聖書に書かれていないことをどうして神の教えであると信じているのか?その根拠は人の思想 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ある人が語る話を聞いていると、とても励まされますし、

力、勇気が湧いてきます。

それは、神の言葉に根付いたことを、語っているからです。

 

そして、その素晴らしいメッセージの中に、違うものが紛れ込んでいることがあります。

話の本質がはぐらかされてしまうことが、語られるからです。

書きたい内容は、神の言葉で表されている内容なので、深くは

書きませんが、これは重要なことなので、その違い、識別をする

ための手がかりを書いてみます。

 

こんな解説です。これは、直に聖書に反する教えをしていますがその解説はもっともらしい事を、もちろん語っているように聞こえます。

でも、語られている内容で、聖書を語っているのか、神の言葉から人の意識をそらす、又は神の言葉を否定する、軽視する意識をすり込むもの、はぐらかしていることを語っているのか、見分け方が必要です。

神の言葉から、少しでも意識を逸らす、軽視させる教えは危険!

と覚えておいてください。

これは、聖書に神の言葉で、厳重に神の言葉にしっかりつかまる

赤ちゃんがお母さんにしがみつくように、しがみついて!という

ヘブライ語でずっと記されているからです。

その言葉だけではなくても、同じ意味の言葉で神の言葉から離れるな!安全帯をゆるめるな!と書いてあるからです。

でも人の教えは、神の言葉から意識をそらせ、今は終了、異邦人には関係ない教えであるなどという、とんでもない罪=死に匹敵する罪だとも聖書に書かれている神の警告を知らないから、そんなことを言い続けられるのです。宗教=人の作り出した思想は、人から神の伝える真実を見えなくさせる、障害物でしかないことに、気がつかないとならないのです。

1つの内容は聖書の事実ではないことを語り、1つは人との関わり、対話での知恵を話している、これは正しいことです。

 

クリスチャンの中には、聖書に書いてあることであるのに、神の言葉が途中で終わったと、聖書とは違う、人が作り出した思想で語る聖書ではない解説を聖書だと信じている人がほとんどです。いや今は、クリスチャンでもキリスト教で語られている神学が

聖書ではないと気が付く人も同時に大勢いるのです。

 

牧師、教師と名乗りながら聖書を知らない人も、当然いるのです。いや、デイスペンセーション神学で語る翻訳聖書を解説することには精通している、知っている教師や、牧師は大勢いますが、原典聖書に書かれている、イエシュアが語った本物の神の言葉を知る人は、異邦人の中には大勢はいません。

 

なぜなら、神学校で学ぶから、聖書の全部を知っているのではない。神学校では、聖書=原典聖書を教えるのではなく、ダービー思想=人の思想=神学を土台にした聖書解説を学ぶからです。

神学=宗教思想やその他を学び、原典聖書をくまなく学ぶことなどしないからです。

これは批判ではないので、現実を考えてみてください。

他の分野の世界ではあり得ないことなのに、それがまかり通るのが宗教の世界です。

異邦人クリスチャンが神学校を出て、その教師たちが、イエシュアやパウロ、ユダヤ人のようにヘブライ聖書に書かれている内容を、読み教え解説するのが普通である環境はありますか?

ないと思います。

そういう異邦人も海外にはいますが、日本はどうでしょうか?

そして数年だけで、聖書なんて学べません。生涯かけてする、

それほど奥の深いことだからです。いや、永遠をかけて神との関係を神の考え=言葉を知って生きることで、築いていくからです。

ユダヤ人の世界が、異邦人とまるで違う、それは神が選び出した

神の言葉を伝える民族としての責任がある、それは否めない事実だからです。

世界の中で、ヘブライ聖書を先祖代々満遍なく学ぶ、シャバットや祭り、神の教えを継承しようとする民族、国は世界の中で

イスラエル以外には、ありません。

そして、福音はユダヤ人から伝えられたのです。でも、同時に

異邦人でも、同じ契約に加えられ、神の国の聖なる民とされた人にも、同じ責任を負わされている自覚が必要なのです。

だから、神の言葉が終了!などと、イエシュアを信じる人は

神=イエシュア=聖霊に対する偽証などしてはならないことを

はっきりと、聖書=神の言葉から知ってください。

 

さて、聖書の内容の本質と、そして、人との関わりを説明することには違いがあります!

