命のサイクル 神の暦 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

6月11日日没から12日日没が、2024年のシャヴオート(ギリシャ語名=ペンテコステ)の祭りでした。

シャヴオートは、過越の祭りから7週後、50日目に来る、神の創造された、3つの都のぼりの「祭り」の1つで、春の最後の祭りです。

イスラエルの神が創造された都のぼりの祭りは、3つです。

1)過越、2)シャヴオート 3)仮庵の祭りです。

神の創造された記念日、アポイントメントの日、祭りは永遠に祝われる「わたしの記念日」と神が言われたものです。

 

神が一度でも、永遠に変わらないと言われたら、永遠に変わらないという、基本的な正しい聖書の読み方を曲げるなら、神が伝える真実、意図、意味は神の言葉の意味を曲げるその人には届かなくなってしまいます。

人が書いた書でも、読者が著者の書いている意味を曲げて、勝手な読み込み、読み替えをするならば、著者の伝える意図は、その読者には伝わらないのと同じです。

 

神の創造された全ての祭りの中心が、週一度のシャバットでありそれは今何曜日でも良いのだと異邦人の思想が伝えられていますが、神は何と言っているのか?を聖書だけを根拠に考えないとなりません。

神が指定した日、その日は週の第7日目であり、それが神が伝える神の安息日=止まる日なのです。

神が聖別されて、アポイント=指定している日と、人間が考えた日では性質が全く違います。

どういう違いかと言うと、記念日が神由来か人間由来かです。

神が神の子ら全員を呼び出している日は、神が人を呼び出している日であり、人間が決めて、人々を呼び出している日は、神が呼び出している日ではないからです。

 

そして聖別とは、神の意図、目的通りに、取り分けられているという意味が、聖別のヘブライ語で伝えられている意味です。

普通と、聖別された日〜普通ではない神のアポイントメントとは

区別される、境界線が敷かれているのです。

いつ集まろうと、何の目的で集まろうと、それはその人達の意図で、自由にやれば良いのです。でも、神が聖別された日ではないのに、神の記念日以外の日を、今日は神の聖日、主の日などと人に伝えてはならないことです。それは、神が言われたアポイントメントの日ならそうで、そうではなければ、神の言葉、教えに根拠が無い、人間が考えた人間由来の人間が聖別した日!なのです。至極シンプルな事実なのです。

はいは、はい、いいえは、いいえと言い、主の日ではないのに、勝手にイエシュアにつく人達は、主の日ではない日を主の日、神の教えではないものを、神の教えだと、他者に伝えることをしてはならないからです。神の子らは、神の伝える真実だけを世界へ伝えていかないと、ならないのです。

 

神の意図、目的通りであるには、神が指定した通りでなければならないのです。それはいつでも良いと、神は言っていない、今も言いませし、永遠に言わない。その逆を言われています。命に匹敵するほど重要!と神は人に伝えているのです。なんで?それは神が、意図する意味が見えないから、それが何?と人間が思うだけなのです。人間の側の問題なのです。

 

神は、神の伝えたアポイントメントの日に、それをガードする人に特別な方法で現れて下さると、約束しているのです。

それは、空に光が稲妻が、花火が見えるとか、五感で感覚で分かる現象ではないのですが、神は一人一人に神の言われる事を尊重し、それを生きる人達に、神が約束した特別な出会いを必ずして下さいます。

神の呼び出し、記念日、祭りの全カレンダーの完全版は、レビ記23章に記されているものです。それらは、終わった神の教えと

教えられてしまった異邦人は、2世紀以降、神の国の豊かで深い神から与えられた天の相続遺産、継承、財宝の教えから離れてしまったのです。

これは、神の教えやシャバット、記念日、祭りが終わったのではなく、異邦人の方が神の教えや祭りから離れてしまった!

