終わりの時代は神の伝える真実に戻る時 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

子羊の血の代価で贖われて新しくされ、神のものとなった事実は

色々な事を通して、神は人に教えています。

過越の祭りの「マッツア=種無しパン」も、それです。

「初穂」もそうです。

イエシュアが、地上で、過越の祭りを祝い続けて、その最後の

過越の晩餐でも、「マッツアと贖いの4つのワインの杯」の儀式を通して、同じ契約=モーセの五書=婚姻契約=トラーを、再更新したのです。

パウロが言った種無しパン=マッツア〜罪が削ぎ落とされている

要らないものが削ぎ落とされている、パン種=ハメッツ、パンを
膨らませるもの、そのパン種が削ぎ落とされている事を教えているのです。詰まり、「子羊の血の贖い」は最初から教えられているのです。
1コリント 5:6 あなたがたが誇っているのは、よろしくない。
あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。

5:7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。

5:8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭=過越の祭りをしようではないか。

 

過越の子羊は永遠の中に屠られている!という事実が聖書には

書かれています。そして、私達も信仰により、子羊のを受け取る以前から、永遠の中から、神により選ばれている!という摩訶不思議な事実が、聖書には記されているのです。

時系列上に考えたら、全く理解できませんが、全ては永遠の中に完結、完了しているからなのです。

大祭司も、動物のコルバンを捧げる前から、既に白い服を着ているでしょう。新しくされた人の実態を代表する、イエシュア、

そしてそれに連なる人も、神の前に新しくされている事実を

教えているからです。

 
2000年前にイエシュアが来れられる前から、永遠の中から
エデンの園から、福音は同じ!神の教えは同じ!神は変化しないお方だからです。聖霊=言葉=変化しないからです。
子羊の血の贖い以外、人は神の元に繋がれる方法はない!
他に別の救いがあるのですか?古代は律法を生きて義とされた?そんなズレた思想を教えられて頭脳に持つと、神の言葉が覆い隠されてしまいます。
 
人は、自分の手柄や、自分で屠った動物の血で、罪は贖いない!と神が教えている通りを信じないと、まやかしの教え=人の思想に引っ張られて、神の伝えている真実が見えなくなります。
 
神の教えは、婚姻契約の形で人々に与えられています。
花婿、花嫁、神の創造された中で、一番親密な関係になぞらえて教えているものです。
だから、聖書に書かれている言葉は、忠実、裏切る、姦淫、など
婚姻に関する言葉で、関係のズレを表現しています。
 
婚姻をするとは、出エジプトでも教えられています。
偽の主人の縄目、鎖から切り取るために、代価〜子羊の血の贖いを払ったとあります。そして、神のものとなった、とあります。
取ったというヘブライ語は、花婿が花嫁を娶るという意味の言葉です。花嫁〜聖なる民、聖なる祭司の国民が、世界の中で初めて
誕生したのが、シナイ山でのシャヴオートの出来事です。
「花嫁と、花婿」の教えでも、分かる意味が分かると分かるのです。花婿は、花嫁がどんな場所にいても、迎えに来るのです。
花嫁が、花婿の元に来るのではないのです。
10人の乙女のたとえ話も、花婿が迎えに来るのを待っていた。
失われた羊のところに、イエシュアの方から来たとある、イエシュアから戸を叩いてくださるとある、全て神からの一方的な働きかけである事が、書かれているのです。
 
花嫁が世界の四隅のどこかに居たら、山の中、穴の中、どこかに
閉じ込められていたら、その場所まで花婿、イエシュアが来てくださる。
世界の四隅に流れる川、この生ける水の流れは、世界の四隅のどこにでも行く。この川=イエシュアが行かれるところ全て、全てが生きる!と書いてある通りです。
神が一方的に、人の元に来て下さった。天にいる神が、地上の花嫁のところに、人と同じ肉体を取って来られた事でも表されているのです。
イエシュアが来たから、救いが初めて有効になったのではない、
永遠から、エデンの園から有効!だからです。
全ての人は、時空を超えて、信仰により、同じイエシュアの贖いを受け取る!!!
その方法は、信仰により受け取るだけ、何も変わらないのです。
 
