新興宗教を作ったのは異邦人 神ではない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

なぜイエシュアは終わりの日について語る際に、「あなたがたの逃げる日が安息日=シャバット=第七日目(又は、祭りの最初と最後の日)とならないように祈りなさい。」

マタイ 24:20とおっしゃったのでしょうか?

 

終わりの時代の、イエシュアの群れでは安息日=第7日目が廃止されるかどうか、イエシュアは知らなかったのでしょうか?

終わりの日に安息日が、誰にとっても関心事となるべきなのではないでしょうか?

明らかに、イエシュアは安息日が中止される時を、決して想像さえもしていませんでした。神のシャバットを廃止する、そんな人がいるなどとも、イエシュアの考えの中にはないのです。

安息日を中止=人間=異邦人が中止しているだけなのです!

 

しかも神の創造された永遠の安息日=シャバット=第七日目が、変更になるなら、それでは、この箇所のイエシュアの言葉は、

警告になどなりえません。

それがいつの事を、イエシュアが話しているのか日が不明、分からない事になるからです。

聖書は安息日が廃止されたり変更されたりすることを、一度も

示唆していないだけでなく、それどころか、天地が滅びるまでは(滅びないから強調してそう言っているのです)トラーの中の一点一画、神の教えのどの部分も、何ものも廃止されないという

イエス自身の明確で直接的な声明があるのです。神の言葉こそが、人に対しての、唯一無二の永遠の証拠なのです。神の言葉を否定し、塗り替える人の言葉や教えなど、神の前には全く意味はないのです!!!

マタイ5:17–20 は、イエスがトラーと預言者を廃止するために来たのではなく、それらを成就するために来た(それらを人が完全に実行可能、生き生きと生きる、現実のものにするために来た)と明確に述べています。このイエシュアの言葉は、神の王国で

あなたが偉大になりたいのであれば、神の教えを守り、他の人にもそれを守るように教えるようにイエスの弟子たちに勧告しています。

パウロは、ある人がユダヤ人か異邦人か(割礼=ユダヤ人になる改宗儀式を受けているかどうか)を気にしていませんでした。

彼が気にしていたのは、すべての人が神の教え=戒め=トラーを守り生きることでした(1コリント 7:19)。

パウロが「戒め」と呼んだものに、第 4 の戒め=シャバットを含めなかったと、この中で本当に信じている人がいるでしょうか?
さらに、安息日が日曜日に変更されたと主張する根拠は、一体何なのでしょうか?

通常、キリスト教の教えの世界では、この質問に対する答えは、イエシュアの死と復活によって、安息日は廃止されたということにされてしまっているのです。

人間が神の言葉を差し置いて、勝手に言って、決めつけているだけですが。

しかし、イエシュアの永遠の犠牲が安息日を廃止する手段であるなら、千年王国でなぜ安息日が復活するのでしょうか????

 

イザヤ書 56:3 以降と 58:13 以降は、どちらも間違いなく千年王国に関する一節ですが、安息日=シャバット=第七日目は

イスラエルだけでなく、イスラエルに所属するすべての外国人に対しても明確に有効であると、書かれています。イエシュアは

永遠の犠牲を払って安息日を廃止したにもかかわらず?なぜ来る未来に、次のようにシャバット=第七日目を復活させることができたのでしょうか?
安息日がイエシュアの時代に明らかに存在し、昇天以降1世紀にも存在し継続して祝われ続けていて、未来千年王国にも明らかに存在するのであれば、その間、どのような根拠で停止されたのでしょうか?シャバット=第七日目、祭り、神の教えが停止されているのは、異邦人の信者の間だけなのです!

 

神が、特定の時代に、神の率直な戒めを無視することを意図していたのであれば、間違いなくそのことを明確にしていたはずです。しかし、聖書全体を通してそのような記述は1つも見当たりません。事実そんな記述は聖書には、無い!のです。

パウロは安息日=シャバット=第七日目も守り祭りを祝ったのです。(使徒行伝 17:2)、パウロは、トラー=神の教えに厳密に従って生活しました(使徒行伝 21:24)。ローマ人への手紙 14 章で、パウロは安息日を重要でない、あるいは無関係なこととして語っていると解説する多くのクリスチャンがいるでしょう!

