マルコ7章 深掘り検証 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

マルコ7章で、語られている内容、問題をもう少し掘り下げると、何が起きているのか真相が見えてきます。

 

福音書以降は、最初の箇所、得に聖書の土台、中核、聖書の全部に繋がるモーセの五書の中に書かれたことを、正しく理解しないまま読んでも、真相は、はっきり見えないようになっています。

そして、1世紀当時の世界での、ユダヤ人の彼らの中にあった、

人の教え、伝統の教え=神の言葉とは違うことを、どうして実践していたのか、知らなくては見えません。

だから、人の思想で、空想で、聖書とは違う読み込みをしてしまうのです。

 

聖書に登場するユダヤ人の中で、2世紀以降の異邦人のように

神の教え=トラーに記された教えを破る、破るように神が人に教える、神の言葉が昇天以降終了になったなどと、神が言うことに逆らい、ずれたことを考えている人は、一人もいない!という事実にだけ立って聖書を読んでみてください。

 

そして、聖書に登場する人で、レビ記11章、神の造られた人間が食するための動物以外を、人間の食べ物などと考える人は、

もちろん一人もいない!という聖書に記された永遠の事実を、

読み取り、把握して、その事実を土台に考えてください。

 

そして、マルコ7章は、使徒10章のペテロの幻と繋げて、神の教え、食規定が変更になったと、クリスチャンの間で完全に誤解し解説されているものです。

使徒10章で、神からペテロへ見せられた幻は、天に吊るされた布に、清いものも汚れたものも含め、あらゆる種類の動物が詰まっている幻でした。神はペテロに「それらを屠って食べる」ように命じます。一見すると、神はペテロにトラーで厳しく禁じられていることをするように命じているように思われますよね。

屠るという言葉は、神殿の祭壇の上で、コルバンを「屠る」という儀式用語で書かれているのです。

 

マルコ7章では、彼ら、パリサイ派のトラー学者=トラーを羊皮紙に手書きで1文字ずつ書き写す、書写をする人、書写学者と、パリサイ派の人々は、イエシュアの弟子たちが、食物の清浄さに関するパリサイ派が編み出した教え=ハラハー(法的規定)に従っていないことに対して懸念している場面です。

自分たちの伝統の教えに、あなた=イエシュアの弟子達は従ってない、やってない、先祖の言い伝えを破っている!と言っているのです。先祖の言い伝え=神の教えではありません。彼らの間で継承されている教え、ハラハーです。ハラハーとは、どのように

神の教え=トラーを生きるか?実践するか?という解釈したものであり、ハラハーとは、「歩む」という言葉からきています。

 

これらはトーラー自体に定められた神の教えではなく、当時の

支配的な権威者による追加の法律や規則であり、ハラハー(「歩むこと」)または「長老の伝統」「先祖の言い伝え」「律法の行い」と呼ばれているものです。

トラーでは、祭司は人々が捧げた犠牲や供え物の食物を清浄な状態で食べなければならないと規定しています。

 

レビ記 22:2 「アロンとその子たちに告げて、イスラエルの人々の聖なる物、すなわち、彼らがわたしにささげる物をみだりに用いて、わたしの聖なる名を汚さないようにさせなさい。

わたしは主である。

22:3 彼らに言いなさい、『あなたがたの代々の子孫のうち、

だれでも、イスラエルの人々が主にささげる聖なる物に、汚れた身をもって近づく者があれば、その人はわたしの前から断たれるであろう。わたしは主である。

 

これ、レビ記に記されている意味を、正しく学べば、たくさんの

ことが、全ての人に対しての真理として、教えられ、語られていることを理解できます。割礼の教えと同じく、男性だけに与えられているものでも、全ての人に同じ意味、真理で共通する教えがその中には、あるからです。

 

ここで、当時1世紀の賢者たちの自分たちで作った教えは、この規定を「祭司達」だけでなく、すべての人々にまで拡大してしまいました。しかも、神の祭壇に捧げることではない、一般の普段の人々の日常の食事に関することまで。

 

この意味を理解しないとならないのです。モーセの五書に書かれた教えは、神の言葉の中には、全ての人に対する真理が教えらているものなのです。考えてみてください。

でも、実際に神殿で仕えることのできるのは、レビ族の男性だけでした。

クリスチャンもイエシュアを信じた人は、皆天の祭司とか、神の宮と言うでしょう?

でも、天の祭司の定義は、地上の祭司、レビ族の祭司が行うこと実態そのものであり、全て祭司は、神の実際の神殿の中での色々な儀式もろもろに携わることに関しての、神の教えがあるのです。

それは、普通の人は実際には、神殿で執り行わない、やらないことであるのですが、そこで教えられている、聖別された人〜詰まり神に近く仕える人、神の民は、どのように神に聖別された姿を生きるのかを、代表して表して、教えているものなのです。

地上の祭司は、レビ族だけが、なれるものです。そして大祭司は

アロンの直系に属する男子のみが、なれるものなのです。

 

でも、祭司が教えられている通り、イエシュアに繋がる人たちも神の聖別をけがす行為は、禁じられていると理解しないとならないのです。異教神の異教徒と同じ生き方、衣食住全てにおいて、神が言われる通りを生きる!それが、天の祭司の定義です。

