シャヴオートの祭りが終わり、これから夏を通って、秋の祭りが来る時期に入りました。イスラエルでは、春から、秋の仮庵の祭り迄の間、一滴も雨が降らない時期になりました。
秋の祭りは、ヨムテルア(ショーファーを吹く日 第七の月の1日)大贖(第七の月の10日)そして、仮庵の祭り(第七の月の15日)の7日間があり、第八日目を祝い一年の全ての祭りが終わり、再び命のサイクルである神のアポイントメントの日を通過するサイクルが始まります。
春の祭りは、過越の祭りから始まる7日間の種無しパンの週、
そして、その真ん中に、「初穂」の祝い日があり、そして過越から7週間を経て、シャヴオート(ペンテコステ)の祭りで、春の祭りが終わりました。
全て、神の記念日は「7」が中心です。神が創造された、全ての定めの日、アポイントメントの日、聖日、祭りは、シャバットが中心なのです。
神は7というサイクルで何を教えているのでしょう。全て修復です。神の元に戻る、最初の元の状態に戻る、7年目のシュミタ年7年が7回繰り返されて50年目が、ヨベルの年、神の福音は
全て、神の時、暦、命のサイクルの中で教えられているのです。ここでもう一度、繰り返して考えてみます。
春の祭りでは、何が教えられていますか?
神の祭りは、全て福音を網羅するものであり、地上での重要な
出来事、イエシュアの業は、神の定めの日=祭り、記念日に実行されて、表されているものです。
贖い出されて、救われて、イエシュアを通して父の元に戻った
一人一人の人生の旅路の出来事とピッタリ重なるものです。
1) 過越は、子羊の血の贖いで、エジプトの奴隷脱出、「初穂」は、イエシュアご自身を表すもの、新しく芽生えた最初の穂、
イエシュアの復活の命に、一人一人が連なり、成長して行くことを教えているものです。神の祭りは全て収穫にまつわる祭りです。
エジプト〜奴隷状態を表す国ですが、実際の今のエジプトのことではありません。この「エジプト」も色々な意味があります。
聖書に出てくる地名、国は何かを表しています。10の災いは、偽の神々への裁き、そして、エジプトの一番大きな神は太陽神
ラーです。だから、太陽神を表すシンボルは、至る所で見ることができるでしょう。偽の神〜太陽神で表されています。
子羊の購いの血の代価で、私達は神の元に買いもどされた、それが過越の祭りの一連の出来事で表されていて、実際に、イスラエルは、430年の長きに渡り、滞在したエジプトを出た出来事で
表されているものです。子羊の血で贖い出され、神の元に連れてこられた!この代価は誰も支払えない、イエシュアの命だけがそれを可能にする事ができるものです。
だから、太古は神の教えを生きて義とされていたという、異邦人の聖書解説などは、あり得ない事であるという、理解がないとならないのです。
エデンの園の最初から、イエシュアの贖いの血、業は神から直接教えられ続けて来たのです。これは既に永遠の中に既に屠られている、子羊の血の代価なのです。福音、贖い、救いの業は、永遠から同じ、1つの方法しかないのです。
シャバットで表されているもの、第7日目で神が止まられたのは
完了!全て人が生きるに必要なものが揃ったからです。
付け足すもの何一つない状態で、完全版が完成したからです。
だから、神が後から人が転けるたびに、その場、その時代で、
救出作、代替え作を、次々と考えたのではないのです。永遠の中から同じ救い、購い、福音、祝福が用意されて、この物理的な
世界がスタートしたのです。
過越で、エジプトを出てから、7週間後、シナイ山に到着しました。2000年前の過越の祭りで、イエシュアが処刑され、初穂の祝い日に復活され、そして、シャヴォートまでの、この穂を数える7週の間に、復活のイエシュアが人々に現れ出ました。全部実際のイエシュアの業と、神の記念日、祭りとピッタリ出来事、
意味が重なっているのです。
シャヴオートの祭りは、イスラエルと少数の異邦人達がシナイ山に到着した時期と重なるのです。神の元に子羊の贖いの血で買い戻された人は、神のものとなって、これから、世界中の中で選び出された神の民〜聖なる国民、祭司の民となって、世界中へ同じ神の教え〜神の伝える生き方を、生きて伝える役割を与えられたのです。これは、異邦人も同じユダヤ人イエシュア=長子=初穂に連なった人はもれなく、同じ役割を与えられた、それが地の塩、世の光の意味です。
贖い出されて神の元に戻った人々は、神に娶られたと教えられました。出エジプト6:6-7
シャヴオートは、神の花嫁となり、神の前に正式に聖別された民となって、神から文字で記された婚姻契約を渡された事を記念する祭りなのです。実際にイスラエルという国、国民が初めて生まれた時が、あのシナイ山での出来事でもあります。その中には、肉的生まれが12部族ではない人達、異邦人も混じっている事実を忘れないでください。
