日本でも、アメリカのアニメ「トムとジェリー」は、誰もが一度は見たことがある、よく知られている漫画ですね。猫のトムと
ネズミのジェリーの、カオスなバトルのコメデイです。
猫のトムを騙すために、ネズミのジェリーが道端の標識を、
クルッと別の方向に向けるシーンが面白くて、猫のトムを煙に巻いて、別方向へ逃げるというものです。
この標識を変えるという行為を、神の言葉を変えたということと
全く同じに重ねてしまうのです。方向指示器を変えられてしまったら、別物の方に進んで行っても、気が付かない。
その方向指示器が正確だと信じているからです。
そして、お箸を棒を二つ並べて、少しでもずらして広げれば、
その果ては、360度違う方向に行ってしまうのです。
神の教えではない人の教えで神の言葉を歪めて薄めた教えを
自分の頭脳に投入され、蓄積したら、歪んだ思考から、聖書を曲げて読み、自分の思索を支配されてされてしまう、それが神の
最初の最初から、エデンの園から同じ警告!です。混ぜ物危険!注意!混ぜてはダメ!混ぜ物〜神の言葉を曲げて、神が言ってもいないことを、吹き込まれて信じるな!これに尽きるのです。
救い主=ジーザスを信じて、罪告白して、聖霊を受ければ、後は
どのように生きようと、なんでも良いと考えていますか?
もしくは、宗教が教えるところの教えを守って生きれば、それで
良いのでしょうか?人は神に何を生きよと教えられているのか
どこでそれを知る事ができますか?
人間ではない、人間を造られた、私達が想像できな程、壮大で、永遠で、ものすごい存在の神が、どのように人に神の深いところにある考え、人がどのように生きるのか?何を通して、人に伝えていますか?
神の言葉で造られた人は、神の口から出る1つ1つの言葉で生きる!と神が伝えているのです。その1つ1つをなし崩しにせよ!
という教えが、異邦人の世界に浸透してしまったのです。
福音書以降だけ読んでも、神の教えの全貌は書かれてなどいません!最初の部分に必要な全てが既に記されているから、重複していないからです。
神は、人の為にシャバットを造られたとあります。神は、私達にどのように生きるのか、神ご自身がお手本となり教えています。
神は6日の間に全ての業を完了し、7日目に止まられた、だから
人も神と同じように6日の間に全ての仕事、作業をして、7日目に止まる、それが神が造られた人の性質です!と教えています。
そんなに難しい事なのでしょうか?7と読む事はそんなに難しい文字なのでしょうか?3歳児でも数字、7と読める子はいます。
神が伝える通りを、神が意図する通りに受け取る事は、難しい点もあります。それは、ヘブライ語で書かれた聖書と、翻訳聖書の中身が違うからです。翻訳の壁があるのは、否めないです。
違うという意味は、翻訳聖書では、本来の原典、オリジナルの言語の意味を正確にそのままを反映していない、リミット、制限が
かけられてしまうからです。
そして翻訳は、人間の思想や手が、勝手に付け加えられてしまう上、オリジナルのヘブライ語の言葉で表されている深い意味が
欠落してしまうからです。
これは翻訳という性質上、しかたない事なのです。だから、オリジナル言語に書かれている意味を、まず知る、いや普通の人は知るのが大変ですから、それを知る正しい教師を得る事は必要なのです。
オリジナル言語の中で書かれている世界の深さ、広さ、超高層ビルのように、何十層にも重なっている、遺伝子のように広げてみたら、長いものであるように、限られた土地に建てる建物は
超高層ビル。それと同じなのです。でもそのDNA、遺伝子を解いてみる作業=それが神の言葉の性質、神の言葉を探り求める作業であり、その中には永遠に繋がる宝庫=神の考え、思索、私達への永遠の教えに触れる全てが入っているのです。それを捨てよ!と異邦人の世界では、教えているから、余計に、神が伝える真実が見えてこないのです。
シャバットの主は人の子、シャバットは人の子のために造られた。
1世紀のユダヤ人の世界では、シャバット=第7日目=安息日の問題は、シャバットが日曜日に変更とか、いつでもよいとか
