聖書に書かれている言葉を誤解している | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

福音書〜黙示録だけを読んでいても、その中に書かれている意味がはっきりと浮き彫りにならないです。

なぜなら、何度も書いている通り、聖書は最初のモーセの五書を

土台として、モーセの五書に記されていることを指して、全ての聖書の内容が解説されているからです。

 

マタイの福音書の冒頭を読んで、いきなりそこには、イエシュアの家系図が書かれていますが、それは何を意味しますか?

途中から、書かれている内容であると、はっきり分かるのです。

その家系図を理解する人が読むために、そのように書かれているのです。

突然、そこから話が始まったのではなく、メシアの家系図に遡る、最初の最初に遡る、太古から、語られている、永遠の中から存在する同じ福音、同じイエシュア、同じ救いの業の内容が福音書以前に、書いてあるからです。

又は、現代の自分の文化、それが日本であったり、アメリかや

ヨーロッパであっても、聖書、ヘブライの世界で、当時の人達が知って理解していた、情報、下知識がないまま、聖書を読んでいると、自分の空想の世界で解釈してしまうことが、多く出てきてしまうのです。

そして、一番大きな問題は、聖書に書かれている内容を、クリスチャンの世界では、古い教え〜律法、創世記〜マラキは、もう今は無効という人の思想を土台に、最初から、聖書に対してズレた読み方をしているのです。不要な教えなので、当然の如く、その部分は言語に基づいて、詳しくなど学ばない、学ばない以前に

読まない!というのが、殆どなのではないでしょうか?

マルキオンやダービーの教えを信じて、今は福音書ルカと、パウロの書簡1、2で事足りる、神の言葉を生きる必要はない!

そのように教えられたら、神の言葉など、熱心に追求しないのは

当然の結果なのです。

神の言葉は永遠普遍で完全であり、福音書以降には、最初の部分のタナックモーセの五書、預言書、諸書に書かれた内容を1つも違えない、否定しない、終了していない!という事実に全く気が付かないまま読んでいることです。

 

イエシュアが当時のトラー学者たちを戒めていた内容は、モーセの五書を否定する教えなどをイエシュアがするわけもない!神が神ご自身を否定するわけなどない、神は嘘つきではないからです。そんなことをイエシュアは教えていない、人に対して示してもいない!神は神の言葉を否定する、終わらせよなどと人に教えてもいない。そんな事は、天地がひっくり返ってもないという永遠の真実に基づき、聖書を最初から読み直す必要があるのです。

イエシュア=言葉=トラー=聖霊=神と聖書には、書いてあるのです。神の言葉のどの一点1画も人間が否定する、蔑ろにすることはイコール、神に対して、反対することをしていると気がついていないのです。

聖書の中に記されたことを、異邦人クリスチャンたちの想像で

間違った翻訳で読み違えている多くの内容があります。

 

神の教えが、終了した、今は道徳的なことだけ、重視してれば、後の神の教えは一時的でもう廃れたのだから、それらは、どうでも良い?それならば、一般の日本人の方が、ある信者たちよりもっと常識的で、思いやりがあり、腹に書かれたトラー、人間本来の生き方に沿って、生きていたりするのです。

なぜ、イスラエルが、約束の地から追放されて、異教徒の地、捕囚の地に連れて行かれたのか、聖書に書かれている意味を理解する必要があるのです。これらは、異邦人へ対しても同じ教えでもあるからです。

シャヴオートでは、神ご自身が直接文字で記された婚姻契約書を

与えた祭りでした。それは、神の民、花嫁として正式に娶られて

聖なる国民、祭司の民となった儀式、祭りだったのです。

 

神の祭りを知らないと、聖書に書いてある意味が見えないままになります。イスラエルの地形や大地、気候を通しても、様々に神が教えていることが、浮き彫りになります。

 

過越の祭りが始まった3日後に、「初穂」を祝う日があります。

これは、イースターとは呼ばない、神が創造された、神と神の子らで今も、そして永遠に祝い続ける神のアポイントメントの聖別された日です。

想像してみてください。どんよりグレーの寒い冬の空、暗い冬が終わり、辺りは春になり、暖かくなり始め、日の光もより一層眩しくて、命が芽生える明るい季節に入るその時が過越の祭りの時です。

そして、大地は暗い冬を通りすぎて、春の過越の祭りの時には、大麦の最初の初穂が取れる時なのです。大地から芽生える命の数々、大麦の初穂を取って、神の前に捧げる、その意味は何なのでしょう?

初穂=イエシュアです。初穂を捧げるとは、その後に大麦の残りがこれから成長して行くのです。後から成長する大麦は、イエシュアに繋がる神の子ら全てを表しているものなのです。

イエシュアの復活の命で残りの大麦の収穫全部が、神の前に全て聖別されて、それらが神の前に既に捧げれている事を表しているのです。

イエシュアに繋がる全ての神の子らは、神の前に全て聖別されて神の前に捧げられていることを表している、それがイエシュアの復活の命を表す、「初穂」の祝い日、ビクリムという日なのです。

永遠の中から、創造の最初から、神は復活の命を祝う聖別された日を設けているのです。

2世紀以降にイースターという「復活の命を祝う日」が初めて、神が人に教え、人に知られたないのではない、できたのではない。そのイエシュアが地上で復活された祝い日は、創造の初めから、イエシュアが地上の来られるずっとずっと以前の太古から、「ビクリム」という、神が創造の最初から、人々が祝う聖別された日があり、祝われて来たのです。

