イエシュアを愛する神を信じる人は神の教えを愛して生きる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

春の祭りは、過越の祭り、種無しパンの7日間の祭り、そして

過越から3日めの「初穂」ビクリムを捧げる日、イエシュアが筆頭、初子、初穂に全ての人が連なり、神の前にきよめられ、聖別されている事を表す記念日、その記念日を神はイースターとは

名付けていない、呼ばない、「ビクリム」と呼ばれる永遠の中から神が創造された記念日。

そして、婚姻契約、モーセの五書、トラー=神の教えを与えられた記念日、シャヴオートは、過越の祭りから7週目、50日目だから、ギリシャ語では、ペンテコステ=50と呼ばれる祭りが春の祭りです。

イエシュアが地上に来られる以前から、今に至る迄、ずっとずっと祝われていた来た記念日が、レビ記23章に記された、神の創造された記念日なのです。その全てのアポイントメントの日の中心が、第七日目の「シャバット」なのです。

神があなたを、神の子らを呼び出している祭り、日程はレビ記

23章に記されているものが、本物です。それ以外の日に、イスラエルの神は神の子らが集まり祝うように呼び出していません。神は神と神の子らの聖日、聖別された特別な出会いの日を、歴史の途中で、そして、永遠に変えません!クリスチャンの世界では、神の国の豊かな財宝、相続、継承、文化を捨てるように2世紀以降に、聖書を知らない、正しく教えられない異邦人西洋教父、ズレた教師達から教えられてしまった残念な歴史があるのです。神の教えが見えなくなってしまったのです。

警告が黙示録にされています。

黙示録2:4しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛=婚姻契約=トラーモーセの五書=父の教えから離れてしまった。

ヘブライの世界、イスラエルの神の教えと、西洋人=人間が、

神の言葉、教えに手を加え、改造し、教えを差し引き付け足しして作った、宗教の教えと、神の教える中身、内容は異なるものが多いのです。

神の教えは一見奇妙に思えます。神の教えを知らない人には、

本当、愚かに聞こえるとありますが、それらは救いを受けた人には神の力!であると、神が教えてくださっています。そしてそれは今も今日も永遠に真実なのです。1コリント1:17

 

1 コリント1:19「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」

イザヤ29:14 それゆえ、見よ、わたしはこの民に、再び驚くべきわざを行う、それは不思議な驚くべきわざである。彼らのうちの賢い人の知恵は滅び、さとい人の知識は隠される」。

エレミヤ8:9 知恵ある者は、はずかしめられ、あわてふためき、捕えられる。見よ、彼らは主の言葉を捨てた、彼らになんの知恵があろうか。

福音書以降、引用されている言葉は、モーセの五書、預言書、諸書のみです。タナックモーセの五書、預言書、諸書とは、別の新しい教えなど、福音書以降には、1つも記されてなどいませんが、二千年前に、初めて新しい教えが登場した!古い神の言葉が終了したと言う、異邦人の作った幻想、空想、幻、神話を信じているだけなのです。

ここに書いてある内容とは違うトピックですが、パウロが自分の書簡の中で聖書〜モーセの五書や、預言書、諸書とは違う別の教えを解説していると、教えられ、それらが聖書の真実であると、本気で信じて、思い込んでいませんか?いや、クリスチャンの

世界では、実際に2000年近くに渡り、そのように教えられ続けて、その教えが聖書であると、浸透してしまっているのです。

パウロは、モーセの五書を否定、終了であると、解説していると、パウロの書簡の中身をクリスチャン聖書学者自体が誤解しているから、異邦人の世界では、そう教えられて、信じているだけなのです。

でも神の伝える永遠の真実、事実は全く違うのです。イエシュアの教えも同様ですが、聖書に書かれている事、預言者は、全て

100%モーセの五書を語り、モーセの五書を土台に、モーセの五書の中に記されている神の教えを解説している!と言う事実から、絶対に目を逸らせなければ、聖書「神の言葉」の永遠普遍である真実が、はっきりと見えてきます。

パウロが、モーセの五書を否定する、又はモーセの五書とは違う

人が聞いた事もない教えをした?それらは全部聖書の事実とは

全く異なる創作話、はっきり言って不真実、偽りです。

イエシュアは何と言われましたか?