しかし、ローマ人への手紙 14 章は安息日に関して語ってなどいない、その話題を取り扱っているわけでもありません。安息日という言葉はその文脈にも出てきません。

 

おそらく、どの日に七週祭、過越から、シャヴオートまでの、

「オメルを数える、穂を数える」7週間をどう祝うべきか(レビ記 23:15–16 ― 当時のパリサイ人とサドカイ人の間でよく知られた議論)についての論争、あるいはおそらく、どの日を断食のために取っておくべきかについての論争を扱っているのでしょう。

神のシャバットをいつ祝うか、又は祝わないかなど、神の絶対的であり、永遠普遍、代々祝われるべき、聖別、聖日、主の日を

人間が、廃止するか、維持するかなどの、神に対しての冒涜的思考回路は、聖書に登場する人の中には微塵もない!という事を、知らないとならないのです。

 

神が創造されて「永遠に祝われるわたしの記念日」と、人に紹介しているのに、人間が神の創造された聖別された神が呼び出しているアポイントメントの日を、人間が勝手に変更してよいのだ!この思考回路が、どれほど神の思索、神の言葉から、ズレているのか、それに先ず気が付く必要があるのです。

神が絶対、神が創造されたものが絶対、神の言葉が絶対という

理解の基本中の基本の土台がない思考回路、それが神の言葉を

平気で変形させる事をしているのです。

いつ、どこで、誰と集まり、どんな主旨目的で集まり、交わりの時を持とうと、それは完全に自由です。でも、それは神が聖別された日でなければ、ただの普通の日なのです!神が指定していない、アポイントメントの日ではない日を、「聖日とか、主の日」

などと、勝手に人が呼んではならないのです。

それは、神の前には、真実ではないからです。

神の言葉によれば、それらは、冒涜、罪であるのに、神の言葉を捨てる場合には、何が罪か分からなくなる、典型的な例です。

パウロがこの論争全体を、神の教えではなく、パウロや他の人の「意見」の問題呼んでいる(ローマ人への手紙 14:1)という事実は、パウロが安息日の神の仰せのように、聖書に明確に述べられていることについて、ここでそれが有効か、無効か、などの話をしているはずがない!という事実に対して、私達の意識をむけさせ、 同時に警戒させるはずです。

異邦人は、人間の意見で神の言葉を仕分けて良いと、教えていますが、それは聖書の教えとは真逆な、不真実な冒涜的な教えです。

さらに、パウロがそのような一言で、当時の中心的な問題の一つであったトラーの仰せ=神の教えを廃止できたのだ!などとは絶対に考えらないことなのです。そんなこと、神の教え=トラーを正しく人に教えなくてはならないパウロは言うわけない。

しかも、議論や反発の兆候さえまったくありませんでした。

もしパウロが安息日は、もはや有効ではないと、人に教えたとするならば、これは反対者がパウロに対して挙げた罪状に加えられたでしょう。神の前に死に匹敵する罪を犯すよう、人に教える

偽教師パウロとなります。神の使徒などでも、なくなります。

しかし、パウロはそのような教えで非難されたことはありません。ローマ人への手紙 14 章を安息日の廃止と読むことは、その歴史的および文法的な文脈から完全に外れて読むことをしているのは、聖書に記された記述から明白な事実なのです。

千年王国? 神がそれを廃止したのなら、何か問題があったに違いありません。そんな事はあるわけなどないでしょう。

では、聖書が閉じられた後から、千年王国まで、シャバットや祭り、神の教えが廃止され、人の作った宗教の教えに変わり、そして千年王国で再び、元のオリジナルの神の教え、記念日に戻る?それが復活すると書いてあるのでしょうか?

そんなこと、一体聖書のどこに書いてありますか?無いです。
こうなると、世間で2000年近く流通してい主流の教えや、

教理は、聖書とは全く無関係の人の編み出した伝統の言い伝えであり、神の言葉を退けている、あってはならないことが起きているのです。
タナック=モーセの五書、預言書、諸書が過去の遺物、棚を飾る骨董品でしかないと言うのなら、人生で実用的ではないのであれば、それは本当に永遠に生き、存続する神の言葉として受け入れられるものなのでしょうか?

 

使徒の書簡では、週の最初の日が、異邦人イエシュアの信者たちの集会日=安息日として言及されていると言うクリスチャンが

大衆ですが、よく聖書に記された事を調査してみると、使徒の書簡全体の中で、週の最初の日がイエシュアの信奉者たちのために強調されている箇所は 2 回 (使徒行伝 20:7–12 およびコリント人 16:1–3) しかなく、コリント1の2 回目には、彼らが一緒に集まったという明確な証拠さえありません。
しかも、それは安息日だから、集まっているのではないのです。
最初の言及では、使徒20章の集会は明らかに安息日の終了後

でも、ギリシャ語原典には、「日」という言葉はありません!

 

ここで書かれているのは、 過越=種無しパンの7日の祭りが終わった時、過越から、次の祭りシャヴオート(ペンテコステ)迄

「穂を数える7週」の最初と考えるのが、妥当です。

たとえそれが、シャバットが終わる時、週のはじめとしても、

それは、土曜日の夕暮れのことです!

