神の言葉が終わりとしたい理由は自分にとり都合の悪い教えがたくさんあるから | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

誰かの思想を通して語る聖書の解説が、どのように神の言葉の

本質から外れて行くのか?

 

それは、神の言葉を、人間の考え、自分の考え=肉の目=神の

意図通りではない考えで、言葉で、表現、言い回しで解説するから、聖書=神の伝えている本質、事実からズレて行くことが、

分かります。

神の意図通りに神が人に伝えていることを、その通りにまず理解することが必要なのです。

 

聖書に記されている創造のはじめ、歴史上人類の最初の人、

完全なる人間、神の性質、似姿そっくりに造られた人たち、

アダムとハヴァがエデンの園で、神に言われたこととは違うことをして、知識の木から食べたことで、全人類、全ての人が罪〜

ズレてしまったのです。最初の最初に書いてあります。

神のいうことと違うことをしたら、ずれる!!いずれ死を招く

破壊されるから、ダメだよ!そんなに難しいことでしょうか?

人間は、神がいう通りになんてしたくないことが、ずっと書かれています。日本では、「かみさまのいうとおり〜」と言って選ぶ

子供の歌、フレーズがありますが、神様の言う通りになんて、したくない、それが人間が編み出した宗教の教え!であることに気がついてみてください。

編み出した宗教〜西洋宗教も同じです。神の言う言葉とは違うこと言ったりやったりし始めたのは、1世紀後半からです!

神の中=エデン=歓喜の中、本来の姿から外側に飛び出し、

神と人との隔たりの穴の中に閉じ込められてしまいました。

隔たり=本物の自分が分からない、神との関係に壁ができ、一番親しい親密である婚姻関係にある相手との間に壁、亀裂、誤解、嫌悪etc

神に創造された本来の姿を、生きられなくなってしまいました。

そして、世界の四隅、どの場所に住んでいても、生ける水である

イエシュアが私達一人一人の場所へ来てくださって、隔たりの

場所から取り出して、神の元に引き寄せてくださったのです。

神はこの世界を創造される以前から、永遠の中に屠られた子羊の血の贖いの代価を用意し、私達もこの世の礎が造られる前から、既に神に選ばれていたと書かれています。

西洋宗教の教えの、人へのアプローチは、人がどんなに罪深い性質であるかを、とことんずっと言い続けます。

罪人罪人と、耳にたこができるほど、聞かされます。

ズレたことは、事実ですが、神は人がしているような責め方など

一切していません。しかも、あなたの罪を思い出さないなんて

そんなことまで言われている、神。人間とは違う。そして、そのずれの責任、代償を100%、永遠から最初から神が負って下さったのです。

罪=ズレをしたら、必ず傷つく、弊害がある、後悔、悲しみ、

本来経験するべきではないことを身に負ってしまいます。

そして、同時に周りの人も破壊していきます。

だから、罪=ズレを生きてはダメ!と神は人に教えています。

神の前に認められるために、神の教えを生きるなんて、そんな

ズレた思想に基づき聖書を語るから、本質が見えなくなるのです。

神の語る教え全ては、神が創造された本来の人間の生き方の全てを教えているものであると、認識してみてください。

 

それは、私が、あなたが、どんなにダメな人なのか?という言い方を、神は決してしていません。

ズレを生きること、それはあなたではない!と、神が人に伝えているのです。ズレを生きるように、あなたは造られていません!

簡単でしょう?神の伝える意図通りを生きる、それが神がデザインした人間の生き方ですと教えているだけです。

人間の生きる領域は色々ありますから、神は色々なことを通して

理解できるように、神の言葉で伝えている、それなのに、異邦人は神の言葉を捨てて、終了!などと言っているから、神が教えていることの意味、事実が、見えなくなって、神の言葉の代わりに、人が作った教えを信じてしまっているのです

 

本来の自己像=神の似姿から、ズレて生きていた、今もズレていることしたら、それに気がついて本当の生き方に即座に戻る!