イエシュアが地上に来られる前から、過越の祭りが祝い続けられ、イエシュアが再臨する前から、太古から再臨を意味する、

秋の祭り、ショーファーを吹く日、大贖罪日、仮庵がずっと

祝われてきたのです。異邦人クリスチャンの世界では、2世紀から神の記念日を祝うことをやめたから、それらがイエシュアの業を表す、イスラエルの神と神の子らとで祝われる、神の永遠の記念日、祭りであることを、聖書を読んでも気が付かないままなのです。

誰が神の言葉が終わったと言い出したのでしょう?その事実を知れば良いのです。それは、神ではないのです。人間!ヘブライの神の言葉教えを知らない背景の、2世紀以降に現れた、異邦人たち、西洋教父、人に正しく神の言葉を教えなくてはならない人たちが、聖書とは違う教えを人にしてしまったからです。

 

イースターという言葉も、そうですが、教会、律法、ルシファー

などなど、一般的にクリスチャンの中で、浸透して当然の如く使われている言葉やその意味が、元の意味を反映していない、意味が変えられている言葉です。しかも教会など、元のヘブライ語の言葉の意味を正確に反映していない、聖書にはない人造語翻訳ですし、ルシファーもヘブライ聖書にある言葉を正しく訳していないラテン語です、同様に律法もヘブライ語のトラーを正しく訳していない不適切な言葉なのです。でもそれらが浸透して、使われ続けてしまうから、便宜上使っているだけで、本来の元の意味を全く反映していない言葉なのです。

浸透しすぎて、訂正されないから、仕方がないから使っているだけなのです。

イザヤ14:12 黎明の子明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。

この箇所の英語訳は、O Lucifer, son of the morning!

日本語訳では、ルシファーではなく、黎明の子です。ヘブライ語では、ハラル はっきりする、輝く、この箇所は、北の王を指して話している箇所なのに、サタンのことを話しているとされてしまっているのです。

聖書を勝手に解釈し、翻訳し、書いてない読み込みしているものが多いのです。

サタンという言葉も、誤解して読んでいる代表例です。

 

ヘブライ語でハ サタンとは、タナックでは、18回使われて、

その中で、14回は、ヨブの最初の2章、そしてゼカリヤ3章で使われています。

ゼカリヤ3:1 時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、

サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。

3:2 主はサタンに言われた、「サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。

これは火の中から取り出した燃えさしではないか」。

<読んでも意味不明ですよね?>

 

翻訳者は、名前が「サタン」であると考えています。ヨシュアの隣に立っている主の使いの名前が「サタン」???なのでしょうか?

サタンなどという、名前が人に使われることなど、少ないので、混乱しますが、この人の名前はサタンなのか、それとも単に、

このヘブライ語を音訳しているだけなのでしょうか?

意味不明ですよね。翻訳だけ、読んでいたら、「サタン」という名前の人が、ヨシュアの前に立っていると読めてしまいます。

 

ユダヤ人の学者達は、サタンという言葉を、異邦人クリスチャン福音派の学者達とは、全く違ったように理解しているのです。

彼らは福音派の解釈者達が、しばしば行うように、ハ サタンに独立した人格を与えることに非常に躊躇しています。

 

ユダヤ人ラビたちは、「サタン」という言葉を、「罪」という言葉の同義語として考えています。

ゼカリヤ3:1での、「サタン」という言葉の使い方は、ラビ ローゼンベルグの預言書の有名なコメンタリーでは、「罪は、

ヨシュアの右に立って、彼を非難している」と書いています。

 

ローゼンベルグは、この言葉を「ヨシュアの罪」と理解しているのです。「ヨシュアの罪が、聖なる神の前に、ヨシュアを責めている」という意味になり、サタンという、誰か個人的な人物の名を言っているのではないのです。

ユダヤ人解釈者、翻訳者は、「サタン」という言葉を別の意味で

理解しています。

この意味は、人間のエージェントや道具、方法に対して、軽蔑を示す言い方でもあるのです。

これは、ヨシュアを妨害する人が、ヨシュアの隣に立っていたと

考えられます。

妨害したのは、ホリ人サンバラテとその同僚たちであり(エズラ記に彼らについて書かれている)、彼らはユダヤ人がエルサレムの神殿と城壁を再建するのを妨害した敵対者たちです。

いずれにせよ、神にどんな意味でもどんな度合いでも、敵対するもの、サタンと加担するものは、サタンの業を代行しているということなのです。

人の意見では、聖書の中で、この人物に出会うとき、サタンを神と神の民に敵対する邪悪な霊的存在と考えるのが、かなり合理的であるように思われます。

タナック=モーセの五書、預言書、諸書には、この単語が登場

するたびに、それはあたかも人であるかのように使われます。

詰まり、彼は話し、非難し、本物の人格のように行動するのです。

しかし、「サタン」はこの邪悪な人物の正しい名前として理解される必要はないということを、心に留めておく必要があります。

 

この箇所のヘブライ語の単語の前には定冠詞が付いています。
これは単に「告発者」と訳すことができるもので、個人名として訳すことはできません。

したがって、「神に対する個人的な悪魔的な敵対者についての教義より完全な発展は、新約聖書学者が考えた思想、教理の特徴なのです。

この箇所では、サタンは神の前でヨシュアを罪で告発しています。

ヨシュアは王なる祭司職を代表しているだけでなく、神の裁き主の前で、ユダヤ人全体、つまり祭司の王国を代表しているとも言えるということを、私たちは心に留めておく必要があります。

従って、ハサタンが聖なる者の前に立つとき、彼は神の民であるイスラエルをも非難しているのです。

もう一つ、ペテロに対してイエシュアが言った言葉でも分かります。

 

続く