神の言葉が変化したとする思想を持つ翻訳者による間違った翻訳がされている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

マルコ7章で、イエシュアが祭司達の儀式に関することまでも、否定しているのか?という、この誤解を払拭するために、

イエシュアはもう一度、神の言葉を、よく考えて聞くように、彼らをさとしました。

マルコ7:14「聞いて悟りなさい」という冒頭の言い回しの言葉から、このシナリオが暗示されていると、考えられます。

 

「人の外には、人に入るものがあれば人を汚すものは何もない」とイエシュアが言ったのは、一体どういう意味だったのでしょうか?

「汚す」という言葉は、κοινόω、koinow コイノウで、

名詞 κοινός、koinos、コイノス「普通のもの」、つまり

儀式上の清浄のために、取り分けられていないものを表す、

動詞語源です。

イエシュアがここ伝えていることは、非常に単純です。

ユダヤ人は皆、神の教え=トラー通り、きよい食物だけを食べるように細心の注意を払っていたので、体内に入る食物が彼らを

汚すこと、つまり儀式上不浄になることはありませんでした。

でも、排泄の過程で出てくるもの、つまり排泄物は、実際に儀式上の不浄をもたらします。

 

物質的現実は、非物質的現実に教訓を与えているものです。

物理的、肉体的、霊的教訓は、ピッタリ1つだからです。

儀式上の不浄をもたらすのは食物(体内に入るもの)ではなく、人を不浄にするのは排泄物(体から出るもの)です。

一方、普通の家庭の食事で、儀式上不清浄な食物(もちろんきよい動物)を食べても不浄にならないだけでなく、不浄な食物が

儀式上不浄にならないことも認識されていました。文字通り、

食べるものによって儀式上不浄になるものはないのです。

 

ヘブライ語では、清くない、不浄を「タメー」と言いますが、

儀式的不浄とは、エルサレムの神殿、神の家に入る上で、人が

神殿に入れない状態になっていることを、表します。

そして、祭壇の上に捧げられる動物も、タメーではなく、きよい「タホー」な状態の、欠陥、欠損のない動物、もちろんきよい

動物が指定されています。そして、イエシュアが話している人の中で、異邦人のようにきよくない動物など、人間の食べ物と考えていない、実際にそんなものなど食べていない事を覚えておいてください。

マルコ7章に書いてある内容を理解するには、レビ記に記された

内容をきちんと正しく理解して、初めて分かることなのです。

だから、最初の箇所=モーセの五書に記されたことを理解しないまま福音書以降だけを読んでも、不明な点が多々あり、書いてある内容を正しく把握し読み取ることが、不可能になります。

ここには、ざっと内容を記します。そして、「不浄、けがれている、タメー」である状態は、私達が考えるような、罪を犯したから、そうなるのではないのです。

例えば、レビ記12章で、出産した女性は、男子を産めば、7日間、その後出血が続くので、そして33日間、タメーな状態になる。これは、儀式的に神の神殿に入れない状態を言っているのです。

女子を産めば、33日間、その後66日は、神殿に入れる状態ではない状態になるとあります。

聖書を読んで、私達異邦人、神の言葉に最初から馴染みのない場合には、これなに?て思うことが、いくつもあります。

その場合、こう考えると分かります。

「自分が神の教えを理解できていない、分からない、そこに書かれている意味が分からないだけで、神は大事な真理を、神の言葉を通して人に伝えている。」

ユダヤ人なら、古代の人なら、神の言葉を知る人なら、この意味を理解していたのです。

神の言葉から遠く離れた異邦人、最初から神の言葉=トラーを知らない異邦人など、これが何を意味するのか、読んだだけでは

分からない、だから、正しく神の言葉を紐解き、手引きする教師が必要なのです。導く手がなくて、どうして分かりましょう?と

言ったのとおなじです。使徒8:31

聖書に書かれている意味を、正しく理解しないことは、空想で

自分の憶測で、書いてある意味とは違うことを、読み込みしてしまうということなのです。

体から漏出物がある人はタメーな状態になる。

月経中の女性は、タメーである。出産、生理的現象は罪なのですか?違いますよね。それなので、この状態が何を表しているか、

ちゃんと、始めからその意味を学んで、初めて神がそのことを通して教えている真理が、見えてくるということなのです。

 

