神の言葉は完全で永遠不屈永遠に普遍で消滅しない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

前回の記事で説明したかったことは、クリスチャンの世界で語られている教えが、神が神の言葉を終了させた理由は、人が生きられないものであるからだとか、お互いに無意味な言い争いをしなくて良いために終了させた!などと解説しているのがありますが、それは、神の言葉の本質をはぐらかしてしまう教えです。

 

神の言葉が無意味、無用、終了という言葉で生み出される意識は、神の言葉が完全である、神が完全であるという事実を、

真っ向から否定しているものである事を、よく考える必要があります。

真実ではない教えは、人を別の意識、思想、義の道ではなく、

ズレた道に導くものです。

 

聖書に実は書いていない教え=人が作り替えた教えなのに、それら人間の教えを、聖書だとして教えている事に、教えている人が聖書から気がついていない問題があるのです。

考えてみたことは、ありますか?どうして、聖書に書いてない教えを神の言葉、教え、仰せだと信じているのだろう?と、一度でも考えてみた事ありますか?

いやそれ以前に、何が聖書に書いてあり、何が書いてないのか、把握できないまま、人の作った教え=宗教文化の伝統の教え、言い伝えと、聖書=神の言葉の混合=ミックスジュースを聞かされているので、人の教えか、神の教え=聖書なのかを見分けられないのです。

日曜礼拝=安息日なんて、聖書には無い概念、実践、記念日なのに、どうしてそれが聖書=神の仰せだと信じているの?不思議ですよね。

それほど、人の教え〜人間が作った宗教の教えの文化、伝統的を継承している事に、気がついていないからなのです。

聖書に書いていない事なのに、人の解説で真実だと思い込まされる、進化論を信じる事と全く性質は同じなのです。事実ではないけれど、そう教えられたら、疑いもなく、そう信じこむ、皆が

長い年月信じる嘘を覆すのは大変であり、聖書に記された根拠に基づき調べることなどしていないから、分からないのです。

 

人間が神の言葉に、人の思想を混ぜて作った西洋宗教の文化の教えが伝達されてしまって、浸透したからです。

 

人の思想がそれほど迄に、長い年月浸透して、神の言葉の真実を覆い隠しているのに、それが聖書であると思い込まされている

代償、弊害があるのです。

聖書に記された、完全である永遠の真実=神の言葉の真実が見えない事が問題なのです。神の言葉は永遠であり、完全であり、変化しないと神が人に伝えている真実が、人の教え=神の言葉を

どの箇所でさえも否定する人には通じないのです。

クリスチャンの教えは、今の時代は、それぞれが良しとすることを生きれば良いと教えています。

しかし、そんな事神は1度も人に伝えてなどいません。

神は、人との言い争いがなくなるためには、神の言葉をそれぞれが自由に差し引き、付け足し、又はその人の判断で神の言葉を生きるか生きないか自由であると言った?そんなこと聖書には1つも書かれてなどいません。

聖書に書いていない事を、教師が教えて、人の教えを信じるように伝えているのです。それが、「宗教の教え=先祖の言い伝え、

先祖の伝統の教え、ならわし」と聖書が語っている、聖書ではない教えの事なのです。

人の色々な生き方や、嗜好や、好み、それに口出すなということですが、それは当然の常識です。

聖書を知らない人でも、一般常識があれば、分かる事です。

他者の生き方を、いちいち面と向かって普通の人でも、直接に批判、指摘しません。余程ズレた事、悪事を働いているならば、

それは指摘されますが、人の生き方の嗜好を、指摘などできません。それが出来る関係は、親子、夫婦間、親しい間柄です。

特に信仰に関しては、親子であっても、それが幼い我が子になら、これこれは〜ですよと教えられても、成人した違う信仰形態を持つ子には、親の考えを強要などできないでしょう?