シャバットを破っても良いなどと、そんな教えは1つもありません。
福音書以降〜使徒行伝の中のどこにも、誰かが安息日の正当性を疑ったという兆候は1つたりとも見当たりません。
安息日が神が定めた日であるかどうかという問題に関して、
イエシュアと彼の敵対者の間で議論は一度もありませんでした。
このような大事なポイント、聖書の事実をまず理解しないと、
聖書に書いてある事を、簡単に読み違えて、誤解して、聖書とは異なる解釈をしてしまうのです。
安息日に関する論争があったとしても、それらは「安息日=シャバット=第7日目をどのように守るべきか」特にトーラーの教えに、プラス付け加えられてしまった、人間が作った法律=伝統の言い伝え、先祖の言い伝え、律法の行い」と呼ばれる当時の人の間にあった人間解釈に関するものでした。
キリスト教の世界、学者は、最初から神の言葉が終了したという
人間の教えを神の言葉を退けて信じて、人造教理を土台として
聖書を読み違えている偏見、先入観から、解説しているので、
聖書とはずれた事を解説しているのに、気がつかないのです。
シャバットは、創造の最初から、エデンの園から教えられているものです。シナイ山で、それまで口頭で神から伝えられていた教えを、初めて神が文字として、婚姻契約として与えられる前から、永遠の中から、シャバット=記念日、祭りは神が造られたものだからです。
私達は、物理的に地上に創造されて置かれる以前、永遠の中から
既に神に選び取られて、生まれる前から、神を知るように神に選ばれて計画され、この世の人生を歩んでいるのです。
シャバットはシナイ山以前に存在しています。創世記 2 章では、安息日は神ご自身が他のすべての日よりも区別し、その日を祝福した日として記されています。
実際、マナの配給とそれが集められる時期 (出エジプト記 16 章) は、安息日がシナイ山でトーラーが授けられる前から確立されていたことを示しているでしょう。
プラス、出エジプトする前から、神の祭り=都上りの祭りをするために荒野=ネゲブ=カナンの地、エルサレムに上って神の祭りを祝わせてくれと、モーセがエジプトの王に懇願しています。
そして、出エジプトした、イスラエルが、シナイ山の麓で、金の子牛を作り、モーセが行方不明になって、仲介者を失ったから、金の子牛=エジプトで培った礼拝方法で、イスラエルの神、神の祭りを祝おう!と祝った、それがシャヴオートの祭りだった!
詰まり、イスラエルは、エデンの園から、シャバット、神の祭り神の教えを先祖代々聞かされて来たのです。
アヴラハムもそうです。ここに書いてあるのは、アダムから始まり、神の教え=トラーは同じであり、そして、アヴラハムも
神のトラー=モーセの五書に記された教えと、そしてイエシュアを知って、聖霊を受けていた事がはっきり書かれているのです。
ギリシャローマ、ヘレニズム哲学思想で聖書を、時系列上に考えて読むから見えなくなるのです。
永遠から完結している事実を地上で、神と繋がった人は、神の同じ福音、同じイエシュアに出会い、同じ聖霊を内側に受けて、
この地上を歩んでいる!それが今の時代の人類の歴史であり、
時代、人種で、救いの内容、福音の内容神の教えの内容、神が変化しない、何も変わらないのです。
ローマのジーザスと、ユダヤのイエシュア?別物?同じ1つの
イスラエの神を、人の思想、分裂思想で解説してるのが、異邦人異教徒思想の聖書解説なのです。
人が何と解説しようと、神ご自身は、聖書で伝えている通りの
変化しない、変化しない神の言葉と言われた通り、それが真実なのです!!!異邦人が編み出した、分裂したイスラエルの神像と分裂して、歴史の途中で無効となった神の言葉とは、完全に神の言葉に反する偽の思想であり、神に対する叛逆の宣言でもあるのです。誰のスポークスマン=誰の代弁をしているのですか?神それとも神に敵対するものの代弁者?
創世記26:5 アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしの
同じイエシュア=救い、同じ福音、同じ神の教え=トラー、同じ
聖霊!