分かりやすい例で言えば、同性愛、近親相姦、そして、血のつながりのあるどの範囲の人達までが、婚姻関係になれないのか、

又は婚姻できるのか?モーセの五書には全部かれています。

福音書以降には、罪の全貌は書かれていません!!!抜粋のみ。

又は、血が繋がらなくても違う親から生まれても、親の再婚などで家族になった間柄の兄弟姉妹は結婚してはならないなど、

細かい詳細、規定を、神ははっきりと教えています。

今や牧師もLGBTQ、そのような人は、追放されてしまうと書かれています。イエシュアの名=実態を行動で汚しているからです。教師には、厳しい処罰があると書かれているからです。

神の教え=言葉が、神が普遍であるように、神の言葉も変わらない永遠の事実を知らない人には、神が伝えていることが分からなくなります。

さて、神は同性愛を、はっきりと禁じています。そして入れ墨も禁じられています。今世界で一般的に受け入れられているポピュラーなことは、聖書=神は、はっきりとそのような行為を禁じていることを、聖書から確認してください。神の言葉を否定する場合には、神の伝える真実に対して盲目になり、自分自身を危険に晒し、他者をも、神の言葉とは異なる人の思想という誤りへ導いていくことを覚えておいてください。

例えば、神の言葉を絶対、完全であると知っている人には、

神の言葉を曲げることは、死に匹敵する罪であると神が人に伝えていることを知っています。神の言葉は絶対、完全=神ご自身と同じであることを、聖書から知らない人は、人が作った教えに騙されて、偽の教え=聖書ではないのに、神の教えだと勘違いして嘘を信じていくのです。

神の言葉の意味を知らない人は、聖書を本当に知らないから、

神が言われる事実が見えてこない、目の前に書かれていても分からない、又は聖書を読んでも分からないということなのです。

 

神の言葉を認めない、又は終わり!などと宣言している行為は、その場合、神が言われる言葉=権威より、自分が上になっていることを、知ってください。礼拝〜神の前に身を伏してへりくだり、神が神であることを認めることをしていないのです。

 

さて、普通の常識がある人、聖書を知っている人ならば、同性愛は罪!と神が言われていることを知っている、受け入れて、その

罪を自分には取り入れないでしょう。

でも、同性愛を罪と知っていても、仮に周りにそういう人がいた場合、自分がその人たちに向かって行って、いきなり同性愛は罪だ!追放だ!などといきなり言うのは、ちょっとアプローチが

違うと分かるでしょう?第一失礼です。

 

直接相手の非、罪を人が指摘する、言い争うようなこと、相手を傷つけることをするのは、常識的にもズレていると分かりますよね。相手の人格を直に傷つける行為をしないのは、当然です。

そういうやり方はするなかれ!であり、でも同性愛は罪と自分は知っている、自分はそのような罪に染まらない、関わらない、

でもその人たちを直に面と向かって批判しない、その違いを

知っていれば良いのです。

アプローチの仕方が、まちがったら人を、それも人を傷つけ、

相手を破壊します。

 

このブログで書いている内容は、私は親しい友人でも、質問されない限り、話しません。相手を傷つけるからです。

宗教の教えは、聖書ではない!と直に言っても通じないからです。

得にキリスト教という教えに長年浸り、その教えや実践に何も

疑問も抱かない場合には、本当に話しにくいです。

それが聖書と疑いなく信じていて、疑問に思うという、スタート地点ができていないからです。

クリスチャンだったとしたら、自分が信じていること=それが

聖書ではないことなのに、純粋に聖書だと信じ込んでいれば、

人が作った宗教文化、それは異教の神々に根付いた土台であるものであることを知らない人に、いきなり言ったら傷つくでしょう?真剣にやり続けていたことが、実は神の仰せでも教えでもないと分からなければ、攻撃されている、批判されているとしか、

思えないからです。

日曜礼拝も、クリスマスも、イースターも神が作った記念日でも神が祝うように命じているものなどでもない、しかもその裏に

あるものは、全部異邦人の哲学思想=異教の神々の文化思想に

根付いた土台であることを知らないなら、ショックが大きいですよね。イースターなんて、イシス、異教の女神の名です。

なんで、そんな名がついてるの?て考えれば良いのです。

聖書のどこにそんな名前が書いてある?異教の女神の名としか

聖書には書かれていません。イシス、アシェラと書いてあるでしょう?