 

自分の知っていること、信じていることを、普通の常識がある人ならば、むやみやたらに、他人に、押し付けたり、強要などしないものです。

人との関わりや常識の面と、神の言葉を生きる事とを、混同して混ぜると、本質が見えなくなります。その前に、幾つも問題があるのです。

1つの大きな問題は、神の言葉を人間が否定している罪=最も

重たい罪に、神の言葉=聖書に書かれている神の言葉から全く、気がついていないことです。

人間が神の言葉を曲げる、歪める、否定する、削除する、それが

第一の問題なのです。人間が神より上になってしまっているからです。神を神と認めない〜それが、神の言葉を否定する行為なのです。

第二に、今の時代は、人の生き方の選択枠が広がり自由になったという、聖書とは違う教えを、異邦人の世界でされ続けてしまっていることです。

キリストが来られた、イコール古い律法が終わり、聖霊時代になった、そのような解説を一般的に聞くでしょう。

これは、聖書ではなく、人間の思想=デイスペンセーション神学だと知っておいてください。神の言葉ではない、単なる人が考えついた、人間由来の思想です。

この思想が、20世紀、特にイギリス、アメリカのクリスチャンの世界で、神学校で、牧師、教師に多大に受けて、人間由来の

神の言葉を曲げる思想が取り入れられてしまい、聖書に違反する註解書を、聖書のページにことごとく書き記して、それら人間の思想で書かれた解説が聖句の隣に並べられて書かれてしまい、

聖書として出版されたのです。

スコッフィールド註解聖書=聖書とは違う人間の思想=デイスペンセーション神学思想を聖書のページにあたかも、聖書の真実の解説として書き込みしたものが、アメリカで莫大的に取り入れられたことを、以前に書きました。

そんな教えが神学校で爆発的に浸透し、皆その人間の思想を買い、人の思想を通して歪めた神の言葉=聖書を学んだ人たちが、普通一般の人に聖書ではない思想の聖書解説を浸透広めたのです。

聖書ではない、人の思想で解説する聖書を神学校の講壇から、

聖書であるがごとくに、語られ続けて現在に至るのです。

この思想の大元の根は、すでに1世紀後半から、異邦人の世界で存在していたのです。だから、信じたらユダヤ的な事をやめよ〜と、ローマ帝国が出した勅令に沿った思想を、西洋教父達が一般人に教え始めたのです。聖書ではない、人間の教えは、そのように異邦人の世界へ浸透して行ってしまったのです。

 

だから、西洋宗教という名がついているでしょう。ヘブライの

聖書、預言者やイエシュア、使徒達が教えたトラーとは違う思想の西洋人が考えた思想を混ぜて作った宗教だからです。

聖書に記されているのは、ローマ化されたジーザスではなく、

ヘブライのイエシュアです。

旧約聖書はユダヤ教、新約聖書はキリスト教と、解説している人もいますが、そんなこと=宗教の教えは聖書には書いてありません!

聖書は、神の純粋な言葉!が書かれているだけです。人の教えが混じる教え、それが、「宗教、〜教」なのです。それらは、人間の思想、イエシュアのおられた1世紀では、伝統の教え、先祖の言い伝えと書いてありますが、これは口頭トラー、口伝律法という日本語が使われていますが、人間の思想で解説している神の

言葉=教えです。

そして、大きな違いは、ユダヤ人の世界では、異邦人の世界のように、神の言葉が終了した、途中で無効、変更になるなどという思想など

ありません。聖書には、神の言葉は完全で変わらないと書いてあるからです。中には、聖書を知らないユダヤ人も多くいて、世俗的なユダヤ人は神の言葉など、注意も払わないのです。だから、問題が起きるのです。契約の中にある困難が生じる事、契約を与えられた時に、警告されています。

ユダヤ人の中でも、神の伝えた言葉を、人間的に理解して、本質がズレた事を考えて、教えやルールを作り出しやっているという事があるのです。トラーの周りにフェンスを作ると言いますが、動機は神の言葉が破壊されない為とありますが、本質からずれてエスカレートしたら、どんな教えでも編み出せます。これはクリスチャンの中にもたくさんある事なのです。

