神の定めの時 実りの季節 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

6月11日日没から12日日没まで、2024年のシャヴオート

(ペンテコステ)でした。

イスラエルの神が創造された記念日、祭りは全て、福音、救い、贖い、イエシュアを通して、神の元に取り戻された人の旅路、

生き方、そして、それらは同時に、イエシュアのされた業、地上で実際に起きた出来事を表す、預言的祭りなのです。秋の祭りは、再臨、イエシュアと共に永遠の中に住まう事を教えているものなのです。全部福音、神に造られた神の子らの地上での、永遠での未来を表しているものです。

 

春の祭りは、偽物の、別の神々に繋がれたまま、この世に生まれて来た状態から、子羊の代価で贖われ、救われ、新しくされ、

本物の自分達の創造主である神のものとなり、神の花嫁とされて聖霊を内側に頂いたことを、教えています。

イエシュアを通して、贖い出され、父の元にとり戻され、再び繋がれ、神の花嫁として、この朽ちる体で地上に、今生きている

けれど、聖霊が内側に住むことで、神が今共にいる、そして私達も、今神の中にいる、その事実を通して、私達は神の中で、何も欠けることがない、地上にいながら、実は感じないけれど、天の中に今居る事実を、神は人に教えています。

 

それらは、太古では、直接神が一人一人の個人に現れ出て、教えた同じ神のトラー=教え、インストラクションを与えたのです。

言葉だけではなく、さまざまなことを通して、特にミシュカン〜

神の移動式神殿、固定的神殿を通して教えているのです。

 

神の宮、神殿、ミシュカンの中で教えられている事、祭司たちの役割の様々、その衣服の意味まで、それらを通して教えられている事は、すごく深い意味があるのです。神とどのような状態でなければ、本当の関係に留まれないのか、教えているものなのです。

だから、人が自分独自の聖別の教えを編み出して、それを生きてもそれは、神の目からは、全く的外れなものなのです。

 

こういう事と同じです。電話番号、ウェブサイトのアドレスや、メールアドレス、一文字でも違ったら、機能を果たさない、繋がらない、それと同じなのです。

神が言う通り、その通りぴったりなら、神の栄光、実態はその人の生き方から現れ出るという事なのです。

 

そして、シナイ山で、初めて文字として、変わらない永遠の証拠保証として、イスラエルという聖なる民を代表として人に与えられたのです。それがシャヴオートの祭り(ギリシャ語ペンテコステ)、過越から7週間を経った日の祭りなのです。

 

神が直接文字で記された契約書=トラーは、同時に、異邦人へも同じです。それは、イエシュアを通して、イスラエルの神の元に戻った人は、もれなく同じ神の契約=トラー=モーセの五書に

記された、神の大家族、天の祭司の生き方を生きることに、招かれたのです。

 

イスラエルの神=創造主を信じたことも自由選択でしたが、神の子とされたのは、神の一方的な、贖いの代価の提供によるものでした。無条件人の手柄では、得られないものだからです。

でも、花嫁とされた人たちは、これから聖なる民、天の祭司としての神の家に住まう上で、神の教える通りを生きて!という重大な条件があることに、気がついていますか?

贖われ、救われた人は、後は1、2を生きていれば、他は自由になんでもあり!なんて、神は人に最初からそんな事など、教えてもいません。

神の教えは、異邦人教師が教えるように、人を縛るものではなく私達を本来の姿で生きる事を教える完全な神の教えであり、私達神の性質通りに造られた人の生き方を、私達を創造された神が、私達の本来の生き方の全てを教えているものです。

神の性質に反する生き方をする、デザインに反する生き方をすることは、すなわち、破壊、傷つけ合い、不具合、悲しみ、不幸、自然環境汚染、生態系破壊、病気をもたらすものである!ということだからです。

デザインからズレた生き方をしたら、祝福をフルに楽しめない!