神は最初から、異邦人も共に、同じイスラエルの家族に加えられる自然のオリーブの木〜イスラエルに、野生のオリーブの木が
接木されること、イスラエルの羊の囲いに、異邦人の羊が加えられる事でを教えているのです。
イスラエルは単に、イスラエルの神の大家族の代表者です。
イエシュアがユダヤ人長子であり、イスラエルは世界の大家族の長子に連なる長男としての役割を与えられたのです。福音はユダヤ人=イエシュアを筆頭に、ユダヤ人を通して世界へ伝えられたのです。
世界の異教の神々の国と、唯一分かたれた、聖別された国、国民、天の祭司となる国、人を選び出し、そしてイスラエルの神は他の異邦人たちも全て、同じ1つの家族に加えること、1つ神、
1つ家族に全ての人引き寄せる、取り戻すことが神の壮大な救いのプランだからです。
イスラエルは、神の一大家族の長男であり、そのその長男は得に重い責任を負わされているのです。だからイスラエルが神の教えた契約に記された生き方=神の似姿の人の生き方からズレたら、厳しい訓練が待ち受けていたことが記されています。
それは長男がこけたら、弟妹みなを全て転けさせる、ズレされる
それが今の世界の状態なのです。
イスラエルだけの教えなど、神は教えていません。イスラエルと異邦人は何も違いがない、同じ人間でしょう?!でもこの地上では、諸外国に住む場合、イスラエルの国家のように、神の教え、記念日を守ることなど知りませんから、その日は休日などになりません。
そういう違いがありますが、異教の地に捕囚で連れて行かれた
イスラエルも、神の教えを生きるように教えられていたのです。
シャヴオートは、婚姻契約を渡され、シナイ山の上で、70人の長老とイエシュアで婚姻の祝宴がされました。そして、私達は、
イシュアが地上に再び来られるまで、神の子ら全員が揃う、婚礼の祝宴が待っているのです。ユダヤ人の婚礼と同じく、婚姻は
婚約期間があり、その婚約期間は既に花嫁となったのと同じであるのです。これ、全てピッタリ、神の祭りと地上での一人一人の歩みが重なっています。イエシュアが地上を去って、今誰もイエシュアを直接見る事はできないけれど、今は待っている期間です。
それが、シャヴオートから秋の仮庵の期間と重なるのです。
秋の祭りの一連が、イエシュアの再臨の出来事を表しているものであり、神の子らは、再臨、そして神と共に住まう、子羊の婚姻の祝宴を通して、イエシュアが来られる事のリハーサルを毎年しているのです。
神に贖い出されて、救われた、この事実は、信仰により受け取るだけです。人は救いを自分の努力で獲得などできないから、イエシュアが代価を支払ったのです。でも、神に、イエシュア、子羊の血の代価で買い戻された人は、それ以降、神のものとされ、
神の聖なる民、天の祭司の国民としての生き方を、教えられて
生きる新しい生き方に招き入れられたのです。
この部分を、異邦人の世界では多大に誤解している点なのです。
イエシュアが律法を十字架に付けたので、律法は終わった〜と
教えられ、そう信じているでしょう。聖書にも書いてない事を信じているのです。その場合、聖書を勘違いして読み込みしている事に気がついていないのです。
福音書以降には、モーセの五書に反する事など1つも書いてないのです。あるわけがない!!!と言うことに、気がついてないのです。なぜなら、律法という言葉も聖書にはない、律法の裏にあるヘブライ語の本当の言葉の意味は、神の教え、インストラクション、トラーであり、イエシュアがトラーそのものであると書いてあることに、気がついてないから、そんなことが言える、いや神=言葉と聖書に書いてある意味を理解してないからです。
イエシュアが十字架に律法をつけて、終わらせたというファンタジーストーリーが真実なら、それも辻褄が合わない仮説なのです。
よく考えれば、分かります。イエシュアが安息日を終わらせたとか、食規定を終わらせたとか、言われていますが、イエシュアが
もしそんなことをしたら、それは神の前にどういう意味か分かりますか?そうです。イエシュアが罪を犯した!故に、イエシュアは罪人であり、人の罪を負って十字架にかかる資格などなくなってしまう、という意味になってしまうのです。
大体、ユダヤ人イエシュアが、ご自身である言葉=神の言葉=父の教え=トラー=モーセの五書に記された、神の口から直接伝えた人の生き方を破る!違反する!のだ、などと、考えている時点で、最初から神の教え=聖書からズレてしまっていると、気が付かないとならないのです。あり得ない!
こう書いてあります。イエシュアの言われた言葉は、神の言葉が
変化することなどあり得ないことを強調して、人に言われたのです。
ルカ16:17 しかし、トラー=モーセの五書=神の教え、インストラクションの一画が落ちるよりは、天地の滅びる方が、もっとたやすい。