聖書ではないのに聖書の教えだと誤解され浸透している概念 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

人に取って、神の言葉から自由になれる、解放されたと感じるのは、自分に都合の悪い教えを、神が人に伝えているから、神の言葉は終わり!と言う理由を見つけたいだけなのです。

 

異邦人は特に、神の言葉が蜜のように甘く、人の命を守り、神の愛の集大成である婚姻契約を与えられたという自覚がまるで無いので、神の言葉から解放〜自由だ!と考えるのです。

婚姻契約を与えられた特権、恵、祝福を理解するユダヤ人は、

異邦人も含め、神の言葉の意味を理解している場合には、そんな事は決して考えません。

 

2014年の、仮庵の祭りの最後、祭りの最大の日にイエシュアが、ご自身生ける水=メシアであるという意味の宣言を、公にしたのと同じ日に、イスラエルの友人宅の近くで街中が夜集まり

盛大に祝う最後のイベントがあり参加しました。

その時に、大勢の人が集まり、皆が歌い、踊り、盛大に祝って、イスラエルの神の祭りの最後の日が大盛り上がりをしていました。

そして、トラーの巻を高く掲げて、又は抱きしめながら、トラーに触ったり、キスをしたりと、本当に喜んでいる様子をみて、

異邦人の世界とは、まるで違う事を体感しました。

 

律法は廃れた〜という人たちと、神の婚姻契約を決して手放さない誰にも奪われない!こんなに素晴らしい祝福、宝を感謝します!と神に対して祝福し宣言する人たちの意識がまるで違うからです。

自分に取り都合の悪い、神の言われる言葉、教えなんて、聞きたくないと言うのが、本音なのです。

それが異教徒の世界の思考回路です。

それが本当の問題なのです。問題は神の言葉ではなく、人間の

頭脳=良い地=神の言葉を理解する肥沃の地の思考回路=神の言葉=種がうわり健全に成長し実がなる地=思考回路ではないこと、それが問題だと書かれています。

人は、神の教えではなくて、自分の肉の思い、願いにマッチする教えの方が肉には、心地が良いからです。

神が、モーセの五書、レビ記11章で、犬猫は人間の食べ物ではない!と人に教えていますが、その教えに、日本人なら全く抵抗感じませんよね?それどころか、当然だ!と同意するのではないでしょうか?神の言葉に異議申し立てなく、そのように反応するでしょう。

それは、どうしてでしょうか?日本人は、西洋人もですが、最初から犬猫はペットであり人間の食べ物という認識、考えが日本人には全くないからです。あるアジアの国は犬を食べますが、その人たちには、それは、都合の悪い教えでしょう。

それが本当の理由なのです。自分中心。自分の生まれ育った文化に基づき考えているだけなのです。自由にさせて欲しい、制限つけて欲しくないと思うのは肉の思いには自然な反応でからです。

 

しかし神は、人が食せる動物を最初から創造されました。

人が罪を犯したから、途中で食せる動物を人のために創造されたのではありません。6日目に、動物が創造されました。

その後に、人が最後に創造されたのです。全ては人のために造られたからです。

神は、人が食べるために、造られた動物は何か人に伝えています。神の創造は、その創造の目的通りの役割が与えられている

単純な理由があるのです。

それは、そんなに難しいことですか?全然難しくありません。

読めば分かります。子供でも理解できるほど簡単です。

クリスチャンはレビ記など、読まない、学ばないからその中身を読まないかもしれないですね。

 

レビ記11:44 わたしはあなたがたの神、主であるから、あなたがたはおのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。

わたしは聖なる者である。地にはう這うものによって、あなたがたの身を汚してはならない。

11:45 わたしはあなたがたの神となるため、あなたがたをエジプトの国から導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』」。

 

神が伝えている通り〜神の目的通りに分たれた人は、聖別されていて、神が伝える事とは違う事をしてはならない事が、神の口から直接伝えられています。

 

クリスチャンも、このレビ記11:45の言葉を、頻繁に引用しますよね。

聖なるものである、聖なるものとしての状態でなければならない事は、一体何を通して語られていますか?