ヘブライの観点から週の最初の日が始まる日、現代のグレゴリオ暦では、土曜日の日没から夜中にかけてのことなのです。

しかも、過越、種無しパンが終わった時とあります。

その記述から、過越の祭り、種無しパンを祝う、イコール彼らは

第七日目のシャバット=安息日をずっと祝っていた証拠となるものなのです。なぜなら、神の記念日は、全部を祝って完全なものであり、全ての祭りの中心は、シャバットだからです。この意味を、聞いただけで、理解できないのは、異邦人が神の記念日を祝わないから、分からないだけなのです。神の記念日、シャバットや祭りを祝う人には、すぐに理解できる内容です。

 

簡単に言い換えて見ると、日本人でお正月を祝うという場合、

大晦日だけ、祝って、元旦を祝わないというのは、ありえないと分かるでしょう?それと同じ事なのです。

 

使徒20章では、夜遅くまで、その集まりは続きます。安息日の後だとしても、イエシュアの初期の信者たちは、イエシュアにある兄弟たちと、交わりをするために、ユダヤ人と異邦人と集まるのが習慣でした。なぜなら、異邦人は、土曜日も働いていたからです。

覚えておいてください、異邦人である彼らの主人は、イスラエルの神を信じてはいなかったので、奴隷=使用人に、シャバット=土曜日に休日を与えることで、安息日を尊重することはなかったのです。でも、仕事が終わる土曜日の日没からは、一緒に集まれたのです。こうした会合の際、窓際に座っていたエウテコスが転落して死亡したのです(使徒行伝 20:9)。

今でもシャバット=土曜日の日没には、シャバットを閉じる儀式をし、祝う事をするのです。その意味が分かる人には、簡単に理解できる、金曜日の日没の、シャバットの開始の晩餐に集まるだけではなく、土曜日の日没にも集まり、キャンドルを灯し、パンをさく。これは過越の祭りでやる、種無しパンを割く事ではなく、食事に集まれば、特にシャバットやシャバットを閉じる時には皆でパン=タネありパンを割いて食べる事を、するからです。

 

週の最初の日について述べている別の文章、1コリント16:1−3では、パウロはエルサレムの信者の救済のために、お金を集めるよう、パウロは会衆に勧告しています。神の教えによれば、安息日にお金を集めるのは、禁じられている行為なので、シャバットではない、別の日〜普通の労働日〜日曜日が選ばれたのです。

しかも、現代のように、日曜礼拝で集まり、席上献金を想像しているので、その箇所を自分たちの慣わしと重ねて読んでしまっているので、パウロの言葉に対するズレと、誤解が生じるのです。

パウロが、週の最初にお金を集めるとは、みんなで集まって集会し、そこで献金を集めるのではなく、個人個人が各自家庭でお金を集めておいて、誰かが、それを後で集金するという意味なのです。日曜日は労働日なので、集まりなどしないのです!これは

イスラエルに行くと、体感できます。日曜日は皆働いていて、

学校も日曜日に行くからです。日曜日は、聖書では、主日、聖日神が神子らを呼び出している日ではなく、普段の日、労働日!

この事実から、思考を外さないで考えてください。

1コリント16:1–3の記録は、これは彼らが安息日=第七日目に集まり続け、それを主のために聖別していたという明白な事実を否定するものではありませんでした。

使徒の書簡は、統一された声で、週の最初の日ではなく、安息日

=第七日目=土曜日が、イエシュアの信奉者が会堂に集まった日であったことを、聖書でははっきりと記録され、示しています。

結局のところ、聖書には、創世記から黙示録に至るまで、一貫して同じ日=第七日目のシャバット=安息日の遵守に関する明確な指示(多数の例と直接の命令による)に満ちています逆に聖書に欠けているのは、安息日が廃止されたという明確な記述です。そんな事神が言う、教えるはずがありませんし、1度もそのようなことなど書かれてもいません。神が喜びと楽しみのために、

ご自分の子供たちに与えたもの、永遠に祝われるわたしの記念日と、神ご自身で宣言され、教え、言われる聖別された呼び出し日を、神自ら、なぜ廃止したいのでしょうか?

もし、廃止したら神は嘘つき!になる事に気がついていますか?

何を理由に、根拠にそんな事を信じているのでしょうか?

使徒の聖書に書かれていることだけが今日の信者に当てはまると言う人もいます。こういう思考回路=異教徒思考回路です。

イスラエルの神が絶対であり、神の言葉が絶対という理解がない

異教神異教徒背景の育ち、思考回路から来るものです。

2 世紀と 3 世紀の異邦人だけの群れ=教会という造語で呼んでいますが、そこで起こった事は、ユダヤ人の群れとの訣別、神のオリジナルの聖書、タナック=モーセの五書、預言書、諸書との訣別、全てユダヤ的な事からの訣別、そして、ユダヤ人シナゴーグからの必然的な移行は、無意識のうちにタナック=との微妙ではあるが実質的な完全な断絶を生み出したのです。

異邦人独自の解釈の教え=新興宗教を作ったからです。

 

 

続く