 

ヨハネ 5:19 さて、イエスは彼らに答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。

12:49 わたしは自分から語ったのではなく、わたしをつかわされた父ご自身が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったのである。
 
イエシュアは、父なる神が語られる事以外は語らないと、言われました。イエシュアは、神の言葉=トラー=父の言葉、教えとは異なる教えなど語らない!という、聖書の基本中の基本が分かれば世に2000年近く流れる、神の言葉、教えを否定する、反対する、終了、破棄する教えが、イスラエルの神の教えなどではない!と、神の言葉を記された聖霊ご自身によりはっきりと識別できるようになります。聖霊が聖霊を否定する〜悪霊が悪霊を追い出すなら、その国は立ち行かないと、イエシュアが言われた意味を、理解すれば良いのです。神が神の言葉を否定する、神の国は立ち行かない!そんな事あり得ない事だからです。
 
神ご自身が、神の言葉は永遠に固く立つ、神の言葉が廃れる事は絶対にない、神の言葉が廃れるより、天地が滅びる方が簡単!と強調して、神の言葉が絶対であり、永遠である!とイエシュアも言われた通りが真実である!そして、一方異邦人が語る2000年以降、神の言葉が無効になったと言う思想こそ、聖書とは異なる、まやかしの教え、人間由来の思想、哲学、宗教教理であるのです。
まず、イエシュアもパウロも聖書に登場する預言者全ては、
100%モーセの五書に同意し、否定、削除、無効!などという教えをしている人は一人もいない!という永遠の事実に、聖霊により目が開かれれば良いのです。人の教えという目隠しで、神の言葉の真実が覆われているのです。クリスチャンは聖書に書いてある通りを読んでも、人の教えで神の言葉を曲げている、書いてある意味を変形して読んでいる事に全く気がついてないのです。
永遠と書いてあるのに、一時的、太古だけ、暫定的と読み、7を1と読む、変わらないと言っているのに、変わると読み替える、それらが矛盾した、変な読み方であるなどとも、微塵にも思わないほど、ズレてしまった場所に飛び出しているのです。
聖書の最初の75%と、最後の25%の中身が違うと思い込まされている。それは聖書の最初の75%を知らないからです。
上中下巻の、上中を抜かして、最後の補足の下巻だけを見て、
その中身を現代風、異邦人の世界の思考回路で読んでいるからです。
パウロが語っているのは100%モーセの五書です。パウロは
100%モーセの五書に忠実であり、しかも生涯パリサイ派に
属していました。ええ〜?パリサイ派〜?偽善者の代表〜!
クリスチャンの世界ではそのように教えられていますよね。
パリサイ派は、当時は主流で大衆でした。そして、イエシュアもパリサイ派の流儀で、モーセの五書を教えていたのです。
パリサイ派ユダヤ人イエシュア信者により、イエシュアが密かに伝え続けられたことを知ってはいないのです。
使徒15章にも、パリサイ派のイエシュア信者たちのことが記されているのです。クリスチャンは1世紀、十字架がついたキリスト教会という場所に、日曜日礼拝で集まっていたと、空想して
読んでいますが、そんなことは聖書には、書いてありません。
聖書には、安息日は、永遠に第七日目であり、1世紀彼らが集っていたのは、パリサイ派の群れであり、そして、シャバット=
第七日目にトラーを学んで教えられていたことが、書かれているのに、その事実さえ、読み取れないままでいるのです。
パリサイ派〜偽善者と考えているのは、イエシュアと議論している一部のパリサイ派が、ズレた思考回路をしていて、イエシュアが、彼らの中に巣くっていた、伝統的に誤解しているモーセの五書の解釈を正していたから、パリサイ派が、イコール偽善者と思い込んでいるだけなのです。
イエシュア、メシアである事、神の教えを正しく継承してきた人たちは、パリサイ派、これこそ、ユダヤ人隠れキリシタンだったのです。
誤解が多くある。パリサイ派は当時誰からも尊敬される人たちであったと聖書に書かれています。それは、人に対して、寛容であり、善意があり、人を助けて生きている、それを教えている人たちがパリサイ派の大衆だったからです。
 
使徒5:34 ところが、国民全体に尊敬されていたトラー学者ガマリエルというパリサイ人が、議会で立って、使徒たちをしばらくのあいだ外に出すように要求してから、
 
真実を知るためには、聖書の記述を見逃してはならないのです。
当時国民全体に尊敬されていた、パリサイ派のガマリエルと書かれています。ガマリエルはパウロの大先生です。尊敬されている偽善者ガマリエル、パリサイ派と書かれていますか?
尊敬されているには、それなりの理由があります。しかも、国民全体に尊敬されているという意味を考えれば良いのです。
神の教えを生きて、人にトヴ神の意図通りの対応をしていたのが
パリサイ派の多くなのです。
しかも、トラー学者とは、パウロも同じですが、国の最高峰の機関、政治や司法を司る役職に就く人たちなのです。当時の、イスラエルの国家議員や検察官、弁護士は皆、トラー学者です。
トラーだけではなく、あらゆる学問を制覇した高学歴の人たちです。イスラエルの憲法、司法は、モーセの五書だからです。
 
