2 食規定が終わり?との根拠されているもう一つの誤解 使徒10章 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

前回の記事の続きです。

 

2. ペテロは儀式的に汚れるのではないかと恐れて、コルネリオの家に行くのをためらったのでしょうか?

ペテロは、自分が受けた幻がなければ、当然異邦人コルネリオの家への招待を断っただろうと推測できます。コルネリオの住居に到着すると、以前は自分の家に異邦人を訪ねることは、禁じられた行為だと考えていたことを明らかにしています。

この教えは、当時のユダヤ人の中にあった、「先祖の言い伝え、伝統の教え 律法の行い」と書かれているものであり、神の教え=トラーではない事をはっきり区別して、理解してください。

ユダヤ人は、「ユダヤ人になる改宗儀式」をしていない異邦人と、一線を画して、関わり、付き合い、交わりをしなかったからです。ユダヤ人になる改宗儀式の事を、1世紀では「割礼」と呼び、これら、アヴラハムの割礼と混同して、キリスト教の世界では、翻訳だけ読み、「人の教え=改宗儀式」と、「アヴラハムの契約の印である割礼」と同じように誤解されている内容でもあるのです。

使徒10:28 ペテロは彼らに言った、「あなたがたが知っているとおり、ユダヤ人が他国の人と交際したり、出入りしたりすることは、禁じられています。ところが、神は、どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、わたしにお示しになりました。

10:29 お招きにあずかった時、少しもためらわずに参ったのは、そのためなのです。そこで伺いますが、どういうわけで、わたしを招いてくださったのですか」。

 

この問題に関する一般的な理解では、ユダヤ人が異邦人の家に入ることをためらうのは、儀式上の清浄さや、汚れた食べ物を出されてしまうという厄介な立場に置かれたことに、関係していると多くの人が信じています。
しかし、ルカによるここでのコルネリオの描写は、十分に考慮されるべきです。彼は次のように描写されています。

 

使徒10:1 さて、カイザリヤにコルネリオという名の人がいた。イタリヤ隊と呼ばれた部隊の百卒長で、

10:2 信心深く、家族一同と共に神を敬い、民に数々の施しをなし、絶えず神に祈をしていた。

 

「神を畏れる者」であるコルネリウスは、その「中間」グループの一員であり、ある程度のトラー遵守に従って生活しながらも、「ユダヤ人になる改宗儀式」はいませんでした。「ユダヤ人になる改宗儀式」は、神の教えではないことも覚えておいてください。

どうしてそんな改宗儀式なるものを、当時の人たちが作ったのか?ユダヤ人は、神の前に汚れた生き方をしている異邦人と交わらないために、イスラエルの神に繋がるならば、完全にユダヤ人となり生きる改宗儀式をした方が、安全な人たちと認定できるからです。

彼が百人隊長だったという事実は、改宗者になる必要がなかった理由かもしれません。なぜなら、改宗者は多くのローマ人の目には、下品なものとされていたからです。いずれにしても、「神を畏れる者」であり神の教え=トラーに忠実な「敬虔な」人であったコルネリウスが、普通に、非コーシャ食品=きよくない食べ物を、食べることをしていたとは考えられません。

ましてや、名誉ある客であるペテロに、非コーシャ食品=きよくない動物を出すことなど言うまでもありません。結局のところ、彼には、ペテロが来るための準備に4日間の猶予がありました(使徒10:30)。

むしろ、神を畏れる者の生活に関するあらゆる記述から判断すると、コルネリウスはトラー遵守にかなり厳格であり、賢者のハラハーも遵守していた可能性が高いのです。

では、なぜペテロは、コルネリオの所に行くのをためらったのでしょうか?ペテロはコルネリオを知らなかったため、彼が神を畏れる人だとは、そこまでよく知らなかったのかもしれないでしょう。

彼は単に、コルネリオがイスラエルの神を求めていたとしても、偶像崇拝や異教とのつながりを疑われる異邦人、使徒15章の、イエシュア信者異邦人たちと同じかもしれないと考えていたからでしょう。

使徒15章に書かれている「異邦人新参イエシュア信者達」と

同じく、イエシュアを信じた後も神の教え=トラー=モーセの五書に記されたている教えが分からないから、汚れた動物を食し、異教神の神殿で動物を占め殺し、異教徒の神殿娼婦と性的に交わり、多産の祈願をしていた、ズレたイエシュア異邦人信者がいたからです。

