シャヴオート | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

シャブオートの一番大きなテーマ、教えはなんと言っても、神から直接婚姻契約書=ブリット=トラーを与えられた事です。

贖われた人全てに対して与えられた、イスラエルの神の同じ婚姻契約。イスラエルの神の一大家族は、神の家で、同じ教えを生きて、同じ記念日を祝う!

 

神との関係にある印は、この「ブリット=婚姻契約書=トラー」無しではあり得ない、成り立たないものなのです。

神が伝えている生き方を拒否する事は、神の教えに反対するという事、それを行動を通して表明することなのです。

 

でもそのような事はしているとは、微塵にも気が付いていないからできるのです。神の言葉を本当に理解して、分かったら意図的にはしない、いや出来ないです。

信条、意識を変えるか、行動を変えるか、どちらかをしないと、そうしないと、「認知的不協和」になり、耐えられなくなるからです。

妻になった人は、夫の言う事を聞き生きると神が教えているのに古い律法の教え?それが嫌!と思うのは、神の言葉を自分基準に考えて、仕分けているからです。

大体、婚姻契約書を、呪いの縛りの律法だ〜などと言う思考回路が完全にエデン=神の内側の外側に飛び出して、別の場所の中に閉じ込められた状態の思考回路をしているのです。

自分に都合が悪い事、受け入れたくない事〜全て終わり!知りたくも、聞きたくもありません!いやそれ以前に一体、異邦人は

イスラエルの様に、満遍なくトラーを書いてある通りに学んだり教えられている人、幼い頃からイエシュアや弟子や1世紀の人たち、又現在のユダヤ人のように生きて、神の記念日や祭りを祝う事を家族で、親族でしてきたなんて人は普通はいないと思います。

食べず嫌いという言葉があるように、分からないから、そのようなことを言っているだけなのです。

翻訳聖書を読んで、自分の解釈で読んでいるだけだと思います。私もそうでした。

そしてそれで良いのだと、教えられているからです。

そして、神の教えは廃れた〜と教えられて、それが神の言葉、

教えではなく、人の教えだとも気がつかないままだからです。

 

エジプトから出て、神のものとされた人は娶られ、神のものとなったという事が書かれています。

神の者となった、花嫁にされた人は、その後何を生きるのか?

神はこの婚姻契約に記された神の家に生きる人の生き方の全てをモーセの五書を通して教えているのです。

アヴラハムを通して与えられたのは、「無条件契約」です。

これは、神の子とされた事実を信仰で受け取るだけなのです。

これを「信仰義認」と呼んでいるでしょう。

でも生まれた後には、神の子としての成長があるのです。

生まれたままの野生児で、生きるのではないからです。

 

このアヴラハムの契約と、モーセの契約を混同していませんか?

モーセの契約の中には、全ての契約が網羅されています。そして

シナイ山、シャヴオートで与えられた「婚姻契約は条件付き」

なのです。

神のものとされた人は、人が考える事を基準に好き放題生きて良い!などと神は教えていません。神は、神の者となった人達は、神の教え=トラーに基づき生きよ!と教えているのに、この重大な神の教え、言葉の部分を異邦人は破壊した教えに変えてしまったのに、まるで気がついていません。

神の言葉を破壊したとは、律法は廃れた〜という教えです!信じたらユダヤ的な事やめなさい!というローマ帝国の教えです。

異邦人は道徳的な事だけ生きれば今は良いと言いますが、それは神の声ではなく、人間の声です。道徳的な事なら、普通の日本人でも割とそのように生きているものです。神の言葉は全部丸ごとで、シャローム=欠けのない完全な状態です。

 

神のものとされた人は、神の伝える通りを生きる!実は肉の人はこれが嫌なのだと気がつかないままなのです。自由って聞こえがいいでしょう?今は自由の時代。律法は終了し、聖霊に導かれるままに生きる。聖霊=神の言葉に反しないと言う事に気がついていますか?聖霊は、聖霊ご自身である神の言葉をどの箇所も否定などしません!