エデンの園と同じ教えです。食べる事。食べる事、飲む事、何をしていても、主の栄光を表しないさいとは、このような神の言葉

教えが背景に深くあるものなのです。

 

Ⅰコリント10:31 あなた方は、食べるにも飲むにも、何をするにも、全て神の栄光を現すためにしなさい。

 

食べる事〜命を繋ぐ中心です。神の言葉を食べて生きる事も、

本来の命を生きる事の糧です。それを捨てたら、欠乏します。

福音書以降、100%全てモーセの五書の引用、解説が語られている事を、まず念頭から外さないで考えてください。

人の解説や、言い訳は全部はずして、聖書に書いてある事だけを

根拠に考えれば、神が今も変わらずに伝えている事が見えてきます。

聖別とは、モーセの五書に書かれた実態を、語っているものなのです。

聖別〜神の目的通りに分たれて、取り分けられている事です。

聖別の事実、意味を、日常生活の中で様々な事を通して神は人に

教えているのです。

考える。自分は何を取り入れるのか?頭脳に、神の言葉、教え

以外の蛇の嘘、ズレた考え方は取り入れない。それが神に造られた人間のデザインだから!異物の思想を取り入れて、自分の内側に貝のように、がっちりその思想=異物を温め続けたら、それは毒であり、破壊をもたらすものです。だから、反芻する動物で

教えられている通り、異物を確認、認識したら、即座に外に吐き出す。それは、自分に相応しくないものだからです。

食べ物=神が創造された人間の食せる動物だけを、取り入れる。それ以外の動物は、人が食する食べ物ではいので、それらを肉体にも取り入れない!至極簡単で、明瞭な教えでしょう?

食べ物は、日々、常にいつもつきまとうものであり、その都度

自分が誰かを考させるために、神が与えた印でもあるのです。

これは、あなたが取り入れるもの?聖別された人は、何を食べて何を考えて、何を生きますか?とコンスタントに、神の言葉が

頭脳に響いてくるからです。

人は、神の口から出る1つ1つの言葉により、生きる!と、神が伝えていること、そんなに難しいものではないのです。

 

11章で、人間が食せる動物=きよい、食せない動物=きよくないという、神が創造された動物で食せるもの、食せないものを

教えて、食べ物を通しても、聖別を教えているのです。

神の言葉を、分解、分断する思想は、聖書とは真逆、シャローム

=欠けのない完全なるもの、エハッド=一体、一つ以上で全く1つであるという聖書の概念とは、全く異なる異教徒思想なのです。

神の言葉が終了!などどいう人の思想を信じる場合には、神が

伝えている聖別を生きる意味、神が伝えている意図通りが、理解できないままになるのです。

神の教えている事には、1つ1つとても、深い意味があり、

そして、創造された動物の構造、生態を通して、神が創造された人のデザインの本質を教えているからです。

神がどうして、そのような境界線を、聖なる民に与えて、敷いているのか、神の言葉を理解しない人には、全く通じない神の教えなのです。

本当に、神が伝えている意味が通じません。普通に異教徒文化で食されている食べ物、何が悪いの?と思うことしかできないからです。

いや、見た目に悍ましいもの、ワニの活け作りの刺身なんて見たら、ゾッとするでしょうが、自分の文化の中で慣れしたんで、誰でも普通に食べているものを見ても、何も感じませんよね。本当に。

何も感じないし、分からない。何が一体いけないの?

命の木と知識の木から、両方から食べてもいいじゃないというのと、同じ感覚です。見た目によく、食べたら美味しい〜口には甘く、腹には苦いのですが。神がダメと言うなら永遠にダメ、神がそうしなさいと言うなら永遠にそれが人間のデザインの生き方、神がそう言うから、そうであると認める事が必要なだけなのです。

 

クリスチャンの世界=異邦人は、霊と肉体、物理的を必ず切り離して考えているのです。そして、神の言葉は終了などと、神の言葉ではない人が唱えた教えを信じているから、神が教える教え=言葉を、真剣には考えない、何を意味しているのか、学ばない、教える人もいない。

それは人の思想で、神が伝える教えを考えることを、はぐらかされているからです。

聖書は、物理的世界、体、霊、精神、肉体全部まるごとで1つ

エハッドであり、シャローム=欠けのない完全な状態であることを教えているのです。切り離せない!そして、霊と肉体は1つです。

肉体が悪い〜それは、ヘレニズム思想、グノーシス思想から来ている思想です。神は全てを物理的に造られて、それらは完全、はなはだ良いと神が言われた通りです。

 

だから、肉体が汚される行為、それはモーセの五書に記されていますが、それらを人がするならば、同時に自分の全存在〜霊も汚されてしまうことに、気がつけば良いのです。1つとして繋がっているから。

