一般的に、キリスト教の世界でされている聖書解説は、神の言葉の方を無効として、人間の編み出した、宗教教理、神学の教えの方を正しいとしています。
デイスペンセーション神学で聖書を読み解く?
こんな思想は、聖書にはない思想なのです。神の教えを分断し、歴史線上に神の性質、神の言葉、神の人へのアプローチや福音、
贖い、救いの内容が違うと教ている、それは聖書の記述とは
丸で異なる思想です。人の思想で、聖書を読んだら、聖書を正しく読み、理解する事を妨害するだけで、聖書に書かれた真実は見えてきません。
しなくてはならないのは、人が作った神学を学ぶ事ではなく、
オリジナルの言語で記された、神の言葉=聖書=神の言葉を直接学ぶ事!これにつきます。人の思想を通したら、神の言葉が曲がるからです。
人の教え=宗教人造教理、これは普通は、人の教えとは考えていない、神の教えだと信じているので、その違いに気がついていないと思いますが、2世紀以降、異邦人がユダヤ人と決裂、そしてヘブライの聖書〜オリジナルの聖書、タナック=モーセの五書、預言書、諸書とも決裂したからです。
得に「モーセの五書」に記された神の教えはもう古いから、
メシアが神の言葉を十字架に付けたのだから、今は生きなくて良い!又は異邦人には関係ない教えだと、神が伝えてもいない教え=人造思想を、あたかも聖書=神の言葉、教えの如く人に教え続けて、それが復活以降の新しい最強最新の教えであると主張し
始めた、それが異邦人教師の教えの始まりなのです。
でもそれは、人間が決めただけで、神は神の言葉は永遠に廃らないと人に今日も、今この時も教えているのです。
神の言葉は、声なき声、音声では聞こえない、神の言葉、声であり、神の深い所にある考えを人に伝えているものです。
ここで大きなズレがあるのです。異邦人の世界では、ある部分は聖書の事実を語っていますが、神の言葉の土台、中心=モーセの五書の殆どを無効として、聖書の最初の部分、本当はそこを学び知らないと、聖書の中身は分からないのに、そこをほぼ、放置しています。
アメリカやヨーロッパ、プロテスタントやカトリック、異邦人の世界では、モーセの五書をヘブライ語でユダヤ人が学ぶように、一年に渡りまんべんなく、学び続けるという、そういう教育背景は皆無です。
そして、復活以降は、人が生きやすい教えに神の言葉は変わった、詰まり、異邦人にとっては異物の教えなので、それら古い箇所?モーセの五書は、聞きなれない、異邦人が生きなれない教えは全部、神が終わりとしたのだと解説しています。
でも、神はそんな事、神は1つも言っていない、聖書に書かれてもいないどころか、神の言葉の一点一画どの箇所も、付け足し、差し引き、人間が手を加えるなかれと、神が警告し教えています。イエシュアも言われたでしょう!
福音書以降には、1)神の教えの全部は、書かれていない、
2) 福音書以降には、タナックとは違う、別の新しい教えは
1つも書かれていない 3)神の言葉を終了したなどと1度も
神は言っていないどころか、逆に神の言葉は永遠に固く立つと
教えているのに、異邦人の教えの世界では、「神の言葉の永遠の真実性」が丸で通じなくなってしまっているのです。
それは、イエシュアが地上に来て、初めて罪の赦し、復活の命
聖霊が与えられたからだと、思っている、そして使徒2章以降に
初めて恵みの時代、聖霊時代が始まり、怒りの時代、律法時代が
終わったと、信じ込んでいるから、イエシュア復活以降、神の
教えも違う、神の人への関わりが違う、別の時代が始まったと考えてしまっているのです。
神の人へのアプローチは永遠から永遠に同じです。救いの方法も1つしかない、福音も最初から1つしかない。イエシュアを通して以外誰も、父の元に来る事はできないと、イエシュアが言われたでしょう?それは、イエシュアが地上に来る前から、エデンの園から同じである事を、聖書に記されている事実を、異邦人の
世界ではどのくらいの人が理解しているのでしょう?