神の言葉を否定するのは、悪霊です。聖霊か悪霊かどちらかなのです。中間のグレーゾーンの「ちょっと良い霊」なんていうものはありません。

聖霊=神の言葉=イエシュアと書かれているのに、その事実、

意味を理解していないから、神の言葉は廃れた〜などと言える。

神の言葉は廃れた、イエシュアは廃れた〜イエシュアの教えは廃れた〜と言っているのです。気がつかないまま。イエシュアの教えはモーセの五書であり、父の言葉=トラー、モーセの五書以外の教えなど人に教えてなどいないからです。

 

今は地上のレビ族の祭司、神殿はないとか、捧げ物はありませんとか考えますよね。そうです。今の時代は2000年前から神殿はありませんが、そこでレビ族の祭司たちに向けた教えも、意味が分かれば、それはイエシュアを代行している人々に与えられた教えなので、適用すべき真理が同じ様に語られているのです。

 

そして、未来はイエシュアが地上での大祭司であり、エルサレムの神殿で盛大にシャバットや祭りが行われ、動物のコルバンも祭壇で捧げられ、全世界からエルサレムに人が、祭りのために上って来る、イスラエルに敵対した国も上ってくると預言されています。

カトリックは、聖書の事実を寓話化し、イエシュアがエルサレムに戻るのかどうかは不確かであると教えます。詰まり、イエシュアはローマに再臨されると言いたいのでしょう。

ローマのイエシュアなんて、聖書には書いてありません。

それが人が作った、人由来の宗教の教えというものなのです。

聖書に書いてあるのは、ユダヤ人イエシュアであり、イスラエルの神です。

完全に聖書とは異なる異端的な教えです。

神の宮、天の祭司とクリスチャンも言いますが、天の祭司、神の宮の定義は何ですか?モーセの五書に、神の宮の定義、詳細は記されているのです。

神の言葉を分断、分解し、破壊、削除する教えは、イスラエルの神から出たものではなく、神の言葉=聖書を正しく理解しない、人の思想で神の言葉を考えている、人が発信している教えなのです。太古からズレた教えの出どころは、いつも同じ出どころです。神ではなく、人が根拠。

 

別の福音、別の教えとは、神の言葉とは異なる人の思想に乗っ取られた教えのことをパウロも話している、モーセの五書にも預言書にも同じ警告が書かれているのです。

しかも、神の言葉を生きるなんて、ポピュラーな教えではないことを理解出来るでしょう。エレミヤなど、神の言葉〜トラーに戻る生き方をして!と、人々に伝えたら、人に疎んじられ、投獄され処刑されました。

神の言葉を捨てるから、皆それぞれが勝手な思想を唱え始め、

多くの宗派に分裂し、それぞれが考えるところの勝手な思想を唱え生きて、分裂思想を言い出して、聖書の記述から離れた教えをしてしまっているのです。

クリスチャンの教師や牧師も、今やLGBTQが、なぜ神の前に罪なのかも、聖書を捨てるから、聖書の罪の定義、根拠がはっきり分からなくなり、そのような生き方を支持する人々もいます。

悪を善、善を悪という、恐ろしい教えなのです。

実際にLGBTQの牧師もいる。世も末、ソドムとゴモラ、ノアの時代の人と同じになり、偽物の教えと混ざり、境界線がない、

聖書に基づき正しい教えを、しなくなってしまっているのです。

 

ユダヤ人は代表者として与えられた神の契約に対して、異邦人のような敵対心どころか、愛と喜びで実際にトラーを抱きしめて

蜜の様に甘い神が与えた自分達への愛の証!契約、教え!とものすごく感情を込めて感謝を表したりするのです。この違いは何でしょう?

1世紀の時代、イエシュア信者はユダヤ人が殆どで、その数はものすごく多かったのです。

今もこの数年の間、イエシュアに出会うイスラエルに住むユダヤ人が、1世紀以上に、多く出てきているそうです。その人達は

イスラエル人が、直接ヘブライ聖書から語る、ユダヤ人イエシュアを教えられ、異邦人が語るような7変化の歪んだ神像などではない、正しいイスラエルの神、イエシュアを伝えられているから、トラーに記されている約束のメシアがイエシュアである事に気がつけるのです。これは大きな事なのです。

 

異邦人は神の言葉に対して「律法」と聖書に書いてない言葉で訳し、そして、神の言葉に対して「人を縛る律法」「人の生きる事が出来ない事を証明する律法」「廃れた教え、一時的な教え」と散々に聖書とは全く異なる人間の思いついた思想、ひどい表現で、神の言葉に対して言い続けて教えていますが、神ご自身は、神のトラー=教えを人に何と言って人に教えているのでしょうか?