パウロの書簡が何を意味すると思いますか?
パウロはエルサレムのパリサイ派の拠点のトラー学者だったのです。その、パリサイ派のトラー学者である、パウロに当時諸外国にいた、ユダヤ人が主流の群れ、プラス少数の異邦人達が、
パウロへ、モーセの五書に書かれた教えを土台に、自分たちの群れの中で、地域の中で起きている諸問題に対する解決の知恵を
パウロの教えを、請うたのです。彼らの質問に対する回答が、
パウロの書簡なのです。このようなやり取りは当時のパリサイ派の教育方法であり、今のようにネットで通信するのではなく、
手紙で、それらを行なっていたのです。
しかも、パウロが週の初めに、エルサレムのパリサイ派にいる人々の支援のために、お金を集めてと言ったのは、そういう意味です。お金は、シャバット=安息日には集めませんから、日曜日は神が教えている通り、普通の労働日、普通の日、聖日ではない事は、明らかなのです。
 
本当にパウロに対しても、パウロが書いた書簡の内容も、クリスチャンの世界の聖書解説では、多大の誤解して、読み込みしているのです。書いてある意味とは全く違う事を解説している!と言う事に気が付かない大きな理由は、モーセの五書を知らない、
そして、当時の人が使っていた言葉の意味や文化が分からない、プラス、神の言葉が永遠普遍ではなく、変化したと言う人の思想で聖書を最初から曲げて読んでいるから、パウロの書簡を完全に誤解しているのです。教師がこぞって聖書とは違う教えをした、
20世紀、置換神学や、デイスペンセーション神学と言う人の思想で、神の言葉を曲げた教えがされてしまって、それが根強く浸透し続けて、神の言葉は廃れたと信じている、そのような聖書とは異なる教えの元は2世紀に遡るものなのです。そのような思想を唱え出した異邦人の教えに繋がっているのです。神の前に顔と顔を合わせて立つ日、あなたの言葉を無効にする、破棄するように人に教えて、自分もそのように生きてきました!と申し開きするのでしょうか?
 
マタイ 5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
 
奇妙な教えという内容ですが、奇妙でしょう。過越の祭りで、
なんでパン種除去掃除なんてするの?種無しパンをなぜ7日食べるの?これらの意味を教えられて、実際にやってみたら、分かるのです。本当に分かってきます。神の教えは哲学思想ではなく、全て実際に生きて体験するようにデザインされています。
祭りが、その最も顕著なものです。皆で同じことを考えて、神の教えを実体験を通して、学習する特別に神が設けた季節だからです。そして、祭りでは、皆が神の前で喜び楽しむため!それが神の仰せです。喜び楽しみを通して、神が出会い大事な事を教えてくださる。なんて良い神!と皆が分かるため!と書いてあります。
それを、律法だ〜などと、最初から曲げてひねて考えるように
促される、一体その背後にいるものが、何か分かったら、その教えからは、1抜けた!をするものなのです。神の教え、イエシュアに着いていく。
しかも、毎年毎年、実際に自分の生活の中で起きる出来事、神の記念日、祭りから祭り、もっと小さい単位では、シャバットからシャバットを通して、神が何かを私達に教えている、命のサイクルのレッスンがあるからなのです。そのレッスンは全て特注!
一人一人違うのです。
 
今日が、神のアポントメントの日、全ての記念日の中心、第七日目のシャバットです。それを人間が否定しても、神が伝える真実は永遠に消えないのです。この日に、神は全ての神の子らを呼び出しています。声なき声、神は今かたるその声は音声ではなく、文字に書かれて記されています。それを永遠の神の言葉、教えと信じて受け取りますか?誰の声、教えに応答して生きているのか、再検証する、終わりの時代に入ったのです。それとも神の言葉、教えは、人が教える通り、無視、拒絶して生きるのでしょうか?それは、個人個人の選択であり、神に対しての愛、婚姻関係にある愛を行動をとおして、生きて示し、証明するものなのです。
 
1ヨハネ5:3
神を愛するとは、神の命令を守ることです。
その命令は重荷とはなりません。
口語訳 神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。
 
これは、申命記30章の引用であり、解説なのです。
 
Shabbat Shalom