マルコ7章での、ギリシャ語の原文にあるイエシュアの言葉の
明らかなポイントは、排泄された食物は、排泄物という事を通して、人を儀式的に不浄にする可能性があるということを教えています。
つまり、体内に入る食物ではなく、体外に出る食物が人を不浄にする力を持っているのです。
これは、この問題全体に関するイエシュアのミドラシュ(トラーの解説、解釈)の完璧な根拠となり、魂を「不浄」タメーにし、他者をも汚す罪は、人の内側に潜んでいるものが、外側に出て、人へ悪影響を及ぼすのだと、教えているのです。
マルコ7章は、きよくない動物=清掃目的で神が造られた動物が今はきよくなったなどと、イエシュアが教えている事など、微塵も語られてなどいません。
そんな事はありえない!神が神の教えを否定するなどありえない。そして、イエシュアが人に神の前に罪を犯す=神の言葉に違反するように、人に教えるならば、その時点でイエシュアはメシアではない証拠になります。罪人は、人の罪を負うことなどできなくなります。辻褄合わないことを言い続けている事に、はっきりと気づければ、聖書の真実が見えてきます。カメレオンのように、七へんげの教えを教えられ、聖書に対して、文脈から逸脱し、書いてある意味を正しく理解しないまま、聖書の真実の一貫性をなし崩しにして、聖書解説をし続けているのです。しかも、きよくない動物を食する事は、もっとも神が忌み嫌う悍ましい行為である事を、当時のユダヤ人なら誰でも理解している!
そのような知識に欠けて、私達の異教神異教徒異邦人食生活の文化で、イエシュアが語る事を考えているから、聖書に書かれた
事実が曲げられて、見えてこないのです。
神に造られた人間が、神の言葉を破ってよいのだと考えている、そのような思想は、異教神異教徒異邦人思考回路であると、覚えておかなくてはなりません。
日本人でも、なんでも食べて良いと言われても、ネズミやゴキブリ、蛇など食べるのはおぞましい、それらは人間の食べ物とは、決して考えられないでしょう??普通の感覚ならば。
神の言葉を知る人は、神が禁じた食べ物が今は何でも食べれる、ラッキー!なんて、そんな浅はかな思考回路はしていないのです。
神が人に伝えている教えは、神が創造された世界を人に教えて、人がどう生きたら安全なのかの全てを教えている、シンプルな事実!なのです。
自分の健康を害し、環境に人間と動物の間を行き来するウイルスを出現させ、他者にも、ウイルス、病原菌を撒き、そして聖別を汚す行為、そんなこと、して良いわけないと考えるのが、聖書に記されている事、神の言葉を知る聖なる民なのです。
日本人が今は何でも食べて良い?と言われて、ネズミもハムスターもなんでも食べれるラッキー!などと考えない事と同じです。
もう一度、歴史的、文法的観点から、聖書に記された原典本文を解釈することは、必須です。一般的な英語訳とは異なり、この節ではイエシュアが「すべての食物を清いと宣言」したわけではありません。これはギリシャ語が示していることとはまったく異なる、原典とは異なる翻訳がされているのです。詰まり、原典にかかれていない言葉文章に変えて、異邦人が誤訳しているのです。
さらに、マルコ7章に並行して、神の教え=トラーの教えが、
廃止され、変更になった証拠が書かれていると、クリスチャンの世界で解説されてしまっている、もう1つの箇所は、使徒行伝 10 章に記されているペテロの幻に関することです。
神の教えで、何か1つでも、一点一画でも変更がない!という
理解がない、それは異教徒背景の異邦人思想ですが、それは聖書に書かれている事実とは、真逆の解説であります。
キリスト教の教えでは、厳格な食事規定を伴う、トラーの教えが廃止された事を、立証する証拠が使徒行10章であるとしています。
ペテロの幻は、神がペテロにトラーの食規定=カシュルート (コーシャー法) の基準を放棄し、トラー=レビ記11章で神が禁じていたものを、今からは食べ始めるように、ペテロは神に指示されたという意味に、クリスチャンの教えの世界では、そう一般的に解釈されている箇所です。
このように、神の教えに反する解説を、キリスト教の教えの中で解説されているものは、全て再検証すべき箇所なのです。