体からの漏出物や、出血は本来の状態ではないからです。それら体液は、体の中にあるものであり、普通体の外には出てこないものです。

そして、本来の状態ではないものに、人が触れること、それは

霊的意味をも表しています。

人の生き方、ズレた生き様は、死、神から切り離す要因があることを教えているものです。だから、それに触れると、触れた人も

影響を受けることを、物理的なことを通して教えているのです。

神の性質とはズレている、死=神から離れてしまう生きかたは、

他者をも影響し、神から引き離す悪影響を与えてしまう事を

教えているものです。

聖なる神、神の家に入るということは、死につながるものに、

触れた状態で、入れない、神に近くには、そのように神の性質とふさわしくない状態では、入れないことを教えているのです。

 

ここでイエシュアは、パリサイ人たちも同意せざるを得ない、

非常に重要な点を指摘しているのです。トラーは、神殿の祭壇の上捧げる、儀式上の不浄に汚染されたコルバンの肉を食べることを禁じているだけで、肉体的欠陥、儀式上タホーではない肉を、祭壇の上に捧げる肉ではなく、家で普通の食卓で食べた場合の

罰則を規定していません。

トラーが、神殿の祭壇の上に捧げられるもので、儀式上不浄であると知りながら、犠牲の肉を食べることに対して重い罰則(カレット、切り取られる)を規定しているという事実は、不浄になったコルバンの肉を食べるという問題が同じレベルで考慮されていなかったことを示しています(そうでなければ、同じ厳しい罰則が課せられていたでしょう)。

レビ記7:19-21

同時に儀式的に汚れた犠牲の肉は食べてはならないが、それを

食べた人に、課せられる罰則はないということによく注意してください。

でも、神殿の中で、儀式上神の家の儀式に参加できない状態になている人が、祭壇に捧げられたコルバンの肉を食べると、切り取られる(カレット)という厳しい対処がかせられるのです。

 

これだけ書いても、何を意味してるのか、ピンとこないと思いますが、レビ記の中に記されたこれらは、神の家に入る状態、

つまり、聖なる人が、神の性質とはズレたものに触れたら、それは汚染された状態になってしまうと、教えている意味を正しく学べば、神の深い知恵が見えてきます。さらっと書いても、意味不明な箇所なので、深い学びと検証、それら神が教えてる内容に対しての把握、理解が必要なのです。

 

そして、マルコ7章は、神の神殿の儀式に参加する上で汚れた

状態となる、人間の死体、または四つ足の動物であれ、這ったり

群がったりする種類の、汚れた動物の死肉に触れた人を指すと、説明しています。

トラーは、生きている汚れた動物=きよくない動物=人間が食べるために創造されていない動物に触れても汚れることはなく、

その死体に触れた場合のみ汚れると、教えています。

しかし、同じことは、清い動物にも当てはまります。自然に死んだり、他の動物に引き裂かれたりした清い動物の死体に触れた人も、一時的に儀式的に汚れた人になります(レビ記 11:39-40)。

これは、死に触れる、命と切り離されたものに触れる、人間の本来の状態〜死はなかったからです。死に繋がる、影響を受ける、

死に至る生き方に触れる、けがれる、影響を受ける、様々に深い教えがされています。

どうして、神が禁じたことを破る場合に、絶たれるとある罪=ズレに関して、言及されているのか、考えてみると分かります。

人間の目から見たら見えないことであるけれど、神がそう伝えるならば、神が禁じていることを、群れの中でやる場合、確実に

他の人に悪影響=死に結びつける要因を、ばら撒いてしまうからです。

今の時代でも分かりやすいことの1つに、神の禁じている性的関係、婚姻関係、得にLGBTQなどを実践する人が、コミュニテイ

群れの中にいたら、コミュニテイにいる人は、確実にそれらの人のズレた生き方、思想、行動に触れて汚染され、悪影響を受けてしまうのです。

自分たちの群れに、そのようなことをする人を受け入れたら、

その中にいる人たちは、確実に汚染されます。

だから、使徒15章のように、仲間の群れに集う場合、そのようなズレは決してやってはいけない、そのような性癖がやめられない人、悔い改めて、罪と決別しない生き方をしている人たちを入れることは、文字通り、羊の群れにオオカミを招き入れる愚かな行為であることを、このように、神殿に入ることに関しての定義を通して、神から教えられているのです。