聖別とは、きれい、汚いという意味などではなく、神の意図通り、目的通りに分たれて、この世のものとは境界線を敷かれていることなのです。

神の意図通りか、そうではないか!のどちらかなのです。

神の意図からズレたら、それが肉体的にでも、霊的にでも、

ずれる〜汚れる、破壊、不具合があるのです。目に見えない、

感じないけど汚れると教えているのです。

人が誰かと性的に交わったらその人と1体になってしまう。

感じなくても、なんとなく意味が分かるでしょう。

食べたもの〜人の体になる。You are what you eatと英語でも言いますが、あなたが食べ物があなたですとなるからです。

 

聖別された姿の人が生きる、行動ではない。

割礼の意味も同じです。古い人から、完全に切り離されている。

でも、古い肉は、体の一部にまだ繋がっている。

それが、主と共に死んだ自分、記憶がまだ存在している事が、

分かるのです。でも、以前の自分=修復不可能だから、主と共に葬られた自分と、イエシュアの血で贖われた自分との間には、

境界線が敷かれている。

事実は子羊の血の贖い=イエシュアを通して、完全に新しくされた人である事実を得ているからです。

でも、肉体は朽ちる体のまま、古い人で壊れたこの世を生きて来たから、記憶が頭脳にそのまま残っている。だから、新しくされても、

主と共に、以前死んだ人の性質を生まれた時から学習しているから、その記憶の思考、行動パターンに引っ張られてしまうだけなのです。だから、新しい人=神の言われたことを生きる!神が言う通りを聞いて、生きよと神が人に教えているのです!

神がこの世界の全てを創造されて、それぞれの目的通りに造られた!神に聞く=シャマすればよいのです。聞いて理解したら、

その通りに行動するでしょう?だから、「従う」と訳されているのです。あまり良い印象を受ける翻訳ではありません。

従う、従順てなんか引っかかる言葉です。そうではなくて、

聞く〜理解する〜その通りに行動する。自然でしょう?

聞いて(聞かないで)理解しない場合は、言われた通りを選択して行動しません。

だから、神が人に伝えている意味を理解しないとならないのです。

 

神の言われる通りをしないから、全てが複雑になるのです。

事実そうなったでしょう。エデンの園で。

神の言葉を無視し、神の言う言葉に逆らったから、全世界に死=罪=神との隔たりとこのような苦悩が舞い込んだ。

 

そして、異邦人は神の教えを先祖代々知らない、馴染みもない、契約から遠く離れた民で先祖代々生きてきたから、異教神の教えや文化にどっぷり染まっているから、その異教神の文化、生活習慣に先祖代々染まっている〜それらは、イスラエルの神に反する生活習慣であるのに、異教神の文化、生活習慣を普通に生きているのです。馴染みがあるのです。

考えたら見えないでしょう。一体どこが悪いの?なんでも食べて良いじゃない??でも、それってエデンの園の罠と同じです。

なんでダメなのよ?知識の木から食べて、どこが悪いの?

全く同じ事〜ズレ=的外れな事を言い続けていることに、気がついてないのです。神が言われた事が絶対である、完全であるという理解が

最初から欠如しているからです。

それとも、今の時代は何やっても、キリストの血で消されるからなんて考えているから分からない。いやエデンの園の最初から同じです。人がズレたら、傷つきます。人が神に禁じられていることをするから、疫病が蔓延するのです。食べ物から、人と動物の間を行き来するウイルスが出て、環境汚染し、他者をも病気に感染させるからです。ダメ!と言われたら、素直に聞けば良いのに、人間は理由を見つけて、それぞれ違う解釈、教えを編み出して勝手に生きている、それが自由!と考えているのです。

でもそれって知恵のない生き方です。破壊、疫病、病気をもたらす生き方。

感謝すれば、全部きよめられると、私はよく聞かされましたが、

それがどれほど、神の前に汚らわしく悍ましい行為であり、聖別を根底から汚す行為である行為なのか、神の言葉が伝えていることで知りました。そして、それは人には、肉体的、物理的、環境破壊の害毒でしかないものだからです。

さて、このように解説している人がいました。肉の耳には心地よく、それらしく聞こえる教えです。

「神は神の古い教えを終了させた理由は、人があれこれ食べる

食べないで、争いが起きないようにするためでもあります。

今の時代は、感謝して受け取れば、なんでもきよめられますから、昇天以降の時代に生まれてよかったですね。寿司屋でウニもエビもタコもイカもなんでも食べられます!古い時代は終わりました。」

これは、聖書ではなくて、デイスペンセーション神学の教えです。

それ完全に異教徒思考回路と、気がついていないのです。

聖書ではないこと、神の言葉を否定して生きる事〜弊害がある!神が忌み嫌う事を理解していない、聖別が汚される事を知らないからです。

 

続く