しかし、それだけではありません。ペテロは偶像崇拝者や偶像崇拝との接触を避ける十分な理由を見つけたはずですが、儀式上の清浄さに関する問題もありました。1 世紀には、異邦人が儀式の不浄を伝染させる可能性があるという意見を持つ人が、少なくとも何人かは、いたからです。

手洗いの儀式で、イエシュアと討論している場面を思い出して

ください。異邦人が商売している、市場に行っただけで、汚れるから、だから、手洗いの儀式をしないで、食べ物に触れたら、

食べ物が汚れると、考えていた、それがマルコ7章の議論の論点だったからです。

 

3. ペテロに与えられた幻の中で使われた特定の言葉から、私たちは何を学べるでしょうか。

神がペテロに与えた幻の中で、その絶対的な真実性を強調するために3回繰り返された(したがって、2人または3人の証人というトーラーの要件と一致していて、3という数字は強調を表すものでもあるのです。)幻の中で、その直接的な命令である「屠って

食べなさい」は、「神の祭壇の上に捧げるコルバンの犠牲」に

対する言葉で表現されています。

ギリシャ語のフレーズは、θῦσον καί φάγε 、スソン カイ ファゲです。命令形θῦσονは、主な意味が「犠牲にする」であるθῦω(スオ)という語根から来ています。

 

これは一般的に「殺す」という意味になりますが(ヨハネ10:10参照)、使徒の聖書では「犠牲として屠殺する」という意味が圧倒的に多く使われています。

 したがって、「(祭壇の上に捧げる)コルバン=犠牲にして食べなさい」というフレーズを翻訳する方が正確です。

原典より記述されている事実により、幻全体にさらなるニュアンスが加わります。

和解の供え物を食べることができるのは、「儀式的に清浄な者」だけです。さらに、「儀式上の不浄」に陥り、その不浄を知りながら神聖な供え物を食べる者は、カレット(断ち切られる)と

いう厳しい罰を受けます。

この問題について語っている、トラーのテキストはレビ記第 7 章です。ここでは、「清浄な人と不浄な人」の問題や、「和解の供え物を食べることに参加できるかどうか」など、和解の供え物の法則が説明されています。(レビ記 7:19-21)

このような神の教え、定義を知った上で、福音書以降に書かれている内容が、初めて見えてくるのです。

この一節から、いくつかの点に気づくことができます。

汚れた動物が触れた犠牲の肉は食べられなくなり、焼かなければなりません。これは、祭壇で焼かれた肉が後に汚れた動物(げっ歯類、昆虫、トカゲなど)に触れた場合に当てはまります。

神殿に入る上で、儀式的に清い状態にある人は、「和解の供え物」を食べることができます。
儀式的に汚れた人は「和解の供え物」を食べることはできません。

きよくない状態で、それを取り入れたら、カレットの処分を受けます。(その人は自分が汚れていることを知らなければなりません。つまり、自分の汚れた状態を知らずに、コルバン=犠牲の自分の受ける分を食べても、罪を犯すことはありません。

(レビ記 5 章を参照)。

 

 汚れた人とは、汚れた人と接触した人の状態のことです。
汚れた人とは、ベヘマ(四つ足の動物で、清浄の条件を満たさない、すなわち、ひずめが分かれていて、反芻する動物)という

タイプの汚れた動物と接触する人のことです。
 汚れた人とは、ׁsheketz(シェケツ「忌まわしいもの」と訳され、水中、空中、または地上に群がる、食べてはならないすべての動物を指す)というタイプの汚れた動物に触れる人のことです。

使徒 10 章とペテロの幻の言葉から、神がペテロに動物を犠牲にして捧げられた肉を、食べるように命じていたことが、うかがえるため、それまで気づかなかったニュアンスが関係してきます。

 

まず、ペテロは「犠牲にして食べなさい」という命令が、清い動物に関するものだと、当然理解していたでしょう。きよくない=不浄な動物は、当然のごとく「和解の捧げ物=コルバン」にふさわしくないと考えられていたでしょう。これは、きよくない動物は、食するのを禁じられているものであり、もちろん、そのような動物は、当然神の祭壇の上にも捧げられませんから、きよい動物で、儀式上きよくない動物の事である事を覚えておいてください。神の教えを絶対に曲げてはならないのです。神の言葉、教えを曲げる場合には、聖書に記されたことを、正しく理解するに

至らない結果になってしまいます。詰まり、人の想像、空想の解釈=聖書の教えとは関係のない教えが編み出され続ける原因は、すべて、人が神の言葉を曲げて、勝手自由に神の言葉を解釈、定義していることが、本当の原因なのです。