神は神の言葉を歴史の途中で1度も、全く変えていないからです。どう言う意味かというと、神の言葉は、神が言うとおり、絵永遠普遍!であり、変わっていないので、クリスチャンの教えで解説される、聖書解釈の方がズレているそのような解説は、聖書に書かれている意味からズレている!と言う永遠の事実があるからです。
このキリスト教の教理、教え、その元はカトリック、ローマ教の教えなのですが、キリスト教が解説する、神が神の言葉を変更した理由は、ペテロの異邦人への使命を、前進させるために必要だったからと、クリスチャンは解説しています。
異邦人が、イスラエルの神の王国に導かれる時が来たので、異教徒上がりの、異教神文化の異邦人である彼らが、イエシュアの教えを、受け入れを容易にするために、神が神の教えの方を変えた〜儀式の規定を廃止する必要があったと解説しているのです。
この思考回路、よく分かります。人を招くために、神の教えの方をなし崩しにする方法、フランシスコ ザビエルが、日本に来て、
当時は仏教信仰の信者が多かったので、「この宗教は、仏教の一派である、天竺教でございます」と、カトリックの教えをそう紹介したのと同じ思考回路です。
それ以前に、イエシュアが誕生したのが真冬の時期であるとしたのも、当時の異教徒の世界では、冬至の時期には、異教の神々の
盛大な祭り、ユールの祭り、異教神、異教徒の祭りと混合された、祭り12月25日クリスマスという聖書にない祭を、異教徒祭と被せて、カトリック的に変化させた祭を、異邦人が作ったのも、同じ思考回路です。
ハロウイーンも、異教徒ケルト人の祭り、サムハイン、悪霊祭りを、8世紀に、グレゴリオ3世教皇が、11月1日が全ての聖人〜
万聖節〜カトリックで聖人と認定された人々の霊を祀る日として、のちにすぐ10月31日のサムハインの祭りと同じになったというカラクリ。この目的は、異教徒に、得にヨーロッパで、
キリストを伝えるために、異教神祭りに便乗し、その祭の意味をキリストの誕生日や、聖人の祭であると言う意味づけに変えただけ、裏に元々あるのは異教神の祭なのです。今の言葉に直すと、パクリというやつです。同じ思考回路です。イースターも、
アシェラ、イシュタル、多産のシンボルである異教の女神の名で、春分の時期、多産を祝う祭りに、便乗、パクリ、被せたテーマ、だから卵なのです。復活の命を祝う日は、創造の最初から神が造られているのです。過越の祭り、7日間の種無しパンを食べる7日間のちょうど真ん中、その日にイエシュアが復活された
のです。その日を「初穂を捧げる」祝い日としている。
神が創造された記念日を祝わないで、人間が作った記念日に、
歴史の途中、異邦人により変えられてしまったのです。
混ぜてもよい、神の言葉を変えて、異教徒にアピール、この思考回路は、完全に異教徒、異邦人思考回路なのです。
使徒10 章でルカが述べた幻を、さらっと表面的に読む場合、
キリスト教の世界で伝えられている、伝統的な解釈が裏付けられているように思ってしまうでしょう。
神はペテロに、天から垂れ下がった大きな布と、清い動物と汚れた動物がいっぱい入った幻を、はっきりと見せます。
そして神はペテロに、取って食べるように命じます。
もちろんペテロはそのような命令に驚き、食規定に関する神の
教えである、清浄さを強く神に対して、主張して応えます。
同じ一連の出来事が 3 回繰り返され、ペテロはその意味に困惑しながら幻から目覚めます。
しかし、本文を詳しく読むと、この伝統的なキリスト教の解釈について、多くの疑問が生じるのです。
第一に、意味がそれほど明白であるのに、なぜペテロは幻を見た後に困惑したのでしょうか?
第二に、ペテロはコルネリオの家に行ったとき、コーシャではない食べ物=清くない食べ物=神が食べるなと禁じているものを食べたのでしょうか?
第三に、幻の中の布にあらゆる種類の四足の生き物が描かれていたとすれば、その中には、きよい清浄な種類もいたということになります。
なぜペテロは汚れた動物を食物として食べたと、キリスト教の教えでは、そのように推定してしまっているのでしょうか?
そして、ペテロは神の命令により、汚れたものを食べるように
言われたかのように解説しているのでしょうか?