ということに繋がるからです。特にイスラエルは、契約を受け取った代表、大家族の長男である役割の故に、神の伝える生き方に反することをしたら、厳しい訓練が待ち受けていたのです。

今も、同じなのです。

 

この点を、クリスチャンの世界で、多大に誤解していることでも

あるのです。

どういう誤解?神の教えが、永遠普遍だと神が教えているのにも

かかわらず、異邦人は神の言葉、教えは、2000年を境に、歴史の途中で変わった、又は時代ごとに変わった、神の教えが十字架に付けられたので、神の言葉は無効、終了になったと言っている、聖書には記されていない教えの事です。これは、神の言葉が律法などと訳され、神の言葉は完全であり、人を生かすものであると教えているのに、神の言葉は人を縛る悪いものであると教えられ続けてて、しかも、昇天の後2000年以降は、新しい救い新しい教えが初めて歴史の中で登場した(新しい教えなど登場していません)から、以前の古い教えを生きるのは、もう意味がないなど、聖書とは全く無関係の、異邦人が2世紀以降作り出した宗教の教えを信じているから、神の言葉で伝えている永遠の真実が見えてこないのです。

そのように考える場合、福音書〜黙示録には、モーセ、預言書、

諸書の抜粋の解説だけが書かれている事に、気がついていないからだと思います。そして、神が神の言葉を否定する、イエシュアが、神の言葉を破るように人に教えるなど、あり得ない事である

という事実にも気がついていないからです。

 

異邦人は、聖書に永遠とある文字を今読んでも、書いてある通りに読めなくなっている、催眠術にかかっており、暫定的、一時的と、勝手に読み替えているでしょう?どうして?と考えたら良いのです。変ではないですか?では、世の中の書物に対しても、

著者が書いた通りを読んでいないのでしょうか?

時刻表に7時と書いてあるのに、1時と読み変えていますか?

いないでしょう?では、どうして聖書に対して、そんなメチャクチャな読み込みをしているのか、考えてみたらよいのです。

 

1つで完全、どこも相反する矛盾など書いていない聖書に対して人間が神の言葉を勝手に分断して、人の思想で、旧約新訳が別物であると読み違えているから、いくら読んでも気がつけない、

最初の部分をちゃんと知らないから、気がつけないのです。

 

神が言う通りに聞けなくなる、「み言葉を聞けない飢饉」とは、まさに、そのような状態の頭脳のことなのです。

 

そして、出エジプト後は、イスラエルという国民が初めて誕生しイスラエルの12部族と少数の異邦人が、約束の地に入るまで、新しい人として、神の声=言葉に聞いて、生きて成長することで表されています。

それらは、全てイエシュアを通してイスラエルの神に繋がれた人異邦人含め、そして、約束の地=天の国、そして神と直接顔と顔を合わせて永遠に生きる時までのことを教えています。

 

そして、レビ記23章に記された神の記念日全ては、永遠に祝われる「わたしの記念日」と神が言われたものであり、イスラエルだけの記念日などと、紹介していないのです。もし、イスラエルだから関係ないと思うなら、イエシュア=ユダヤ人も異邦人とは何も関係ないと言っているのと、同じであると気がついてください。神は1つの代表としての民族、イスラエルを、世界の中から唯一選び出し、そしてそのイスラエルの大家族の長であるのが、長子、イエシュア、初穂であり、全ての人は、同じイエシュアを通して、父の元に戻り、イスラエルという1つの大家族とされる、それが福音の醍醐味、神の壮大な修復のプランだからです。全ては元に戻る!それが7のサイクルの記念日、「神の定めた時」を通して、教えているのです。

 

異邦人が言うように、歴史の途中で神の言葉や記念日が変更されたり、終わったりするものではないという聖書に、書かれた事実をまず捉える必要があります。人が神の教えや記念日を終わらせたり、変えたりしているだけ!という事実にも気がついてください。

異邦人の世界では、2世紀以降、永遠普遍の神の言葉=教えを

捨てるように教える人たち=西洋教父達〜幼い頃から聖書=タナック=モーセの五書、預言書、諸書を教えられ、親しみ、成長したことがない人たちが出て来て、彼らにより、神の言葉が乗っ取られてしまい、人間の発想の違う教えを、神の言葉に付け足され注入され、改ざんされてしまった、悲しい歴史があるのです。

人が作った付け足しの教えは、神の教えではない!と気が付かないまま、宗教の教えを聞いて、それが神の教えだと勘違いしているだけなのです。

シャブオートで、神の婚姻契約を与えられました。そして、正式に神の花嫁、聖なる国民、祭司の国が誕生したのです。

 

神の民とされた、婚姻契約を与えられた、そして神の花嫁とされた印は、神は何であると人に教えていますか?