神は永遠から永遠に、恵、許し、愛、憐れみに富んだ方と、ご自身の事を人にそう、紹介しているでしょう?どうしてその神の言葉を信じないのか?それは、神の古い言葉は無効!という、人間の教えに耳を傾けているから、それはアダムとハヴァがエデンの園でやったズレと全く同じであることに、気がついていないからだと思います。
イエシュアを通して義とされた人は、この朽ちる体でも地上に
歩みながら、既に今聖霊を内側に受けて、見えない天の現実を、実は今既に生きている、今地上に生きていても、実は私達贖われた事実を受け取った人達は、実は今神の中に存在していて、神も、信じるものの内側にいるという、摩訶不思議な存在になっているのです。
だから、この世にあって、この世のものではないと、イエシュアが言われたのでしょう。ヨハネ17
これは、復活以降に実現した事実などではない!聖書には、最初から神が同じあがない、救い、聖霊を与え、神と共に地上を歩んだ残りの民の事が、聖書には書いてあるのに、全く気がついていないからです。
残りの民は、どの時代も、どの人種でもアヴラハム同様、イエシュアを知っていた!アヴラハムは元々異邦人です。メシアが生まれる家系にルツという異邦人もいた事でも分かるのです。
知っているとは頭で知っているのではなく、聖霊を内側に受けて、イエシュアを体験的にしり、神と直結した関係に引き寄せられ、神の中に戻っている事が書いてあるのです。
翻訳聖書では、原典に書かれている意味が、見えてこないです。
これは翻訳聖書、聖書ではなくても、翻訳の壁があるのです。
深い深い神の教えが、翻訳では見えないまま埋蔵されているのです。
ヘブライ聖書に触れると、聖書にはそんな事が書かれていたのか〜!と異邦人として聞いたこともない、永遠の真実が、ヘブライ語の聖書の中には記されていることを、発見します。
ヨセフの生涯は、メシアの実態を表しています。それ以前に、
モーセの五書、聖書の中には、預言書も含め、私達贖われた人の
生涯と重なる事実が書かれていて、しかも、歴史の中で起きる事件、国々の中に立てられた人が、預言書にも記されているのです。
ヨセフは、カナンの地、約束の地に住んでいました。
ヨセフは、他の兄弟達から妬まれていました。
それは、父親ヤコブが事の他、ヨセフを気にいっていたからだと書かれています。
これ、メシアである、イエシュアが地上に来られた時、同胞であるユダヤ人が、イエシュアを妬みました。その理由は、もちろん
イエシュアは人であり神であり、彼ら人間を遥かに超えた、
トラー=神の教えの解釈が天的であったため、当時の学者達に
相当妬まれていました。プラス、多くの人を惹きつけ、奇跡などを行なったのですから、イエシュアは、当時の権威とされた人々には、目の上のたんこぶだった訳です。
これは、ヨセフの生涯と繋がる要素です。
ここで、ヤコブは単にヨセフが年取った後にできた子であるから、特別に可愛がったという事ではないという事が、書いてある内容から分かると思います。
この箇所、一体何を話しているのでしょうか?
マラキ1:1 マラキによってイスラエルに臨んだ主の言葉の託宣。1:2 主は言われる、「わたしはあなたがたを愛した」と。ところがあなたがたは言う、「あなたはどんなふうに、われわれを愛されたか」。主は言われる、「エサウはヤコブの兄ではないか。しかしわたしはヤコブを愛し、
1:3 エサウを憎んだ。かつ、わたしは彼の山地を荒し、その嗣業を荒野の山犬に与えた」。
このまま翻訳を読み、神が語るヘブライ聖書に書かれている意味を知らない場合、普通に読んでみたら、神のえこひいきが書いてあると思いませんか?
