過越の祭りからシャヴオート 福音が語られている それぞれの自分史とピッタリ同じ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

エジプトで奴隷状態。奴隷と言っても、職業があり、家があり、

美味しい食べ物もたくさんあり、まやかし、代替えではあるけれど楽しみ、報酬があったのです。

10の災いは、偽の神々への裁き、人を縛っている偽物の神々

教えを神が断ち切ったのです。

裁きとは、本来の姿、義への解放をもたらす、偽物の束縛からの解放をもたらすものです。

これが、イエシュアに出会う前の姿、これは全員もれなく同じです。

だから、モーセの五書に記された事は、一人一人の自分史が並行して重なり記されているのです。

 

そして、過越で子羊の血の贖いで、死が過越して、私達は新しい命を与えらたのです。これは、イエシュアを信じた人もれなく

過越の祭りで表されているイエシュアの業、これは永遠の中に既に屠られて完了している、神が与えた贖いの代価で与えられる

同じ命なのです。

そして、神の声、言葉を信じて、子羊を屠りその血を戸口に塗った、これは神の言う事を信じて、実際に行動した事を表しているのです。

私達はこの様に実際に子羊を屠る事はしませんでしたが、イエシュアがされた完了の業、地上でも証明してくださったその事実を受け取ったのです。子羊の血の贖いで皆覆われて、死が過ぎ越して、新しい命を与えら得た。その中身はどの時代の人に対しても同じ代価同じ救い=イエシュアなのです。

イエシュアが処刑されたのも、あの出エジプトと同じ過越の時、過越の祭りです。神の記念日、祭りは福音、イエシュアの業を

表す、預言的祭りでもあるのです。

そして、復活されたのは、過越から7日間の種無しパン〜新しくされた人を表し教える真ん中の日、「初穂」を捧げて祝う日

復活されたのです。これは「大麦」の初穂を捧げる日です。

この日はイースターという名前が付いた記念日ではない、最初から神は復活=初子イエシュアに繋がる新しい命〜初穂の命を教えて、記念日を創造されているのです。

そして、イエシュアが復活して、シャヴオートまでの間を、穂を数える週、「オメルを数える」という7週があるのです。

この7週間の間に、復活のイエシュアが現れ出ました。

「オメル」この言葉は、天から降った1日の一人分に対するマナの単位を表す言葉として使われています。初穂に連なる人が新しい命=天から降ったパンであるイエシュアの命に成長する事を数える日々が、過越から今日シャヴオーとまでの7週間なのです。

 

私達は、自分史の過越で、イエシュアに贖われ、そして、救い出され、導かれ、神の者となった、全く同じです。

新しくされた=罪が削がれた=マッツアになった!パウロもトラーに記された同じ教えを言いました。あなたがたは既にマッツア=種無しパン=罪、いらないものが削ぎ落とされた人とされている実態を頂いているのだから、新しい人=マッツアとして過越の祭りを祝おう!と教えているのです。

ちゃんと書いてある意味を知れば、全部聖書が1つであり、繋がって同じ事を教えている事に気が付く事ができるのです。

 

神の言葉の性質に反する事をする、途中で前の部分を削除、否定

無効とし、聖書=神の永遠普遍の言葉、教えを、別物にして、2つに分断するから、神の言葉の永遠普遍性、一貫性の真実が見えなくなってしまっているのです。

 

贖い出された人は、生まれたて、新しく生まれた人は、神の教えなど知りません。出エジプトしたイスラエルも、神のトラーを

どれほどの人が知っていたのか、口頭で同じ教えを教えられて

いたのですが、エジプトに住む間には、異教の神々の文化に同化、混ざって行ったのは確実なのです。それがエジプトの慣わし、金の子牛を作り、イスラエルの神の祭りを祝ったと記されている事でも分かるのです。

これは信じた人もれなく、以前に見聞きした、人が作った宗教の教えや文化の習慣、習わしに混ざる、取り入れる、戻る同じ危険を教えているのです。

 

出エジプトして7週間は、イエシュアが復活されて弟子達に現れた時であり、私達贖われて救われた人も、神の婚姻契約を受け取る準備をさせられる7週でもあるのです。

 

そして、生まれ変わって聖霊を受けた人は、今度は神の花嫁となった自覚を持って、神が伝える生き方を生きる婚姻生活に招きいれられたのです。エジプトから救い出されて、それで終わりではないのです。この部分が、異邦人の世界では、聖書とは異なる教えをしています。

「それぞれが聖霊に導かれて、古い教え=神が与えた教え=婚姻契約は終了したので、それらを生きる必要がない!」この教えはイスラエルの神が言ったのではなく、ローマ帝国周辺に住んでいた異教徒上りの異邦人教師達が言い出した教えである事を

