終わりの時代に神は全ての神の子らを1つに集めている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

太古のユダヤ人の婚姻は、婚約で、正式に婚姻関係になります。

そして、結婚までの婚約時代、お互いに会わず、しばらく離れている期間があるのです。長いと1年も会わないこともあるのです。

これは、イエシュアも言われた事と重なります。天で私達の住まいを用意するため、父の家に戻り、場所を用意する。準備が整ったら、再び戻ると。

神の再臨を待っている10人の乙女のたとえ話にもあります。

 

太古のイスラエルの人の暮らしが分かれば、もっと見えます。

同じ敷地内の、親の家の隣に、新しく結婚する息子の家が用意されるからです。

今の時期、私達はイエシュアの再臨を待っている、最後の時代に生きています。

そして、地上の人生を再臨の前に終わる人もいる、でも、いつか皆全員で、イエシュアと、顔と顔を合わせて生きる日が来るまでを、待っている時期なのです。その間、天に住むのと同じ、神の教えを生きる事を、地上で学んでいる期間でもあるのです。

だから、神の教える教えを捨てて、神の家に生きる練習をしないというのは、聖書とはズレた思想であると分かると思います。

 

秋は、全ての収穫が集められる!収穫〜神の子ら全員を、秋の収穫で表しているのです。

全部神の祭りと福音の中核は繋がり、教えられているのです。

それが、春の祭りから、秋の祭りの期間でも、教えられているのです。贖われて、救われた人、神の花嫁として娶られた人は、

神から正式に婚姻契約書を頂いて、婚姻の宴をシナイ山の上で、イエシュアと共に70人の長老がしたのです。

そして、その時から、秋の祭りまでは、花婿が迎えに来るのを「待っている、再臨を待っている」のです。この世の旅路〜荒野を、仮庵=仮の体で、しかし、イエシュアの中に住まっている

事実を教えている、それが、仮庵、ミシュカン〜移動式神殿で

教えられているのです。

 

私達信じる者の内側にイエシュアが今臨在する、それは、神からのマタン、贈り物であり、保証でなのです。妻を娶るためのモハ「子羊の代価」は既に永遠の中に払われているのです。

そしてマタン「ギフト、贈り物」は花嫁に与えられた、それが、聖霊が与えられたことなのです。神と一体である。

やがて顔と顔を合わせて、神と皆と共に住まう日が来るまで、

目に見えない事を、肉の目ではなく、神の目から、見えないものを見るが如く信仰により見て生きる地上の訓練、荒野の40年の旅路は、私達の地上の人生と同じ意味があるのです。

 

この地上の人生の終わり、又この世界の歴史の最後、イエシュアが再び来られた時に、全員、婚姻の祝宴が開かれるのです。

それが、仮庵の祭りで表され、実際に毎年リハーサルを神の子ら

はして、地上の旅路を生きるように神から教えられているのです。

シャヴオートの祭りから、秋の祭りの間は、小麦が成長して行く

他の農作物が成長する夏の時期です。

今は、その夏の時期を過ぎている時です。

 

神の言葉、教えの本質、真実が、人の思想で塗り替えられてしまいましたが、今、世界は、神の真実に目覚める最後の終わりの時代を迎えているのです。

2世紀以降、異邦人クリスチャンは、神のオリジナルの言葉、

モーセの五書に記された父の教え、イエシュアが地上で教えられた教えから完全に離れて行きました。離れてない?と思うのです。

では、どうして、神の教えが律法であるなどと言い、完全なる神の言葉を2つに分断し、そして神の言葉が廃れた、イエシュアが教えて生きた神の教え=婚姻契約に記されたものが、もう廃れて今は異邦人には関係ない、神の教えなどと信じているのでしょう?と、自問してみれば良いのです。

イエシュアが教えた教えは、モーセの五書であり、イエシュアが

祝ったのは、シャバット第七日目、新月、春と秋の祭りであるのに、クリスチャンの世界では、2世紀以降、これらは一切祝われなくなりました。聖書には西洋宗教の教えや、それらを実践するように、神が人に教えている神の言葉など、1つも書かれていないのです。聖書を読めば分かる事です。