安息日は、エデンの園、地上の創造の場に全ての創造物が物理的に置かれたのです。その後に、モーセの契約=婚姻契約の永遠の印となったのです。(出エジプト記 31:14 以下)。
これが、イエシュアご自身が「安息日は人のために定められたのであって、人が安息日のために定められたのではない」と述べている理由である です。(マルコ 2:27)
イエシュアが安息日はユダヤ人のために定められたのではなく、「人」または「人類」のために定められたと言われた点に注目してください。このようにイエシュアは、安息日はイスラエルだけでなく全人類を支配する創造秩序の問題であると教えているのです。
イエシュアは安息日を破ったと非難されたにもかかわらず、実際には、決して安息日を破りませんでした。
しかし、イエシュアは、その時代でさえ安息日を重荷にしていた多くの人間が作った彼らの人間の伝統の教えに対して異議を唱えたのです。
イエシュアは、安息日が喜びと祝福の日であり、してはいけないことのリストを増やすだけの日ではないという、安息日に関する真のトーラの教えを回復したいと考えました。
地上に1世紀住まわれていたイエシュアの習慣は、シャバット=第7日目に会堂にいることでした(ルカ 4:16)。
現代では、「イエシュアならどうするだろうか」WWJD?という
質問を、唱えて聞くことがよくあります。
ここには明白な答えがあります。もしイエシュアが安息日に神の集まった民と一緒にいる習慣だったなら、イエシュアがしたのと同じことをするのは全く理にかなっているのではないでしょうか?
私たちが本当に真のイエシュアの弟子であるなら、イエシュアがしたのと同じことをするのをやめる前に、そのことについて聖書に明確に述べられていることを追求すべきではないでしょうか?私たちは何を根拠に、神の直接の戒めと神の子イエシュアの明確な模範を無視すべきなのでしょうか。
これは全てのイエシュアを信じる人が考えるべき事なのです。
マルコ7章で、イエシュアが警告した、知らない間に、多くのクリスチャンが聖書ではなく、人の言い伝え、伝統の教え、人が作った教えに、固執している事に、聖書から気がついてみてください。
それは、どのようにできますか?聖書に戻り、そこに書かれている事を、再検証する事のみでできるのです。人の教えを土台に考えている限り、神の永遠の真実=神の言葉の真実が、人の教えや宗教教義で覆い隠されて、見えません!
聖書のどこに、神が私たちに安息日=シャバット=第7日を守ることをもはや望んでいないと述べている記述があるでしょうか?
神は、その子供たちに与えた安息日というすばらしい賜物をどこで取り消したのでしょうか?
私たち弟子に対するイエシュアの教えで、安息日=第7日目は変更されたと述べている箇所はどこにあるのでしょうか?
そのような箇所は、実は聖書には1つもありません。聖書に書いてない事を本気で信じているのは、異邦人が勝手に作った教えが聖書に書かれていると勘違いして、信じているからです。
神の戒め、すなわち、それを怠ると死刑に処せられる戒め(出エジプト記 31:14 以下、民数記 15:32 以下)はもはや重要ではないと言った 3 世紀および 4 世紀の西洋宗教の教会指導者に従うべきでしょうか?他の戒めについても、同じことを言うでしょうか?
なぜ、聖書に第 4 の戒めを直接否定する記述がないのに、私たちは喜んでそれ=神の言葉を否定するのでしょうか?
第四の戒めとは、何ですか?
出エジプト20:8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。
クリスチャンは、これを、安息日=日曜日又は、その人が考える日が安息日などと、神に対する冒涜を言っていてもそれが、神に対する冒涜だとも気がつけないほど、神の教えから離れてしまった、初めの愛=モーセの五書=婚姻契約から離れた!とヨハネが警告している通りの事を実践しています。黙示録2:4
聖書とは違う事を言って主張している事に気がつけば、その行為が神に対する反抗、罪であると、はっきり気が付くはずです。
聖書の記述の事実に、気が付かないから、それが今の時代の神の義などと、完全に勘違いしているのです。
続く
今日、週の第七日目が、神が神の子らを呼び出しているシャバットです。もし異邦人でもイエシュアにより、イスラエルの神の元に戻った人は、全てイスラエルの神の大家族に1員であり、大家族は神の創造された同じ記念日、シャバット、新月、祭りを祝う!と教えられています。その日に、イスラエルの神が、今もあなたを私を共に祝うように呼び出しいるのです。
他の日は、異邦人が決めて作った記念日であり、イスラエルの神、創造主はあなたを私を呼び出し共に祝うように呼び出してません!神の呼び出し日の暦は、レビ記23章に記されており、それが永遠の記念日であり、変わりません。神は嘘をつかないから。
神を愛する人は、神が伝える教えを愛して生きる!とあるのです。神を愛する、神の言葉を尊重し敬意を払うそれは、態度、行動でそれは現れるのです。
Shabbat Shalom