そして最後に、ペテロが後にその幻を語るとき(使徒11 章)、
彼は食物の問題に関しては、ただの一度も語ることなく、持ち出さず、その幻は非ユダヤ人である、異邦人コルネリオの家に行くようにと教えていると、解釈しているだけなのです。実際、ペテロに「示された」のは、誰も汚れた者と呼ばれてはならないということだと明確に聖書は述べています(使徒行伝 10:28)。
ペテロが達した結論は食物とはまったく関係がなく、すべて人間と関係しています。
さらに、本文を注意深く読むと、他の重要な疑問も浮かび上がってきます。たとえば、ペテロに「屠って食べなさい」と命じる際に使われた言葉は、通常は、神の祭壇の上に捧げる「コルバンの動物を屠殺するときに使われる特別な言葉」だからです。
神がペテロに布の中の動物のうち1匹を取って「和解の供物」として犠牲にするように命じているのなら、つまりペテロがその肉を食べるという意味であれば、状況全体がまったく新しい光で照らされます。
したがって、ペテロが神に対して答えるとき、彼は単に汚れたものを食べたことがないと言うだけでなく、「普通の」というカテゴリーも付け加えているのです。
「私は普通のもの[新アメリカ標準訳聖書]では「不浄」]で汚れたものを食べたことはありません。」すでに上で述べたように、
この語(κοινός、koinos)が清浄の問題に関連して使用される場合、「神の祭壇の上に捧げる動物」で「儀式的に汚れた」という意味になります。
神の祭壇に捧げる動物が儀式的に、どこから来たのか分からない野生動物は、神の祭壇の上では捧げられない動物だからです。普通の時に家庭の食卓で食してもよい動物でも、神の祭壇に捧げるのに、ふさわしくない、適していない!という事。
神の神殿の祭壇に捧げられるコルバンとは、大祭司が認定し、
しみ、傷のない、コルバンに相応しい状態の動物ではないとならない、コルバンとしてふさわしいと判定されてでしか、祭壇の上には、捧げられないからなのです。
これらの事実〜神が教えている情報を土台に、念頭に置くと、
現代のクリスチャンの中での一般的なテキストの読み方を超えて、1世紀の背景を踏まえて理解しようと努めなければならないことは明らかなのです。聖書の最初=モーセの五書に記されている内容に関する、教えの意味、情報、知識が欠けたまま、福音書以降を読んでも、その中で、起きている事、教えられている事の意味が全く見えない事は、明らかなのです。
ペテロが皮なめし職人シモンと付き合ったことは、彼がすでに
厳格なトーラーの生活から離れていたことの表れだったのでしょうか??
ペテロが皮なめし職人シモンと付き合ったこと(使徒 9:43、10:6、32 に 3 回言及)は、彼が既に、トラーを遵守する生活から離れていたことの表れかもしれないと示唆するクリスチャンもいます。
皮なめし職人の仕事には、必ず死んだ動物が関わっていたため、皮なめし職人は常に汚れていると、考えられていたと多くのクリスチャンが、そう信じているからです。
シモンの職業が言及されているのは、シモン・ペテロと区別するためだけではなく、厳格なユダヤ教の制約を破る別の方法を示すためでもあるかもしれないと、キリスト教では説明するのです。ペテロは、厳密には汚れている動物の皮を扱う男の家に泊まっていたのだから、と考えられているのでしょう。
まず、「動物の皮」が儀式上汚れていると考えられていたなどと、
ルカにとっては聞いたこともないことなのです。
使徒の中で、ルカはペテロを、モーセのトラーに非常に熱心で、トラーをひるむことなく守る人物として常に描いています。
ペテロが「汚れている」と感じたものは、何でも食べることを繰り返し拒否したことからも、(使徒行伝 10:14-16; 11:8-10)は、トラーに従う生活から離れ始めた人物には、まったくふさわしくない行動だと、はっきりと分かるでしょう。
さらに、皮なめし職人が、常に儀式上の不浄な状態にあると考えられていたという考えは、トラー=神の教え、言葉=モーセの五書にも、主要なラビの資料にも、書かれていないことであり、
そのような思想は、聖書の裏付けの根拠土台がなく、支持できません。
レビ記 11:31-40 は、食用として屠殺された動物ではなく、自然死した動物について述べています。食用として屠殺された動物が人を不浄にしたのであれば、明らかに、儀式上の清浄さが求められる犠牲を捧げるには、どうすればよいのでしょうか。
むしろ、トーラーの禁止事項は、病気や捕食動物の襲撃などで、自然死した動物のみを対象としています。
したがって、皮なめし職人の仕事の過程で扱われた動物も、
その皮も、皮なめし職人を不浄にすることはありませんでした。
ミシュナは、食品に関する限り、動物の部分は不浄とみなされる(つまり、食べられない)が、死肉によって人を不浄にすることはない、つまり、接触によって不浄が伝染することはない、と教えています。
さらに、ミシュナとタルムード全体を通して、皮なめし職人に
ついて否定的なコメントがなされているのは、彼らが儀式的に不浄だからではなく、彼らの仕事が悪臭を放つからです。
このため、皮なめし職人と銅細工職人は結び付けられ、皮なめし職人は香料職人と対比されているのです。
ですから、ペテロが皮なめし職人シモンと交わったことは、その時代に生きていた誰にとっても、トラー遵守に対する妥協した
行動とは解釈できなかったものなのです。
むしろ、それは、ペテロが、周囲の社会から一般的に軽蔑されていた人々と、喜んで交わる姿勢を示したものでした。
続く