でも、この言葉は、神がヤコブだけを愛して、エサウを憎んだと
書いてあるのではないのです。
「愛する、憎む」とは、どういう意味?て事です。
これ、1つずつ、ゆっくり事実を繋げれたら見えてきます。
イエシュアまで、このような発言をしています。
マタイ15:24 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
ええ?メシアは全ての人のために来られたのではないのか?と思いますよね。
でも、よ〜〜く聖書の最初から、考えると分かります。
ローマ9:11 まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、
神の選びの計画が、
9:12 わざによらず、召したかたによって行われるために、「兄は弟に仕えるであろう」と、彼女に仰せられたのである。
9:13 「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」と書いてあるとおりである。
私達一人一人は、神の計画通りに、役割目的を与えられて生まれてきました。そして、永遠の中に、この世の礎が造られ前に既に神に選ばれていたと書かれています。
この「愛する、憎む」という言葉は、英語や日本語の翻訳を読んだだけでは、到底検討がつかない言葉なのです。
そのまま読んだら、神が一方を愛してえこひいきし、片方を憎んでる?と、そう読めてしまいますよね。普通ならば。
どういう意味?て思います。ひど〜。神にはエコ贔屓など無いと
書いてあるのに、どういう意味?
愛とは、「契約の愛」です。アハヴァとヘブライ語で言いますが、
私達の想像する愛とは異なります。
神が提示した「婚姻契約」の中に、神が伝える「愛」を生きる詳細が書かれています。その詳細は、神の子らが、どのように生きるのが、神が伝えている愛の性質の生き方なのか、それがモーセの五書に記されている愛の定義なのです。
だから、神の言葉を捨てる場合には、神が伝える「契約の愛」の
全部が理解できない事に陥ってしまうのです。
そして、神はイスラエルとだけ、契約を結んだのです。
イスラエルと神は、契約を結んだ、だから、神はヤコブを愛しと
あるのです。エサウとは、契約を結んでいないからです。
この申命記の7章は、出エジプト20章で、神が語られた言葉です。
神は、イスラエルという民族、全世界からたった1つの民族を選び、世界の中から引き出して、聖なる民、祭司の国民としたと言ったのです。
世界のあらゆる民族のあらゆる国ではなく、たった一つ選び出し、たった一つの場所=イスラエルという土地=国を選んだのです。
それは、イスラエルだけが、特別で有能優秀だからではないのです。1つの国民を選び出し、全世界の全ての人が、イスラエルの神のもとに戻る、神の同じ祝福を受けるため!と、説明しているのです。
イスラエルが選ばれたのは、神の目的がある!神のプランが
ある!神がイスラエルに負わせた役割がある!それだけです。
1つ神、1つ大家族、1つ同じ契約に生きる、1つの場所、
それはエルサレム、イスラエルが中心!世界どこにいても、
エルサレム=天と地と繋がっている1つのイエルシャライムに
意識が向くように、教えているのです。やがて、イエシュアは
再び、エルサレムに戻るからです。ローマではない。
創世記17:4 「わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう。
17:5 あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の父とするからである。
7:7 主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。
7:8 ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである。
ここで、分かる事は、神はイスラエルを選んだ!これは、誰も否定できない事です。そして、全ての異邦人は、同じイスラエルの囲い以外の、羊であり、同じイスラエルの羊の囲いに加えられる自然の木=イスラエルに、野生の木=異邦人が接木されると
教えられている通りです。
結局1つを代表とし、その中に全ての民族が、やがて加えらるという、シンプルな事実があるのです。
だから、世界はやっきになって、この小さな国、イスラエルと
そのイスラエルという民を根絶やしにしよう!と、サタンのプランを担っているのです。どうして、こんな少数民族、小さな国を巡り、これほどまでに、世界中が争っているのか?しかも、イスラエルだけが、自国の防衛権がないように、世界中で、偽りを報道され、歴史の中で、ひどく迫害され続けて、ハマンのような人物に、イスラエル殲滅プランをずっと最初からされているのです。
続く