まず知って下さい。何度も書いていますが、その様な事が起きたのは、ローマ帝国が、ヘブライ的要素のある教え全て生きる事

祝う事を、処刑をもって禁じたからです。

そして、ダービーの思想の元でもある、マルキオンが、神の永遠完全なる書を分断し、旧約聖書、新約聖書などといい、古い箇所は全部終わり!ルカといくつかのパウロの書簡で事足りる、神の教えはもう生きる必要はない!と言ったのです。これは、イスラエルの神の教えとは、真逆の冒涜的な教えですが、これが異邦人に多大に受け入れられ、ローマ化された教えの宗教が編み出されたというのが、歴史の事実なのです。

 

イスラエルと異邦人はシナイ山の麓で、神の教えを受けて聞いた時、こう言ったのです。

 

出エジプト19:4 『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。

19:5 それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。

19:6 あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」。

19:7 それでモーセは行って民の長老たちを呼び、主が命じられたこれらの言葉を、すべてその前に述べたので、

19:8 民はみな共に答えて言った、「われわれは主が言われたことを、みな行います」。モーセは民の言葉を主に告げた。

 

贖い出された人、新しくされた人に、婚姻契約が与えられた、

シャヴオートは、婚姻の契りでもあり、祝宴、宴会の祭りでもあるのです。

もしも〜と書いてあるでしょう。それは、あなたがもしもそう願い、神の言う事を聞いて生きるならば、という条件付きであるのです。

神の家の中で好き勝手振る舞うと教える教え、又は神が伝える教えではなく、人間が作った教えに変えて生きるなど、神は教えていません。それはモーセの五書を読めば分かります。

天にある神の家、そっくりそのまま地上に反映させるからと神は

教えているからです。だから天の祭司はそれぞれが考える聖別を

勝手に生きても、それはイスラエルの神の実態をそっくりそのまま地上で映し出す鏡にはならないで、曇った鏡になるからです。

又はイスラエルの神の実態とは異なる混ぜ物の別物を映し出す。

 

もしも、あなたが神に近づきたいと願うならと神が言っている声を聞けば良いのです。神の教えを、あたかも自分を縛るものと

考えている異邦人肉の思想自体が、スタート時点で全くズレている、意識が神の内側の外側に飛び出ていると気づいて下さい。

 

愛する人に何か伝えられて、それは人を苦しめるために与えられている、縛られている、呪いの教えだなどと言っている、その思想が、本当に神の伝える意図とはズレていて、おかしいと気がつきませんか?

 

神は私達を創造されたお方で、神だけが私達がどう生きる様に造られているか教えられる唯一の存在なのです。人間の肉の思いを生きるから、破壊されて行ってしまうのです。

神の伝える教えは全て、私達の性質を伝えている、私達が自分の

造られた性質と違う生き方をすれば、破壊されるから、安全に守られ生きるために、神の教え=婚姻契約が与えられているのに

親の心子知らずをずっと語り続けて、律法は破棄された〜などと

エデンの園のあの蛇の声を伝達し続けていても、気がついていないのです。

シャヴオートは、収穫の祭りで、過越では大麦、シャヴオートでは小麦の初穂を捧げ、種ありパンを入れて捧げます。

りっぱに成熟した大麦も捧げられ、その他の作物、フルーツなどもかごいっぱいに入れます。そして花などもテーブルに飾られます。

これは神殿がないから実際には捧げられませんが、祭りは全て収穫の祭りです。

新しくされた人=初穂が成長し実り、シャヴオートで婚姻儀式が

あったのです。シナイ山の上で70人の長老と神=イエシュアと

契りを結んだ婚姻祝宴があったのです。

 

だから、シャブオートには、ルツ記を読むのが慣例です。

そして、婚姻契約を与えられた時、シナイ山の麓で眠ったままぼ〜としてたということから、一晩中起きて、神のトラーを語り、学んだりします。

イスラエルは休日ですから、それが出来ますね。

 

そして、新しく生まれた人、花嫁になった人は、神のみことばの乳をしたい求める、乳と蜜にちなんで、乳製品のデザートや食品を食べます。それは、神の言葉は舌には蜜のように甘いという事で、デザートもたくさん出されます。

神の言葉を呪いの律法廃れた〜という異邦人の声は、ユダヤ人には、別の神のことを話してると勘違いされても当然なのです。

神の言葉を意図通りに受け取らず、神の言葉に対して敵対心を持つ教えを教えられてしまい、神の言葉に対して、ズレた意識、人間の思想が植え付けられている、本当に残念な教育をされてしまっているのです。

 

イスラエルでは火曜日の日没から水曜日の日没はシャバットとして休日ですが、諸外国は休みではありません。

でもその中で、この日を祝う時間を持つ事は出来るのです。

 

חג שבועות שמח

ハグ シャヴオート サミア!

 

Happy Shavout!

 

 

 

 

 

 

祭りには、白い服をイスラエルでは、着ます。祭司が白い服を着ていますが、それは既に新しくされた人として受け取られている事を表すものだからです。