神の宮、家、コミュニテイの中には、死に繋がる行為をすること

それらは、入る余地がないことを、教えているものです。

ここでは、短くしか説明しません。

 

ここでの議論のポイントは、儀式的に不浄となった犠牲の肉を食べても罰はないということです。それを食べた人が儀式的に不浄であるとは言われておらず、入浴などの指示もありません。

さらに、罰則も規定されていません。唯一の結論は、不浄な肉は焼却されるべきですが、食べられた場合、それを食べた人は儀式的には、不浄にはならないということです。

 

しかし、これはもう一歩進めて考えることができます。トラーは不浄な動物の肉=きよくない動物、きよい動物でも死んだ動物を食べることを禁じていますがそうすることに対するペナルテイは規定していません。不浄な動物に課せられる唯一のことは、

その死体に触れることです (レビ記 11)。

不浄な動物の肉を食べることで人が儀式的に不浄になるのであれば、トーラは儀式的な清浄の状態に戻るために必要な儀式的な沐浴を規定するだろうと結論付けるのは妥当です。

しかし、そうではありません。不浄な動物に触れること、あるいは不浄な動物の肉を食べること (後者は厳しく禁じられていることをしっかり覚えておいてください) でさえ、人が儀式的に不浄になることはありません。

ミシュナ(ユダヤ人によるトラーの註解)はこれを明確に述べています。

儀式的不浄とは、神の神殿にそのままでは、入ることができない状態になるという意味です。そして、読んだだけで、今理解できなくても、それだから、神の言葉が不完全、無用などと勝手に考えるのは、とんでもなくズレている思考回路です。

間違っているのは、神の言葉ではなく、人が神の言葉を神が伝える通りを理解していないだけ!という、永遠の事実に戻る。

 

これらすべては、イエシュアの言葉にどのような影響を与えているのでしょうか。「人に入るものは、人を汚すものではない」というイエシュアの言葉は、トラーに書かれた内容の明確な理解であり、トラー学者、賢者の判決にも一致しています。法的な判決を取り上げ、人の心に当てはまる、きよさ=神との関係がピッタリ合っている状態=神の意図通りと、汚れ=神の性質からずれているという、精神的な意味に関する解釈を教えているのです。

ヤコブが次のように書いたとき、彼がまさにこのことを念頭に置いていたことは間違いありません。

 

ヤコブ1:13 だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。

1:14 人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。 
1:15 欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。

 

受胎の比喩を用いて、ヤコブは魂を汚す罪は外部から来るものではなく、欲望に身を委ねた自分の魂から来るものであることを明確にしています。このようにヤコブは、マルコ7章でイエシュアが教えたのと全く同じ原則を、強調しています。

罪は外部からではなく、内部から来るからです。

 

イエシュアは群衆に、人の中に入るものが人を汚すのではなく(儀式的なことに参加できない状態に人を汚す)、人から出るものが人を汚すのだ、というイエスの言葉の意味を正確に説明した後、弟子たちだけになった時にさらに説明し、弟子たちはさらに説明を求めました。

英語翻訳の欽定版では、文字通りの翻訳では、この点は正しく訳されています。「それは彼の心にはいるのではなく、腹に入り、下水に出て行って、すべての食物をきよめるからである。」

 

では、現代の英語(日本語)の翻訳はすべて、どのようにして「こうして彼はすべての食物をきよめた」という翻訳に至ったのでしょうか?

ギリシャ語の構文は実際には、しっくりこない、スムースではないため、写本の中には、筆写者が文を、滑らかにしようと、人が翻訳に手直し、手を加えたした跡が見られ、実際に「彼はすべての食物をきよめた」と書き換えたものもあるのです。

また、キリスト教の翻訳者の間では、トラーの食物規定の教えは、もう廃止されたというのが、一般的な前提であるために、

一般的な英語の翻訳 (「こうして彼はすべての食物をきよめた」) が一般的になってしまったのです。これは原典に基づく正しい翻訳などでは、ないのです。

しかし、「宣言した」という言葉はギリシャ語のテキストには、原典のどこにも存在せず、英語の翻訳者によって付け加えられたものであることは明らかなのです。

 

 

 

 

 

続く