世界で、国で、街で、家庭で、個人個人へ、日々色々な事が起きて、そして、歴史が進んで行きます。確実にイエシュアが戻られる日へ1秒1秒と近づいています。
時は確実に前に進んでいます。
この1週間は、どんな1週間でしたでしょうか?
それぞれの人生の、それぞれの季節、フェーズ=時期は、全て聖書に記された「旅路」に重なります。
自分の旅路と、他者の旅路は同じではありませんが、その内容は全て聖書に記されていることと並行し、重なるものです。
住んでいる場所を引っ越し、移動しなくても、状況や環境が変わります。
そして、この命の季節のサイクルを生きることを、神の定めの時=記念日を通して教えていることが、聖書には記されています。
詩篇の最初の3章は、モーセの五書=トラーの要素を短く解説した内容が書かれています。そして、トラーに記された教えは、
全てイエシュアの生き方を指して、語っているのです。
イエシュア=肉体を取ってこられたトラーだからです。
神に創造された人が、神の性質通りを生きたら、イエシュアが
生きた生き方になる。それが栄光が現れ出る、神の性質が現れ出る、キリストの香りが現れ出る生き方なのです。
神が造られた本来の人間の本物のデザインの生き方が、モーセの五書に記されている神の教え、言葉なのです。
その神の言葉=教えを捨てたら、神に何を教えられているのか、分からなくなってしまいます。自己流の生き方、自己流の聖別、自己流の教えを生きることになるのです。異邦人の世界では、
神の言葉を捨てよ!いや、そこまで言わなくても実際にそのようにしています。そして、神の言葉が終了したなどと、神に造られた存在でしかないのに、神に対して反抗を言い続けているのです。
だから、神の言葉を正しく学ばないまま、「しろやぎさんとくろやぎさんのお手紙交換」のごとく、「お手紙に書かれた意味はなに?」と、神が伝えている意味を本気で知ろうとしないまま、
相手に、空返事をしているのです。
福音書〜黙示録には、神の教えのほんの一部、少ししか書かれていません。その証拠に、福音書以降は、聖書のほんの25%しか占めていいません。なぜなら、最初の部分に全て、全部必要な
神の人への教えが書かれていて、福音書以降は、モーセの五書=神の教えの短い解説にすぎないからです。福音書以降は、神の
教えを最初から、全部再び重複して、書かれていないからです。創世記〜マラキ、得に最初のモーセの五書を知っている人に向けて書かれているからです。
その事実にまず、気がついてください。
クリスチャンの世界では、福音書以降には、新しい別の福音、
新しい教えが書かれていると、思い込み、勘違いしていますが、福音書以降は、聖書の最初の部分の75%に書かれていることのほんの短い解説のみです。そして、福音、救いはエデンの園から同じ!永遠の中から同じであることを、はっきり聖書から知れば、永遠普遍の事実が見えてきます。
異邦人は神の教えを複雑に、別物に作り変えています。
宗教=人の思想を混ぜた教えを作り出して、神の言葉を人の教えに混ぜて薄めてしまっているのです。それが人間が作ったイズム〜宗教というものなのです。
イエシュアはユダヤ教やキリスト教の話などしていません。
クリスチャンの世界で信じられている教えは、ある事柄は聖書であっても、聖書解説の多くが、人の思想=しかも、異教の神々の教え西洋人哲学文化を土台にした教えであり、聖書ではないことに気がついていないと思います。
西洋人=人間が作った宗教〜ローマ教、カトリック教を土台にした、聖書とは異なる思想や教えを土台に、語られているものだからです。
神が伝えることは、シンプルです。神の創造された人の性質、
善悪と書かれていますが、ヘブライ語では、善、良い「טוב トヴ=神の意図通り」悪、「רע ラア」、神の意図ではないという
意味です。
だから、人は神の似姿に造られたので、神の意図通り、神のデザイン通りを生きるのが、本来のあなたの性質であり、生き方ですよ!と、神が人に教えているだけです。だから、神の性質とは
ズレたことを生きたら、人は傷つき破壊されるから、ロー!
