーを守るならば、それは良いことである。

<はっきり書いてあります。トラーは良い=トブ=神の意図通りである!と。>

2:9 しかし、もし分け隔てをするならば、あなたがたは罪を犯すことになり、トラーによって違反者として宣告される。

2:10 なぜなら、トラーをことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。

クリスチャンの世界の教えは、神の言葉を人間が勝手に操作し、

これを破っても良い、これは守れば良いなどと、神抜き=神の

言葉を否定して、自由きままに、人間が神より上になり、人間至上主義を唱えていることに、気がついていないのです。

神の言葉を人間が判定し、勝手にやっている。

その原因は、聖書ではなくて、神の言葉を改竄している人の作った教えの方を信じて、それが新しい今の時代の教えだと主張しているからです。

 

イエシュアは地上に来られて、何を教えて、何を生きて人に

伝えましたか?

ルカ4:16 それからお育ちになったナザレに行き、安息日=

第七日目にいつものように会堂にはいり、聖書=トラー、預言書諸書を朗読しようとして立たれた。

4:17 すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、

4:18 「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、

4:19 主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。

4:20 イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。

 

毎週、今も世界中で、シャバットでトラー、預言書、諸書などの箇所が読まれますが、イエシュアがされていたことを、ユダヤ人は継承しているのです。イエシュアや、パウロ達も1世紀同じように、シャバットでトラーを読み上げました。

そして、トラーを学んだのです。

 

WWJDと言うなら、イエシュアがされた通りを生きる、それが

イエシュアを愛することであり、イエシュアが伝えた通りを

生きること、それが、神に対する贖われた人の本物の生き方なのです。

イエシュアを愛すると言いながら、聖書は完全であると言いながら、どうして神の言葉を否定することを平気で主張し、行動することに、無感覚なのだろう。考えたら不思議な現象。人の頭脳を

占拠する違う教えとは、人を神が伝える真実に気が付かせない

妨害をしているものでしかないのです。

 

神に対する愛、契約の中で神が教えている愛は、神の言葉に人がしっかり根付き、常に神の伝える言葉を学び、考え、追求し、

日々を、神の意図通りに生きて、そして神に対して行動で、態度で、神を愛する事を示す事であると、書かれています。

ヘブライ語の祈りとは、テフィラ=神のトラーに照らし合わせて、神と対話し、自分の考えていることが、神の言葉にぴったり合ってるのか、合ってないならば、神の言葉通りに軌道修正する行為であると、書かれているのです。

自分の願いを押し通すために、神に対して自分の思い、願いを、ごね続ける事、それは祈りではないのです。そんなのは、異教徒の世界でもやっています。お百度参りや、何時間も読経、祈る、念ずる事?

もし考えていることが神の意図通りであったら、それが神の御旨なのです。だから、山に向かって動け!と言うのは、

その山が動くこと、イコール神の御心であるならば、そのようになるという意味で、自分のゴネ具合が深く執拗ならば、そうなるなどという意味などまるでないのです。その逆で、人が神の考え、御心を知る事、それが祈りの本当の意味だからです。

 

イエシュアも同じでした。常にトラーを語り、生きて人々に教え続けたのです。私達と同じ人生を、短い地上の生活を、人として生きた。イエシュアが伝えた神の言葉の解説は、天の解説そのもの、人間の肉の解説〜先祖の言い伝えや、人の解釈や、伝統の教え=律法の行いと呼ばれる、人間が考えついたトラーの解説や

教えではなかったので、当時の人にはドン引きする、異物の教えに聞こえたのでしょう。得に、当時の権威、トラー教師達には、

自分たちが、守ってきた、教えて来た先祖の言い伝え、それは

人間が解説した教えを生きていたのに、それとは違う事を、

言ったイエシュア。でもそれは、神の言葉の真髄の解説であるから、多くの人がイエシュアに引き寄せられた言った、その事にも、脅威を覚えたからです。

 

イエシュアが祝うように教え、祝ったのは、神が創造された記念日〜シャバット=第七日目です。その他、レビ記23章に記された神の記念日です。そして、クリスマスではなくて、ハヌカを

祝われた事が、ヨハネ10:22-23に唯一記されています。

聖書に書いてある安息日=シャバットは、第七日目以外にありません。第七日目以外を、特別な名=シャバットという名を、神は名付けていません。第七日目以外を、神は聖別していません。週の中で、

第七日目以外、神は人を呼び出し祝うように教えていません。

何をどう信じて、生きようとそれは、個人の選択であり、誰も

阻止できないものなのですが、聖書=神の言葉を曲げる自由は、

人間には与えられていないこと、聖書から先ず気が付く必要があるのです。

聖書ではない事を、神が語ったが如くに、語る事も、人には禁じられているのです。偽証するなかれ。

神が伝えている、神と人に取り、重要な神の教えや記念日を、

人間がことごとく変えてしまったので、宗教の教えの文化や伝統が聖書に書かれた神の仰せではないものが、聖書であると、

勘違いされてしまって、1900年近く実践されています。

 

 

Shabbat Shalom