「シャバット」です。永遠の印!婚姻指輪、外側から見て、見える、印、神との関係にある印であると、神が教えているのです。

そして、神の記念日は、全てシャバットが中心であり、全て永遠に代々に渡り祝われるものです。イエシュアが地上に再臨された

後は、永遠にレビ記23章にある記念日を全員が祝い、そして

子羊イエシュアの歌と、モーセの歌を歌うと預言されています。

 

シャバットは、永遠に日曜日などではありません。第一日目は、神の教えでは、労働の第一日目だからです。止まる日、安息日ではありません。世界では、イスラエル以外、暦が違うので、日曜日が労働日と思わない国が多いですが、聖書では、最初から、

人は第一日目〜第六日目に労働、作業、働いて、第七日目に止まる、と教えられているのです。神が創造でそうされたように、人も神と同じく第七日目に止まる!と最初から神に、そう教えられているからです。

これは、創世記の最初に書かれています。シナイ山で、婚姻契約が与えられる前から、同じ神の教え、記念日をアダムとハヴァから生きていた、残りの民は神に同じ、教えを教えられていたのです。

だから、出エジプトする前にモーセが、イスラエルの神の祭りを

する為に、荒野〜ミッドヴァに行かせて下さいと言った、くだりがあるのでも、分かるでしょう。アヴラハムが、同じトラー=婚姻契約=神の教えを聞いて、理解していたことも書かれているのです。そして、イエシュアをアヴラハムは知っていた、イエシュアの日を、神が伝えた通り信仰により未来に遠く見て、内側に

聖霊を頂いて生きてた残りの民のことが記されているのです。

 

時系列上に考えるから、分からなくなるのですが、全ては永遠の中に完結し、存在し、同じ1つの神の言葉、教えしかない!という理解があれば、聖書の事実が見えます。

 

春の祭りシャヴオートから、一年の最後の収穫祭が、秋の仮庵の祭りです。4月あたりから、秋の仮庵の時まで、イスラエルは今一滴も雨が降らない時期です。とても不思議ですよね。イスラエルで生まれてずっと育った人が、日本に行って夏、雨が降ったからすごく不思議で新鮮だったと言われて、へえ〜そうかと思いました。本当に夏はカラカラで、水が無いとすぐに乾いて熱中症になってしまいます。イスラエルという大地を通して、神は様々な事を教えているのです。

 

これから、秋の祭りまでの夏を通ります。作物が実り、一年の祭りの終わりは、秋の祭りの一連で終了します。

 

イエシュアも同様に、「仮庵」で表されているのです。

イエシュアは、人として、同じ体で地上に来られました。私達の元に神が来てくださった!これは永遠に同じ事実。私達の努力や手柄では、神の元に近づく事ができない事を最初から教えているのです。

ミシュカン=移動式神殿が、新しくされた人〜奴隷、出エジプトした人たちに、まず与えられました。

ミシュカン、神の神殿、レビ記に記された、人の生き方、神への近づき方、修復の仕方、その中身は宝の宝庫で、何が書かれているのか知ると、クリスチャンの世界で語られている事とは、全然違う事を神が人に教えている事が書かれています。

神の宮、神の臨在が住まう場所、仮庵を覆う動物の皮、一番外側は全て雨風をしのぐ皮です。私達の皮膚と同じ構造で3層です。

 

イエシュアの中に私達もこの地上で住まう、天の現実、神の中に住まうことを、ミシュカン=移動式神殿で教えているのです。

私達の体も朽ちます。移動式ミシュカンは、やがて約束の地に入ったら固定式神殿になるのです。そして最後再臨される時に、神の家は永遠に永続するものとなる。私達も朽ちる体から、朽ちない体を与えられる事と繋がっているのです。

 

今、地上で生きる間、直接主と顔と顔を合わせて会う事は出来ません。でも、花嫁となった人には、聖霊が与えられていて、今朽ちる体〜仮庵の中に、主が既に住まわれている事が与えられている。目に見えない天の保証が、神の臨在として実際に与えられている。

目に見えない主が内側に住まわれていて、同時に私達も神の中に今生きているという、この世に在って、この世のものではない

という不思議な存在になったのです。

 

 

Shabbat Shalom