ブログは別です。特定の人に強制的に話しているのではなく、

読みたくない人は読まないから、自由に書けます。本当は、こんな書き方をしたくないですが、聖書が正しく語られず、神の言葉を曲げることが当然の大衆思想に、真っ向から、それは嘘でしょ!聖書ではない!とその事実を聖書から知りたいと考えている人が読んでくださるために書いているからです。

 

もっと一般的に、クリスチャンの中で、よく語られるのは、

モーセの五書に記された神の教えが、永遠に変わらない事実を、クリスチャンは教えられていません。書いてあっても、誰も疑問に思わない。それは聖書とは違う、人に思想に洗脳されているからです。聖書とは違うことが、神学校の、グループの講壇から教えられているのです。

神の言葉は、十字架につけられて終了した〜!と。

神=言葉=イエシュア=トラーと書かれているのに、それに気がついてない、聖書を正しく教えられていないのです。

神=普遍=言葉=普遍!変わらない!という、聖書に記された

概念を教えられず、異邦人教父、ローマ教を作り出した人たちが

2世紀以降、勝手に神の言葉に手をつけ始めて、神の教えは終了!と言ったことを知らないだけです。

人間が神に成り変わり、神の言葉に自由自在、自分の考えで手を加える、遺伝子改造作業をやったのです。

だから、あってはならない宗教が作られて浸透したのです。

異邦人の世界でよく語られるのは、割礼やシャバット、食に関する教えなど、古い教えが廃れた代表として語られます。

これは、2世紀、ローマ帝国が宣言したユダヤ的なこと全て廃止!西洋教父が、同じことを言って、神の言葉に反することに

同調して行ったからです。

全て、モーセの五書=ユダヤ人イエシュアが教えられたイスラエルの神の教えは、全て異邦人には馴染みのない教えや、実践なので、煙たいものなのです。イエシュアが何を教えて、生きていたか、正しく理解していないのです。人の教えに遮られて、聖書を正しく理解することができないのです。

なぜ、このようなことが神から教えられているのか、その理解がごっそり欠落しているから、神が語る永遠に深い麗しい教えや印が分からないだけなのです。

聖書に書いてあることを正しく教えられていないと言うことは、大きな欠損であり、教えられるだけではなく、実際に生きないということも、神の伝える真理を生きて、学べないという欠損につながっているのです。聖霊=言葉であるのに、言葉を正しく教えられないなら、聖霊に教えられていても、見えない、それが書いてあるのに見えないことなのです。

7を1と読んでいるでしょう?日曜礼拝は安息日ではないのに

安息日だと信じているでしょう?どうしてですか?聖書に書いてあるから?いいえ、ローマ、西洋人の教えを信じてそれが浸透してしまったからです。

これは、シャバットも祭りに対しても同じことなのです。

教えられない、実際に生きないから、神が伝える教えの深い意味が分からないのです。

 

全てイエシュアに繋がることを教えられている、福音の中心であるのに、クリスチャンの世界ではこれが大きく欠落しているのです。なぜ?エデンの園と同じこと。大事なことは隠したい、

知らせたくない、分からせたくない存在がいるからです。

変形させて、神の言葉に違う教えを混ぜて伝えるのは、蛇の戦略、やり口だからです。読めば分かるでしょう?たくみです。

しかも、信じるものの口から嘘を語らせる!エデンの園と同じです。

私は、聖書に書いてあることと、一般的に教えられていることが

違うと分かってから、その嘘を言うことができなくなりました。

クリスチャンが創世記の最初、神に創造されたことを知ったら

その後、進化論、猿から進化したなどと言えなくなるのと同じ。

神の言葉は、神が伝える通り永遠普遍であり、何も変わっていないことを知ったら、神の言葉を曲げて語る人間の思想は嘘!なので、神の前に、神の言葉に対する偽証の、嘘偽りを語れなってしまうのです。

 

続く