 

神の宮で教えられていること、大祭司はイエシュアを地上で表す役割を与えられていて、祭司達は地上の神の宮で、神の聖なる民の生き方の全て、神殿の中で行われることを通して、人に教える役割がある、詰まり、異教徒=普通の人とは分たれた、高い場所にいる。

その意味は、神に近く選ばれた民、イエシュアを通して一人一人聖なる民とされた人は、異教神の異教徒との生き方とは、完全に区別され分たれた、別の生き方に招かれたことを、はっきりと

教えるためのものなのです。

マルコ7章での、パリサイ人の見解では、祭司=神殿に仕える

レビ族の祭司だけでなく、神殿の儀式に携わることのない、

すべての人々に対して、儀式的な清浄の状態で、食事を摂る必要があると、人が決めたのです。

これは、神の教えではなく、人間が編み出した教えです。

 

軽度の儀式的不浄は不浄な物に触れることで、簡単にきよくない状態になるため、軽度の浸礼、つまり手を洗うことで、通常の

食事の前に儀式的に清浄になるのに十分であると、彼らの間では、考えられていたのです。

先ず、ズレているのは、レビ族の神殿に仕える祭司達に対して

神殿の祭壇の上に捧げるコルバンの取り扱いに対して、神が義務付けていたことを、全ての人に対して、適用しているズレです。

明らかに、イエシュアの弟子たち、そして当然のごとく、イエシュア自身も、人が作った教え、人為的なハラハーに従っていませんでした。

人の作った教え=先祖の言い伝え、伝統の教えを生きないことで、パリサイ派の人、トラー学者に、イエシュアの弟子達は咎められたのです。

マルコによる福音書第 7 章の冒頭の節に出てくるいくつかの言葉に注目する必要があります。まず、「汚れた手」という表現には、κοινός 、koinos、コイノス「普通の」という言葉が使われています。

この言葉が、儀式上の清浄さに関して使われる場合、それは「儀式的に汚れた」ものを表します。マルコは、この表現が意味するものを、「つまり、洗っていない」と付け加えて定義しています。

イエシュアの弟子たちに課せられた儀式上の汚れは、トーラーで定義されたものではなく、共通の食事を食べる前に身を清めることを義務付ける人間が作った規則に関係したものだったのです。

 

次に、マルコは4 節で、パリサイ人が市場から帰ってくると

「身を清める」と述べたと書かれています。

ギリシャ語は βαπτίζειν、baptizein、バプテイゼイン「浸す」、「洗礼を施す」です。

そのため、パリサイ人は、偶像に捧げられた物が売られている、市場に行くことで、深刻な不浄を招いたと考えて、儀式の清浄を保証するためにミクヴェ(儀式用の沐浴、洗礼池と言われるものに浸ること)を行ったのです。

彼らの観点からすると、彼らは、深刻な儀式上の不浄に感染した場合に備えて、特別な予防措置を講じていたというわけなのです。

彼らパリサイ派は、少なくとも、手を洗うことで軽微な不浄から身を清めることができると考えていたのです。

 

次の文脈(6-13節)で、イエシュアは、肉体のきよさを通して神が教えている、内側=魂のきよさという問題に議論を向けます。

イザヤ書29章13節を引用して、イエスは議論を心の清らかさに意識を向けさせ、儀式の規定は、全身全霊と魂と力を尽くして神を愛することを、思い出させるために与えられたことを、全ての人に思い出させるものだからです。

 

イザヤ29:13 主は言われた、「この民は口をもってわたしに近づき、くちびるをもってわたしを敬うけれども、その心はわたしから遠く離れ、彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、そらで覚えた人の戒めによるのである。

 
肉体の清らかさの神の教え=トラーは重要でないわけではありません。それどころか、食べものに関する神の教えは、神の性質
通り、混じり気のない純粋な心を持つことの必要性を、日々思い出させる神の教えなので、大変重要なものなのです。
 
でも、イエシュアがなぜ、このようなことを彼らに対して言及したのか?その場所にいたパリサイ人が肉体の清らかさについては、明らかに注意を払い、気にかけていたものの、魂の清らかさについては、それほど気にかけていないことを行動で示していたため、イエシュアの考えでは、彼らが偽善的に行動していたことを示しているからです。
彼らが、富を必要としている年老いた両親から財産を隠すために、合法的で、外見上は敬虔な手段さえも、彼らが見つけたことは、彼らの心が純粋ではなかったことの、確かな証拠だったからです。

マルコ7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた、「あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい。

7:15 すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである。

そこでイエシュアと、学者達のやりとりを聞いていた群衆が、

パリサイ人に対する、イエシュアの最初の叱責の言葉を、彼ら

群衆も誤解していたので、イエシュアはこのように、彼らにさとしました。

イエシュアが儀式の清浄さの問題全体を、否定していると思った

可能性はあるでしょうか。どうやらそのように受け取れます。

そして、気がついてください。伝統の教えの儀式と神の教えとを混乱していることはあっても、ここで聞いていた群衆は、イエシュアが神の創造された清掃動物=きよくない動物が、今はきよくなったなどと、神の教え=レビ記11章に反したことを、イエシュアが教えているなどと、考える人は一人もいないのです。

 

 

続く