その照らし合わせる基準は、神の言葉!です。

 

イエシュアが姦淫の女性に近づいて語られた姿、言葉を考えても分かるでしょう。皆が責め続けているけれど、イエシュアは彼女に、

「あなたを罪に定める人はいますか?」と質問し、その時点で、

その場にいた人達皆自分も同じようにズレたことをした体験があるので、年寄りから次々と全員その場を去りました。

イエシュアが彼らを追放したのです。そして、イエシュアも彼女に「わたしもあなたを罪に定めない、そして、これからは罪を犯してはダメですよ。」と諭して言われました。

罪を犯し続けたら、人は破壊されるからです。罪許されても、本当の生き方ができないままになるからです。

このようなアプローチが、イスラエルの神です。

人間のように責めたてていない!何が人を破壊するのか、教えているだけです。それを聞きたくないのが、人間なのです。

神が伝える罪=ズレ、神の意図から外れる生き方、罪の詳細は福音書以降には、全部書かれていません!

そして、神が人に伝えた罪の詳細の全ては今も変わりません。

 

だから、モーセの五書が廃れた〜という教えを唱える人には、

神の前に何がズレ、罪、的外れな生き方なのか、聖書の記述を

よく分かってないということになるのです。しかも、それらは終わり、自分には無関係と信じているから、なおさら何を神に教えられているのか、気が付く、知るチャンスもないのです。

自分流の解釈を生きてる。聖書は最初の部分に必要な教えの全てが書かれているからです。

 

福音書以降は、モーセの五書で語られた長い内容を、短く、たとえ話にして、イエシュアが語られていますが、その背景にはモーセの五書に記された、何章もの内容の背景があるのです。

神の教え=父の言葉=モーセの五書に記された事に基づいて、

イエシュアは全てを語っているのです。

だから、モーセの五書に書かれている内容、意味が分からなければ、何をイエシュアが説明されているのかが、はっきりとは、見えない、分からないままになるのです。

聖書の解説の仕方で、神の教えが全く違うものに聞こえる、違う性質本質とは異なるものに聞こえてきてしまいます。

そして、語る人の口調や音声などでも。ある説経者は怒ったように、怒鳴ったり、大声で話したりしますが、toxicです。

害毒です。人に罪悪感を与える話し方をします。

あなたはどうしようもない罪人というのも、それです。

同じことでも、言い方が違うと、全然別物の性質の教えに聞こえてしまうことが、分かると思います。

 

クリスチャンは、罪人、罪人と言うのが、普通ですが、それは

イエシュアに贖われた自分の本当の自己像を、正しく理解していないからです。

罪人=ズレた人は、今事実どこにいますか?聖書を信じていますか?

イエシュアと共に自分が死んで葬られた。死んで葬られたらない、

無くなりました!でしょう?それが事実です。そして、本物の自分は、イエシュアと共に復活して、新しくされた、全てが新しくなったと聖書に書いてあること、本当に信じてますか?感じなくても。。。

 

新しくされても、ずれる、こける、体も老化して行くから、

イエシュアの言われた新しくなった人であるとは信じられない?

そうです。信じたら、一切ずれません!なんてことを、神が人に話しているのではないのです。以前の記憶が、肉の頭脳にあるから。

その学習した、思考、行動パターンで生き続けるからです。

それを、1から再学習!

聖書にはずっとそれが書かれています。新しくされた人を生きる

選択をし、実際に生きる、訓練、練習が書かれているのです。

 

新しくされた人を生きる訓練、次の世界へ行く訓練の旅路が、

聖書には記されているのです。それを、「成人としての成長、その過程」とクリスチャンも知っているでしょう。

実際に生きない人、訓練、練習のない人には、実がない、成長は

期待できません。そのまま、無造作に生きても、何も変わらないからです。だから、パウロは、モーセの五書に書かれた事実を、

1つ1つの思索をキリストイエス=新しい人に実態で捉えて考えて生きよ!と伝えています。

 

それが、命のサイクル、神のシャバットからシャバット、記念日から

記念日〜神の呼び出している祭り、祝いのサイクルを生きる、

それが、神が教えている地上の訓練、イエシュアの業を生きて教える命のサイクルなのです。

これ不思議ですが、ちゃんと最初から新しくされた事実を、

モーセの五書の中ではっきりと教えられています。

移動式ポータブルの神殿と、固定神殿、移動式ミシュカンに神に臨在があった朽ちる今のこの体に既に神=聖霊=イエシュアが住まわれているでしょう?罪人の中ではなく、新しくされた人=聖徒たちと神が

呼んでくださる、その事実の中に聖霊が住まわれる。

だから、聖霊=神の宮である人は、神の宮とは違う生き方をしない!