これら神の教えや記念日は、古い教えであり、無用、悪いもの!と教えた人達により、そのようにされてしまったからなのです。

 

同じ家族で、神が永遠に祝われるわたしの記念日と伝えた意味を異邦人は却下し、その事実が、歴史の中に埋もれて気がつかなくなってしまったのです。

詩篇78編にあるように、太古から語り継がれた同じ神の教えを

終わりの時代が来たら、人が気が付くようになり、そして次の世代は、神の教え=トラーを再び忘れることがないと書かれているのです。

満月から、新月になる時、夜、空は暗闇になり、光がありません。

そのように、ある時代、神の真実が覆い隠されて来てしまったことを表しています。でも最後には、再び光が現れ出る。

 

1世紀には多くのユダヤ人がイエシュアをメシアと信じたのです。当時は、異邦人イエシュア信者など、本当に極少数派であったのです。

メシア信者の殆どが、ユダヤ人であった事実を聖書から知っていますか?

ユダヤ人は、メシアを信じて、同胞から、迫害されました。

そして、同時にローマ帝国からも迫害されたのです。

それは、パウロの記述でも分かるでしょう。

同胞から、ムチで打たれた事が5回とあります。

石で打たれたとは、死刑ですから、死にかけたのでしょう。

2コリント11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、

11:25 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。

ユダヤ人の同胞が、地上に来られたあのイエシュアが、メシアであると認識できない人がいた中、多くのユダヤ人は、タナック=モーセ、預言書、諸書に記された、待望して皆が待っていた約束のメシアであると認識し信じたのです。イエシュアをメシアと認識した後、同胞のユダヤ人からの迫害と、同時にローマ帝国から、モーセの五書=トラー=神の教えを生きる事を禁じられ、重税と死刑を課せられて、他のユダヤ人たちも同様に、イスラエルから完全に追放されて、世界の四隅に散って行ったのです。

パウロや使徒達は、ローマ皇帝の、拷問され処刑されたと記録されています。

それ以降、ユダヤ人メシア信者は、地下に潜り、彼らに関しては語られる事は無くなったのです。でも!!!その中でも、神は

2世紀以降の時代に、どの時代にも、ユダヤ人メシア信者=残りの民を保ち、守り、ガードし続けて、今に至っているのです。

過越を祝うユダヤ人、異邦人イエシュア信者ならば、過越の晩餐で行われる伝統的な儀式を知っています。でも、この中にはユダヤ人で、メシアを信じていない人には分からない儀式があるのです。

この儀式の由来、痕跡は、ユダヤ人メシア信者たちが、神殿が崩壊された70年代以降、過越の晩餐の儀式の中で、イエシュアが、パリサイ派の慣わしに則って行った儀式と共に、イエシュアが復活され、そして再臨する!という事実を、この儀式の中で伝えて、継承しているものがあるのです。これは、普通のユダヤ人なら過越の祭りの中で行うけれど、それが何を意味するのか、

メシアを知らないユダヤ人は、それが何かよくわからないまま、知らないのです。

クリスチャンはカトリックが作った儀式の聖餐式を知っています。聖餐式という名前、儀式は、カトリックが作ったものであり、その本物の元は、イエシュアがされた当時のパリサイ派、

今も毎年行われている、過越の祭りの晩餐の中で行う儀式なのです。

イエシュアが弟子たち、裏切ったユダが席を外した後、11人の弟子たちだけで、シナイ山で与えらた同じ婚姻契約の再更新を

この儀式を通して行った事を知っていますか?