次に、捧げられた肉を食べることは、犠牲の儀式の一部であったため、動物を屠殺することは、儀式的に清浄な場所で行われなければならなかったでしょう。

布に不浄な動物、特に「這う」または「群がる」と定義された

動物が含まれていたという事実は、犠牲の動物を屠殺すると、

不浄な動物の 1 匹が触れた場合、食べられる肉が不浄になる

可能性があることを意味していました。

これが、ペテロが食べたことのないものを説明するときに 、

2 つの用語を使用している理由かもしれません。 

 

10:13 声が彼に聞こえました。「ペテロよ、起きて [犠牲として] 屠って食べなさい。」 

14 しかしペテロは言った。「主よ、決してそうではありません。私はこれまで、神聖でない物や汚れた物(禁じられた動物)を

食べたことはありません。」[κοινὀκαἰἀκάθαρτον] 15 再び声が彼に聞こえた。「神が清めたものを、もはや神聖でない物とみなしてはなりません。」 

16 このようなことが三度起こり、すぐにその物は天に上げられた。(使徒10:13-16)

 

なぜ、聖書を福音書以降だけ読んでも、意味不明又は、勝手な

解釈に陥るのか、一目瞭然のことなのです。

それは、モーセの五書に記された様々な神の教えの前提を、知らないまま、自分の世界の空想で読んでいるから、聖書に書いてある意味とは全くズレた読み込みをしているからなのです。

 

レビ記には、神の神殿での儀式、その内容が事細かく書かれて

おり、その1つ1つの意味を、古代の人は理解している、使徒行伝には、モーセの五書=トラーに記された神の教え、実際に神殿でそのような儀式を体験している人が、読んで理解している内容なのです。

だから、聖書に書かれている意味の知識が無いまま、屠って食べよ!と言われた翻訳の言葉だけ読んでも、分からないのです。

単にペテロは「屠殺して食べよ」と、神に言われたのだと空想するからです。

しかも、神が清くない動物=神が禁じている清くない動物を

人に、ペテロに食べよ!などと神が言うわけなど、天地がひっくり返ってもないのです。

では、きよくないとなる動物は何なのか?きよい動物でも、野生動物プラス、汚れた動物と触れたら、儀式上=神の祭壇に捧げられない、しかも、大祭司の判定がない動物は捧げられない、様々な情報を欠落して読んでも、この使徒10章は、勝手な読みこみをしてしまう箇所です。福音書以降の他の箇所も同様です。

 

モーセの五書に記された神の教え、意味、内容を理解していない、知らない場合、福音書以降に書かれた内容に、何が書かれているのか、正しく、深くは見えてこないし、真相もはっきりしない箇所が山ほどあるからです。

翻訳の壁がある上、元の聖書の中に書かれた、神の教えが分からないなら、様々なことはその読者にとって、迷宮入りになります。

異邦人が、イエシュアがシャバットや食規定を破って人に教えているのだと考えるのは、シャバットを無効にせよ!神の言葉、

食規定を無効にせよ!とイエシュアが教えたと、聖書を正しく読まない人の解説を聞いて、完全に勘違いしているからです。

イエシュアが、そんな事を教えたとするなら、イエシュア自身が、神の言葉に対して、人に罪を犯すように教えている!と気がつかないとなりません。

しかも、神の教えでは、シャバットは命に匹敵するほど、大事な

ことであることを、重ね重ね厳重に神の子らに教え続けているのです。聖なる民の生き方の一番の中心だからです。

食規定=きよくない動物を食べることも、聖別を破ることであると、神が教えているのです。この神の教えは今も、今日も変わってなどいないのです。食べ物=神が禁じている物理的なことを

通して、霊的に一体である、教えを教えているからです。

 

聖書に書かれているシャバットを破るとは、当時の人の教え、

伝統の教えを守らない事に関してであり、彼ら人間の教え、定義したことを生きない、その伝統の教えを破っているだけで、当時の学者たちがイエシュアと議論しているだけで、基本的にシャバットが無効になるなどという思考回路の人は一人もいないのです。

神の言葉が無効、終了になると考える人は、一人もいない!という、基本中の基本の聖書知識が欠けたまま、勝手に神の言葉の方を曲げて、聖書を曲げて読んでいる それが2世紀以降浸透した、異邦人思考回路の聖書解釈でもあるのです。

 

ある聖書の箇所、部分は正しく把握していても、大事な中心、柱、基本の部分=神の言葉が永遠普遍であると、書いてあるのに、そのようには、全く認識していない大問題がある事にはっきり目覚め、聖書に書いてある本当の事実を再探究する必要があるのです。