神の宮通りの生き方をする!至極シンプルな事実です。

やがて朽ちない体、これが固定的神殿神の宮でも表されていますが、その日が来るまで、既に天を先取りしている。

それが、この世にあってこの世ではない、不思議な存在、天の聖なる民の現実であることが、書いてあるのです。

そして神の宮で仕える祭司たちは、皆既にコルバンを捧げる前に、

白い服、義の色〜青、紫を身につけています。全部、私達イエシュアの贖いを通して救い出された人達、ヘブル、イブリ=超えた人、出エジプト=奴隷から贖い出された人は、新しくされたことを教えています。

子羊の血の贖いは、過越で教えられているでしょう。

それ以前から、エデンの園の最初の最初から、教えられています。

神が屠った贖いの血、イエシュアの代価で覆われている。

 

だから、神が解説する本当の福音のコア、中心、本質に対する

言い方を気をつけないとなりません。

罪人の自己像を教えられ、頭脳にインプットし続ける人は、新しい人で生きることができません。

なぜなら、偽の自己像=以前の死んだ修理不可能の自己像を

叩きこまれ続けるから、新しくされた事実を完全宣言しないから

分からないのです。そうでしょう?私は〜だ、私は病気だ〜私は〜〜〜〜と、言い続ければ、それがあなたの信じる自分の自己像になってしまいます!気がついて、蛇はたくみです。

1日中、聖書らしくても、本当は違うことを耳元頭脳でささやく

それは、自分で自分に頭の中で、ズレたことを自分に語り続けていることに、気がつけばよいのです。それを止める!

聖書=神の言う通りを宣言し続けるのです。

そして、新しい人を自覚する場合、神の言葉に根付いて生きる場合、神の語るズレが何かすぐに直感し、分かります。気がついたらズレをやめてすぐ、イエシュアと同じ思考回路、行動、生き方、戻るのです

免罪符もらって、罪犯しても即座に許されるからなんて考えているから、分からなくなってしまうのです。

 

古代のヘブライの世界の人々に書かれた聖書を、現代の異教徒、異教神の文化に先祖代々どっぷりつかり、根付いてきた思考回路で読み込みしたら、自分の空想で聖書とは違うことを考えて

誤解してしまうことが多くあります。

 

当時の人たち〜対象に書かれた神の言葉を、聴衆が聞いて、

理解していた通りを知る。それには、当時の言葉の使われ方、

文化の中での情報など様々な手がかりが必要です。

何しろ、外国語=ヘブライ語ですし、先ず最初に、その時点で

大きな隔ての壁、ギャップがあります。

英語を日本語、日本語をフランス語に翻訳しても、同じことが

起きます。言語の壁があるから、仕方ないのです。

そのままの言葉の意味を、解説なしでは、理解できないものが

たくさんあります。

例えば、普通に使っている、「きよい、きよくない」

「タホー、タメー」という言葉も、日本語や英語で直接その意味通りを表す言葉はありません。その他にも、たくさんあります。

日本語でもあるでしょう。

「わび、さび」なんて意味を、英語でピッタリの言葉はありません。

これは、ここでは解説しませんが、別の記事で書きますが、

翻訳では、意味がその通りに通じないものがたくさんあるのです。そのために、正しい手がかりと、解説が必要なのです。

しかも、聖書に書かれた言葉の意味を全く表さない、別の言葉で

大事な聖書の基本概念が語られてしまっているのですから、それこそ、正しく神の言葉を理解し受け取ることが困難になっているのです。律法や教会という言葉など、その代表例でもあります。

 

だから、聖書に書かれている言葉〜聖書の基本的な概念、意味を

学び、知ること、そしてその当時の人の文化の中で理解していた

通りに聖書を知ること、これは必須です。

 

同じ日本でも、古代で使われていた日本語の言語、言葉は今と

違います。同じ言葉でも古代と今では意味が違ったりします。

古代と現代ではなくて、同じ日本国に住んでいても、日本語の方言がたくさんあり、互いに話が通じない世界が存在していたし、

今も他地方の人同士では通じない言葉が、多くあるのです。

そして、学校で習う古典など読んでも、解説がなければ意味不明でしょう?読んでそのまま分かるなんて生徒は、いないです。

 

何を話しているのか、伝わりづらいと思うので、ゆっくり考えながら行きたいと思います。

 

 

 

 

続く