モーセの五書とは違う、別の契約書を与えた!などと、勘違いしては、聖書を読み違えている証拠なのです。

神が与えた婚姻契約は1つ!この中に、ノア、アヴラハムの契約も全部含まれているのです。同じ契約を、頭脳に割礼がされた人イエシュアを信じて、聖霊を受けて、神の教えを理解して生きるという人達と結んだのです。

 

これはエレミヤ31章の同じシナイ山で与えられた婚姻契約と同じです。今のように、神の教え=婚姻契約は廃れた〜終了した〜神の教えはもう生きる必要などない!と言う人は、誰一人としていなくなる未来、全ての人が、神のトラーが、聖霊により頭脳に腹に刻まれて、誰も主を知ろう!などと言わない人たちで生きる、神の大家族と結ばれる、再更新される同じ婚姻契約の事なのです。これを、クリスチャンは勘違いしているのです。

 

モーセの五書と違う、契約書など、神は人に与えてもいませんし、書籍=聖書としても存在していません。

福音書以降は新しい契約書?と勘違いしていますが、それは新しい契約書などではありません。

モーセの五書〜婚姻契約を短く解説しているものが、クリスチャンが言う、別の契約?新約聖書であって、その箇所を新約聖書と名前を付けたのは、マルキオンのような、神の教えは廃れたという反聖書的思想を持つ人であり、神ではなく人であり、創世記〜黙示録と、相反する教えなど、新約聖書と呼んでいる中には1つも書かれていません!という事をまず理解しないとならないのです。

人の編み出した教え=宗教の教えを土台にして、聖書を曲げて読み違えているから、聖書の事実が、目の前に文字で書かれてあっても、書いてある意味通りに読めない、見えなくなっているのです。

イエシュアがされた過越の晩餐の中で、種無しパンと4つの杯

出エジプト6:6−7の事実を回想し、思い出して、救い、贖いの意味を皆で考えるためにそのような儀式をしているのです。

 

種無しパンと、食後の3杯目のワインは、贖いの杯と呼ばれるもので、イエシュアが種無しパン=罪のないイエシュアが支払う代価で、私達が種無しパン=マッツア=罪が削ぎ落とされた人になっている事、そして、イエシュアの子羊の贖いの血の代価により、神の元に買い戻されている事実を、再確認し、これらを過越の祭りを祝うたび、種無しパンを食べ、この4つの杯の贖いの杯の意味を思い出して!とイエシュアが言われた意味を理解してみればよいのです。この豊かな伝統を、神の祭りを通して、イエシュアが教えられた意味が、異邦人により変えられてしまったのです。

そして、このマッツアの儀式の他に、ユダヤ人メシア信者が考えて、継承し、イエシュアを教えているものがあるのです。

以前にも書きましたが、過越の晩餐の最初に、マッツアを3つに重ねて、真ん中を半分に砕き、大人がこれを部屋のどこかに隠します。マッツア自体が、フォークで刺されて穴が空いています。

刺し通されたイエシュアを表しているのでしょう。そして、3つとは、父、子、聖霊を表しているものだと思われます。

砕かれたのは、子であるイエシュアで、隠された!つまり、昇天されて、今は見えない、人々の目からは、隠されている状態である。そして、過越の晩餐の宴が終わりに近づく時、この隠された真ん中の砕かれたマッツアを、子供が探し出すゲームがあるのです。

これ、明らかに、イエシュアをメシアとして知っていたパリサイ派の人達により、編み出された儀式であるのです。

隠されていた〜昇天されたイエシュアが最後の時代に、再び現れる、再臨される事を伝えている儀式なのです。

そして、この砕かれたマッツアを、アフィコメンと呼ぶのですが、この言葉の意味をメシアを知らないユダヤ人は知りません。

これは、ギリシャ語で、ただ一度の行動を表す「私は来た!」と言う意味なのですが、ユダヤ人は、アフィコメンを「デザート」と呼んでいるのです。「わたしは来た」というその言葉の意味を知らないのです。

詰まり、神殿崩壊後、ユダヤ人メシア信者はこのように、イエシュアの事実を、神の祭りの中で継承し教え続けた、そういうユダヤ人たちがいたのです。

福音は、エデンの園から、世界の四隅へ伝えたのは、ユダヤ人です。

そして、同じ福音を伝えられた異邦人が、太古から語られて来た

教えられた、同じ福音を伝えているのです。でも、その伝える福音の内容を変えてはならない、神の教えを変えてはならないのです。

イエシュアは七変化する神、ご自分の言葉を終了する、十字架につけるような事をする神ではないのです!

 

 

 

続く