ダメ!と言われている、簡単でしょう?本来の生き方をする、
エデン=喜びに溢れる生き方だから、それを生きるそれが人の
本来の生き方だからです。
神に造られた人の性質、デザインを生きる!それが、神の言葉で
教えられている全てなのです。神が伝える神が創造された人の
生き方と反すること、それはすなわち、命を破壊する行為なのです。大小違いはあれど、全部、神の教えとずれた生き方は、人に取って、有害、破壊に繋がるものです。
そして、この世の旅路は次の世界へ行く準備、訓練の期間であることが、書かれているのです。
今やソドムとゴモラ、ノアの時代の到来を感じる環境になりました。オリンピックの開会式を見た方々は多くいると思います。
あれを見て、イスラエルの神を知らない人でも、不愉快、下品、ドン引きしたとブーインがあったでしょう。
友人もひどく怒ってメッセージを送ってきました。
あれは、暗闇の世界を生きる人の発信であり、人の反応を伺ってているものだからです。ああいうものは、以前に何度もありました。気色悪いからアップしませんが、この闇の世界は、とんでもないところまで行ってしまっています。いや、闇に潜んで隠れて
やっていたことを、堂々と、今表に出してきているだけです。
でもそれは今に始まったことではありません。思い出してください。ソドムとゴモラが滅ぼされたのも、ノアの時代の悪行も、
ローマ帝国が滅びたのも、全部神のデザインとは外れた生き方をした、同性愛、近親相姦etcが元です。それ以前に聖書には、
どんな婚姻関係、性的関係をもったらだめなのか、全てはっきり記されています。
そのような生き方をしていた人たちは、最初からいたからです。
LGBTQがどうしてダメなのか?人身売買、子供を誘拐し売り飛ばし、悪にまみれた人たちの餌食になること、それは、神のデザインとは完全にズレた生き方だから、人が破壊されてしまうからです。同性同士では、命を生み出せません。子供は生まれません。外見を変えても、DNAは変わりません。
オリンピックで、女性と自己申告した本当は男性であるボクシングの選手は、実は男性でしたよね。DNAは変えられないから。
対戦した相手の女性は、最初の一発を顔面に受けて、それで、鼻の骨が折れて、危険を感じたといいました。あのスポーツ自体、人の体、顔面、脳を破壊する危険なスポーツの1つですが、人の世界では行われているのです。
いくら見かけを変えてみたところで、DNAは男性のままです。
DNAを変えられない、それは神に与えられた自己像だからです。
見かけをどんなに変えても、人が創作した臓器を体につけても、性別は永遠に変わりません。性転換をする人の多くは、混乱し
元に戻りたい、または自殺する人も多いそうです。
当たり前のことなのに、世界は狂った方向へ、それぞれが嗜好
する性別、または自分は犬、魚と思えば、それであるなどと、
神が創造されたデザインを超えて、勝手な自己像を編み出しているのです。気色悪いと思うのが、当然!なのです。
それは、神のデザインから、ズレた悍ましい行為だからです。
神の言葉を理解しない人々は、暗闇へまっしぐら、そして周りの人々を巻き込み、サタンのプランへ飲み込まれて行っていること
普通の人でも、感覚的に勘づいているでしょう。
イエシュアが、過越の祭りの最後の晩餐で、弟子達の足を洗われたことが記されています。あれは、レビ記の中に記されたことを
教えているものです。私たちは、新しい人の事実を与えられている、聖霊=イエシュア=神が内側に住まれている。でも、この世の旅路では、私達の環境には、汚染、悪が満ちていて、否応なく、影響を受けてしまうからなのです。この世の塵、汚染が、
この世界を生きる間、付いてしまうからです。
だから、それをすぐに洗い流す。
例えば、今イスラエルは、死にふれる機会が多くあります。
死者がどんどん周りに出る。死とは、本来人が経験するものではない、私達はそれらに触れるように造られていないから、悪影響を受けるのです。
本来するべき体験とは、逆のこと=それが死です。
レビ記は、ヘブライ語で書かれている内容、その内容通りを学べば、私達がこの世の旅路でいかに、神の意図とは外れたことに
遭遇し、体験したことから、洗い流されて、神と自分、人との関係、又は自分自身を修復する方法を教えているのか、分かります。
そして、1週間の時を生きて、シャバットを迎え、そして、神の時の中で、神の祭りを祝う、命のサイクルを教えられているのは、全て、修復を実際に教えられ、そして神の性質通りの人を