太古の人は、未来へ、アヴラハムと同じく、未来へイエシュアの事実、イエシュアの日を信仰により受け取り、楽しみ喜んだ!
現代の人は、過去へ見て、イエシュアの到来の事実を信仰により受け取り、楽しみ喜び、そして同じく内側に花嫁の印である、
聖霊=神が共に朽ちる体にこの世で既に住まう、花嫁となった
事実を与えられた!どの時代も同じなのです。
分断思想、神の言葉を前後2つに分断し、救い贖いの事実を、別ものの方法があると解説し、神の贖い、救いや教えを分断して、時代により神の教えは別ものに変化したのであるという、聖書に書いてもない、人間の肉の思想により、神が伝える永遠の中にある同じ神の子羊の血の贖いが、聖書に書いてあるのに見えないだけなのです。
大体福音書以降には、タナック=モーセの五書、預言書、諸書の、ほんの短い解説が書いてあるだけ!!!という事実に気がつかないまま、タナックとは別物の、新しい教えが、福音書以降には書いてあるなどと、勘違いしているのです。
だから、福音書以降だけを読んでも、神の教えの全貌は、見えないままになります。
どういう意味かと言うと、神が伝える人間の生き方の全ては、
モーセの五書に記されており、ヨシュア〜マラキは、モーセの五書の解説をしているもので、それらは、福音書以降に重複して、繰り返し全部書かれていないからです。
罪の定義の全部も、聖別の定義の全部も、その他様々、人が生きる上での、全ての領域を網羅する教えは、福音書以降には、重複して書かれていないから、神の教えの全部が分からないまま。
いや、福音書以降は、最初の部分、タナックを知っている前提で
記されている事に、気がついていますか?福音書以降は、全て
モーセの五書が全ての中心で、それに付随する解説の箇所、預言書や諸書の記述を引用して書いているだけだからです。
 
聖書を立ててみて、創世記〜マラキ、マタイ〜黙示録のその量の差を実際に目で見れば、歴然として確認できます。
 
神が設けられた聖日=神と人との特別な会見の日、アポントメントの日は全て、レビ23章に記されています。異邦人も、神の教えを愛して、神が教えられる事を生きる人は、どうなると言われましたか?未来預言でもあります。
あなたは、神の言葉を神が伝える通り永遠普遍と信じますか?
それとも、人の教え〜神の言葉は廃れたという教えを信じているのでしょうか?

 

イザヤ56:2 安息日〜シャバット=第七日目を守って、これを

汚さず、その手をおさえて、悪しき事をせず、このように行う人、これを堅く守る人の子はさいわいである」。

56:3 主に連なっている異邦人は言ってはならない、「主は必ずわたしをその民から分かたれる」と。宦官もまた言ってはならない、「見よ、わたしは枯れ木だ」と。

56:4 主はこう言われる、「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、

56:5 わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。

56:6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は――

56:7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」。

 
安息日〜第七日目以外の日などと、勝手に読み替えてはらない、福音書以降に書かれた、安息日も第七日目以外にはない!とヘブル書に書かれているように、勝手に人間が作った宗教思想や記念日と混同しないで、正しく聖書を読めばよいのです。
プラス、神はいつでも聖日、主の日などと人に教えてなどいません。聖別とは、特別な目的のために分たれているという、ヘブライ語であり、その区別がなくなるなら、聖別の意味がなくなる事に異邦人は気がついていないのです。
普通と特別=神の目的通りを分ける、それが聖別の意味だからです。それでは、神の創造の事実、福音の事実の全てが飛ぶ!なくなる!という事になってしまうのです。
 
いつ、どこで、何の目的で誰と誰と集まるのも全部自由!
祈り、学び、賛美自由!それも自由!!!!
 