ユダヤ人の中では、シャバットに電源に触れないとか、ホテルの

エレベーターが自動で動くなどです。

聖書とは関係ないけれど、それらが労働などと考えているからです。

クリスチャンでも日曜日は労働日じゃないから、仕事をしないと考えている人もいるでしょう。でも日曜日は神の言葉では労働日の初日です。働く日。作業する日。真実からずれると、どこまでもずれる事になります。

聖書に書いてあるのは、純粋な神の言葉であり、最初から同じ

福音同じイエシュアが書かれているのです。

〜教とは、人間の思想が混ぜられた宗教、イズムなのです。

イエシュアはユダヤ教もキリスト教も教えていません。

神の言葉=トラーを正しく解釈し教えるために来られた!と書いてあるでしょう?マタイ5:17

人の思想が混じらない、純粋な神の言葉、教えを教えて実際に生きてみせた!と書いてあるからです。

 

問題は、神の言葉でないのです。神の言葉は完全無欠、そして

永遠普遍だからです。問題は、人が神の言葉に対してどう受け取るか、どう取り扱うか、どう理解しているのか、どうアプローチするのか、どういう動機で神の教えを生きているのか?それだけが問題なのです。

人と言い争いが起こらないために、神の言葉を、神が終了させた?などという解説は、聖書とは異なる、全くズレた聖書解説なので、そのような言い方、解説はやめないとなりません。

そのような思想や発言は、問題の本質をはぐらかしているからです。

争いがないために神の言葉が終了したのではなくて、それは、どんなに正しいことであっても、それを言う「時」と、「場所」と、伝える「相手」の状態を見間違えば、それが問題になるのです。普通の常識で理解すれば、分かる事です。

 

ヨブの友人達の、ヨブに対するアドバイスは、間違ったことを言っていたのではなく、ヨブが悩みの中にいて、苦しんでいる時に、その時のヨブに語るべきこと、相応しいことを言う知恵がなかった、そこが問題です。自分たちの考えを勝手にヨブに、まくしたてたからです。相手に対する、無神経なアプローチが悪い!という事。

 

ヨブのような状態であれば、余計なことをあれこれ言わないで、

ただそこに居てあげればよかったのかもしれないのです。

対応が間違っていたのでしょう。いくら正しいことでも言うべきことではないことを語っているこれが問題なのです。

それが、トラーの知恵の生き方を解説する、箴言にも記されています。

箴言27:14朝はやく起きて大声にその隣り人を祝すれば、 

かえってのろいと見なされよう。

箴言 25:20 心の痛める人の前で歌をうたうのは、寒い日に着物を脱ぐようであり、また傷の上に酢をそそぐようだ。

 
やっていることは、その相手の、その時の、その場に相応しいのであれば、トヴであるけれど、やってはならない時に、やるべき時ではないのに、やれば、それはズレていることが教えられています。
うつ病の人に、頑張れ、などと励ましてはダメと言うでしょう。
それです。ある人は、誰かの説教がましい言葉ではなく、何も
言わないで、一緒にそばにいて、寄り添って気持ちを聞いてあげる、それがその人にとり、その時必要な対処だからでしょう。
 

そういう事であるのに、今の時代は、言い争いがなくなるために、神の言葉は、それぞれが生きるのか、拒絶するのか、その自由が与えられています、人が神の言葉を仕分けすることができますなどという、神の言葉に反抗する聖書解説や教えが普通になされているのです。それ、聖書に真っ向から反する教えなのです。

 

このような解説を、ただ聞いていると、それらしく納得して、聞き入ってしまうでしょう。特に聖書は終わりありきで、クリスチャンの世界では、そのように聖書を歪めて信じているのですから、その思考回路の上に、このように言われたら、「なるほど〜神は今はなんでも許されたのだ〜祈ればきよめられるのだ〜」と、聖書ではない教えなのに、神の言葉を曲げている人間の教えの解説を、本当であると信じ込むのです。

 

続く