「初めの愛=婚姻契約」に記された生き方や記念日から離れた!とヨハナンが、黙示録2:4で警告したことなのです。

 

そして、多くのユダヤ人もトラー、預言書に記されたイエシュア が、あの2000年前に来られたイエシュアと認識しないまま、同じくオリジナルのイエシュアから離れてしまったのですが、

今ユダヤ人も本当のイエシュアに出会い、そして多くの異邦人もオリジナル本物の神の言葉に戻る!という現象が世界中で起きているのです。

これは、終わりの時代に起きると、はっきりと預言されているから、その通りのことが、実際に今起きているのです。

 

祭りとは、חג ハグ(複数ハギム)で、祝宴、祭りという意味ですが、これは「円、サークル」神が伝える人間の命のサイクル、そして、喜び、踊る、はねるなどの意味もあります。

 

よくよく注意して、考えていくと、神が伝えている福音の中心、イエシュアの業、そして地上で実際にイエシュアがされた、又これからされる業は、全てこの神の創造された祭り、神の記念日=定めの日=アポイントメントに実行され、そして、福音書以降に書かれた、イエシュアがされた重要な出来事全て、この神のアポイントメントの日に行われていることに気が付くと思います。

 

1)過越の祭り エジプトでの鴨居に塗られた子羊の血で死を免れた、奴隷脱出した。イエシュアは地上で、過越の祭りで処刑され、神の子羊の血が流され、復活されました。

 

新しくされている事実〜復活の命、初穂の祝い日で表されています。実際にその日にイエシュアは復活されたのです。そして、罪が、そぎ落とされた人にされたことは、マッツア〜種無しパンを食べる7日間で、表されています。そして「初穂」を捧げる日、初穂はイエシュアを表し、その新しい命、大麦の最初の穂、初穂を捧げることで表されているのです。そして新しくされた命がこれから成長していく過程が、7週間の、オメルを数える日々で教えられているのです。

実際、イエシュアこの「オメルを数える7週間」の中で、復活された姿で人々に現れ出ました。全部神のアポイントメントの日と

マッチしています。

2)シャヴオートは、新しくされた人が、正式に花嫁となる婚姻儀式が行われて、そして神から正式に文字で記された「婚姻契約書」トラーを与えられたのです。それが、シャヴオートの祭りなのです。

この時、今度は、小麦の初穂を捧げるのです。この初穂で、2つのパンを作り、今度はパン種を入れてこのパンを作るのです。

過越の時は、種無しパン〜罪がそぎ落とされている事実を、教えられました。7日間の種無しパンを食べる週。

そして、シャヴオートでは、新しくされた人〜イエシュア性質=聖霊が内側に住む〜パン種を入れて2つのパンを捧げるのです。

1つはユダヤ人、1つは異邦人です。これが2つ一緒になって完全な神の家族を表しているからです。

 

イスラエルの神が創造された神の聖日、神の子ら全員を呼び出している記念日は、福音を網羅する、イエシュアが中心、イエシュアの業を教える、そして地上で実際に起きた出来事を通して、

祭りにしています。

 

神の創造された記念日、祭りは1年のサイクルで教えられ、それらすべての作物が育つ時期、収穫の祭りでもあるのです。

過越 子羊の血、贖い、イエシュアの血の代価で贖われて神のものとなった。初穂に連なり作物=新しくされた人が成長して行く。そして、シャヴオーとから、秋の祭りまで、一年の全ての収穫が集められるのです。

イエシュアの再臨の事実は、秋の祭りの一連で表されているのです。

私達の所に、神が来てくださったのです。それぞれ1人1人全ての人の所に、。エデンの園を飛び出して、神の内側の外側に飛び出て、本来居るべき場所ではない、

別の場所=神の外側に閉じ込められた人、一人一人の所に神が尋ね求めて来てくださいました。

 

イエシュアが失われた羊1匹を探し求めて、羊の所に来てくれたたとえ話、戸口の外に立って、イエシュアが戸を叩くたとえでも分かります。私達の方から、神の元に行ったのではない。