でも、イスラエルの神が人を呼び出している、呼び出し日ではない日を、それを聖日、主の日と呼ぶのは、聖書の真実を語っていないと気がつかないとならないのです。
今日は日本の1月1日、お正月です!と言っても、違いますよね。違うのです。それと同じ事なのです。人が勝手に言っても、
それが真実に変化しないのです。りんごをみかんと言っても、
そうならないでしょう?それほど単純な事実なのに、通じない。
 
2000年前に、心があれば、これからは、いつでも主の日になります、なんて神は一度も言ってなどいない、いや神の記念日は永遠に代々変わらず、神と神の子らで祝われると言われたのです。
神の記念日がいつでもよいなら、それなら、神がいつ神の子ら是認を呼び出しているか、どうやって分かるのですか?
暦がなくては、分からないでしょう?
いつでも記念日でいいなんて、そんなのは、神の言葉、聖別の意味、記念日の意味を知らない異邦人の思想です。
神と神の子ら全員で祝う記念日なのに、それぞれバラバラ、
一致、一体とは違う思想は、聖書ではないのです。
 
神の記念日、祭りでも分かるように、1つ神に、1つ大家族、
1つ場所〜エルサレムに集める!
エルサレム〜実家です。世界中のどこにいても、実家はイエシュアの国!エルサレム、天を地上で反映させる神の国、場所、都、家!気持ちはイエシュアの故郷=神の家に向いている事を教えているのに、異邦人の教えは、分離、分裂、分断、聖書とは異なる思想で、聖書を曲げて読んでいるのです。
 
未来イエシュアが到来され、イエシュアが王の王、大祭司として、エルサレムから世界を治める時が来たら、全世界が神の記念日、レビ記23章を祝うようになる!と預言されているのです。
 
ヘブル4:4 すなわち、聖書=タナックのある箇所で、七日目のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、
4:8 もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。
 
第七日目以外に安息日はない!という、永遠の事実があるのに
異邦人の世界では、2世紀以降、西洋教父達により、神の教えを潰す、無効にしてしまったのです。文盲で、もちろん聖書など手元にもない、パウロのようなトラー学者にも教えられない、
聖書と違う教えをされても、どうやって人の教えと、神の教えとの違いが分かるのでしょう?
それが中世の暗黒時代に繋がる教えなのです。
今でさえ、神の言葉は1つで完全!と書いてあるのに、異邦人の世界では、一般的に、聖書の真理が書いてあるのに、神の教え、永遠の真理は、通じていないですよね?
それは、2世紀以降から出現した教え、置換神学やデイスペンセーション神学、神の言葉を有効無効と時代ごとに勝手に仕分けている、人間が考えた教えが浸透してしまっているからです。
 
これって、完全に神に対する罪であり、冒涜であると、神の教えから考えつかない異邦人のなした仕業なのです。
これが、歴史の中で継承され続けて、今に至るから、聖書に記された永遠の事実が、このように記されていても、簡単な事実が読み取れない、不思議な現象が起きているのです。
催眠術のように。
聖書に照らし合わせて、聞き慣れた解説、教えではなく、聖書に何が書いてあるのか、正直な気持ちで、素直に、初めて読むように、神の教え、救いの方法が変化したという偏見を捨てて、聖書を読み直して、神の前に考えて質問すればよいのです。
聖霊=神は、決して嘘をつかない!聖霊が神の言葉を書き記したのですから、聖霊が神の言葉に反する事など言うわけなどないので、聖書に書いてある意味を、はっきりと示してくださる。
神の永遠の真実を求める人には、神は正しく答えてくださるお方だからです。
進化論と同じく、嘘なのに本当のごとく、大衆に受け取られてしまう仮説は、覆すのが大変ですが、真実に気がついた人は、真実に留まり続け、考え続け、神が伝える真実の点と点を繋げていく事ができます。世界は今、真実に修復しているのです。
異邦人は永遠普遍の神の言葉、神の言葉は1つであると、気が付き、そしてイスラエルもタナックに記されたイエシュアがあの2000年前に来られたメシアであると、1世紀以上にイスラエルにいるユダヤ人がメシアに出会っているのです。
 
 
続く