生きる成長過程のサイクルなのです。
その中身、要素、エッセンス、教えは全部イエシュアを指しているものなのです。
その中心が、シャバットです。シャバットは、エデンの園の生き方に戻ることを教えているものです。安息に入るとある、それは
神の中に存在している現実を皆で思い出し、祝い、そして壊れた世界の壊れた関係を修復し続けるその「旅路」神の定めた時に
皆が一致して同じ考え、思いで、神の前に出て祝宴をすることを
教えているものです。
シャバットは安息日と訳されていますが、ヘブライ語の意味は
「止まる」です。神が第七日目に止まられた。全ての業を完成させた、完全なるものが現れ出て、神が神が創造されたものを見て、全て神の意図通りが現れ出たその完璧な業、完成品に対しての歓喜の声で表された!終了!完了!とその日を聖別され
神が創造の業をされたように、人は6日の間に創作、仕事、様々な業をして、神と同じ通り7日目に止まると教えました。
考えてみたことはありますか?全ては、神が神の言葉を最初に発して、神の言葉通りのものが、物理的形として現れ出たのです。
最初の言葉=神が存在している。最初の言葉があり、全てが現れ出た。
神の言葉=実態が現れ出る。そして、聖書には、神=言葉とあるのです。神は変わらない、神の言葉は変わらないという、概念
意識は、異邦人の思考回路にはありません。だから、人が作った思想を簡単に信じて、2000年もの間、ローマ化したイエシュア=イスラエルの神が異邦人クリスチャンの世界で語られて
来てしまっているのです。
でも、宗教の教えが語られる時代は、今確実に変化し始めて、
異邦人の世界に、聖書に書かれている通りの、ヘブライのイエシュアが、教えられ、伝えられ、認識され始めているのです。
終わりの時代になったからです。
神が最も忌み嫌う、人が避けるべきであると教えているものは、
異教の神々、人の思想、宗教の教えを、神の言葉、教えに混ぜて
生きることです。それが、高きところの礼拝、偶像礼拝の本質であると聖書に記されていることであり、そのためにイスラエルは、厳しい訓練を受けたことが書かれています。
でも、何が神の忌み嫌うことなのか、神が伝えている神の言葉、
教えを捨てる場合には、神の教えていることが、分からなくなります。それが起きているのです。
神が人に伝えていることは、全て私達の命を守るものです。
神のために、人はなになにせよなどという、そういう奴隷思考回路は聖書では語られていません。それこそが、異教の神々に関わる意識と同じ、偶像礼拝の根、思想なのです。
私が2013年からブログを書き始めた頃から、記事を読んでくださっている読者の方が、エデンの園で、神がアダムとハヴァを
探している場面は、神が怒っているように感じてたと言われましたが、そんな意味は全くないことは、ヘブライ語で読むと
分かります。
創世記3:9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
この箇所に書かれている、「どこにいるのか?」とは、神が彼らの居場所が分からなくてどこだ?と聞いているのではないのです。そんなの、彼らがどこに居るのか、神なら当然知っている、分かっていますよね。
では、何でそんなことを、わざわざアダムたちに聞いているのでしょう?てことです。
聖書を読むと気が付くと思いますが、神が人に質問している箇所が何度も出てきます。
それは、神が人に対して質問しているのは、人に考えさせることをして、その答えを見出すことをさせているものだからです。
エデンの園で聞いた、どこ?とは、場所ではなく、その前の行動を読んでみると分かります。
神が伝えた言葉=教えを退けて、蛇の嘘を取り入れた。これは
今もやっているでしょう?神の言葉が廃れたという人の教えが
まさにそれなのです!いかに危険な教えなのか、気がつけばよいのです。蛇はたくみです。神の言葉をうまい具合に曲げて、それが神の言葉であると、騙しています。今も同じです。聖書〜神の言葉を根拠にして、神が何を人に最初から警告しているのか、よく考えれば分かります。
蛇の教えはアピールある、惹かれる。そして、神の言葉を否定した蛇の言葉を信じて行動したら、今迄にない性質を学習した。
自己像の破壊、そして、神の目から見るのではない、別の目が開かれて、自分たちが裸である、それが恥ずかしいと思い、そして
自分たちで自分の身を覆うもの、いちじくの葉を綴り合わせたもので隠したとあります。そして、神から隠れたのです。
続く
Shabbat Shalom