どうやって神の元に戻るのか、その方法が人には無いからです。

神が来てくださった!その通りに、イエシュアは地上に天から

来られたのです。

過越から、シャヴオートで、神のものとされた、花嫁とされたことが教えられています。

神の花嫁となった人は、エジプトから出て、今度は神が伝える神の家の中での生き方を、1から教えられるのです。何を生きるのか、創造主であるお方に教えられない限り人は、どのように生きるように造られているのか知る術がない。だから神は人に、神の永遠の婚姻契約書の中に、人が生きる全て必要なことを記して

与えてくださったのです。神は人に律法を与えたのではない、

命そのものを与え、その命はどう生きるのかを教えた文字でしるされたものを与えたのです。それがシャヴオートの祭りで起きたことなのです。これは、まず10の言葉というトラーに記される題目が書かれたものです。

これが、シャヴオートから、秋の仮庵の祭り、地上での実際の私達、神の子ら一人一人の人生の歩みを表し、教えているものなのです。

古代のユダヤ人の婚姻を知ると、聖書に書かれている意味が見えて来ます。それらが、神の祭りの意味とぴったり重なることも理解できます。神は人が分かることを通して、神の教えを人に教えているのです。

花嫁を娶るには、先ずその前の婚約があります。でも婚約した

イコール正式にその夫と婚姻関係にあるのと同じ状態に入った事でもあります。これは今の私達、イエシュアに直接会う日までの

状態と全く同じなのです。

日本人なら分かりますが、結納というものがありますね。

それがユダヤ人の世界にもあるのです。

先ず、購いの代価、モハというものを、夫が妻になる人の家に払います。

それは、新郎が新婦の父、生まれた家から自由になる、新婦を

代価を払い、自分のものとする事をするのです。

それをモハと言うのです。これをイエシュアがされたのです。

モハは、子羊の血で表されています。神が子羊の血の代価で私達を買い取り、自分もののとしたと、書いてあります。

それとピッタリ重なります。

そして、次に払うものが、マタンというものです。

これが、マタンとは、与える、ギフト、贈り物、という意味です。マタイは、「神の贈り物」という意味の、マタイア、この最初のマタとは、ナタン「与える」という言葉からきているものです。

過越で、神に代価(モハ)で買い取られた人は、シャヴオートで正式に花嫁としての、「婚姻契約」トラーを与えられたのです。

この婚姻契約を与えられた、神のものとなった印が「シャバット」であると神が人に教えているのです。子羊の血で贖われた人は聖霊が与えられ、そして神の性質〜トラーを生きれると教えているのです。申命記30:14

それが、婚姻契約書、マタンです。だから、神から与えられた婚姻契約は神からの永遠の変わらない誓約であり、私達が神のものとなった根拠、証拠であるものなのです。

シャヴオートの婚姻儀式は、シナイ山の山頂で、70人の長老が

イエシュアと直接、天の御座で飲んで食べて、婚姻の祝宴をあげたのです。

契約が結ばれる時には、必ず親しい関係に入った祝宴を行うのです。

花婿と花嫁二人は、互いに忠実である事を誓い合い、ここから新しい人生に入るのです。

1)代価を払われれめとられた人は、(過越)

2)神から婚姻契約を与えられたのです。(シャヴオート)

そして、カラ「花嫁」は、ハタン「新婦」となり、契約は確実なものとなるのです。

その次に、新婦は父の家に帰り、花嫁を迎える準備をするのです。そして、結婚するまで、しばらく会う事もなく、その時を過ごすのです。

ヨハネ14:2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。

あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。

14:3 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。

イエシュアが迎えにくる、再臨の時のことです。だから、今昇天された後、私達は直接イエシュアと顔と顔を合わせている状態ではない、見えないベールで覆われていますが、再び戻られる時、今度は、顔と顔を合わせて永遠にイエシュアと共に生きる時代が来る、それが「仮庵の祭り」で表されています。

今、私達の体は仮庵です。朽ちる、壊れる、病気にもなる体ですが、約束の聖霊が既に内側に住っているのです。目に見えない主を、目に見えない内側に住まう聖霊の事実を与えられ、やがて顔と顔を合わせて生きる時まで、常に一緒にいる保証を与えられているのです。

 

続く