申命記はイスラエルが約束の地に入る前に、再更新している同じ

教え、契約内容であり、申命記は古代中近東に実際に存在した

契約の形で記されているものなのです。

そして、神のトラー=モーセの五書に記されている言葉からも、

神の契約が人との関係にある婚姻契約である事が分かるのです。

 

申命記 30:11 わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、むずかしいものではなく、また遠いものでもない。

30:12 これは天にあるのではないから、『だれがわれわれのために天に上り、それをわれわれのところへ持ってきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。

30:13 またこれは海のかなたにあるのではないから、『だれがわれわれのために海を渡って行き、それをわれわれのところへ携えてきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。

30:14 この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる。

神が人に伝えているのは、人は神の言葉で造られている、神の性質に造られている、それらが人の性質そのものだから、あなたの腹の中=DNAに刻まれている!から、それを行う事ができると書いてあるのです。近く〜とは、腹の中これ以上に近いものはないですよね。赤ちゃんがお母さんの腹の中にいる、これ以上のちかさはない。心とは頭脳=レヴです。私達の頭脳、脳に刻まれている!DNAに刻まれている、それが人間の性質だからと書いてあるるのです。なぜ?私たちは神の性質に造られている、神の言葉が私たちの性質そのものだからと書いてあるのです。

 

異邦人が 解説する「呪いで厳しく生きられない律法」などと言っているのは、聖書〜神の言葉を書いてある意味通りに、正しく学んだ事がない事が原因だと思います。

 

書いてある内容を読めば、神がどんなに憐れみ深く、雛鳥に至るまで、ご自分の創造されたその命1つ1つ、一人一人を考えて人に教えているのか分かるはずです。

個人だけではなく、コミュニテイ全体の安全な生き方を、神は教えているのに、全く親心子知らずで、神に対して、人間が好き放題言い続けているのです。ひどいものです。

神の言葉を捨てた結果が今の世界であると、気がついて下さい。

 

知らない時は、私もそう信じて、神に敵対する偽のスローガンを言い、それで正義を語り、律法から解放してくださり感謝します〜などとトンチンカンな事を言っていました。

知らない、無知とは本当に危ないものなのです。

それを、怒りの神=呪いの律法〜怒りの時代などと、人の思想で

括って教えている、考えれば考えるほど、聖書の真実がはっきり見えるほど、人の語る思想は、神に敵対してとんでもない事を語り、曲がったイスラエルの神像、ローマ化した、イエシュアを語っている事を聖書から知る事が出来ます。

モーセの五書に記されている教えは、全て完全なる神の言葉であり、聖書はどの箇所もこのモーセの五書を指して解説している!という永遠の事実をまず理解し、把握して下さい。

神の言葉を分断、分裂、人をユダヤ人、異邦人と分裂させる思想は、全てイスラエルの神から出たものではありません。

なぜなら、福音は1つに修復させる神の業を伝えているイエシュアのされた業だからです。

 

福音書〜黙示録に書かれている内容は、モーセの五書を否定する

新しい教えなど1つも書かれていない!という事実をクリスチャンの世界では教えられていません。ローマ化した人の思想を教えて、聖書を正しく教えていないからです。

 

どの箇所も、神ご自身であり、永遠普遍に変わらない神の言葉!と言った神ご自身、イエシュア=言葉であるのに、どうして神が

ご自分の言葉を終わらせたり、訂正、終了するのですか?そんな事聖書には1つも書いてないのに、その事実が異邦人に通じない

どうして?聖書を正しく学ばず、神学校で人の思想=神学ばかりを教えられ、人の思想を通した聖書解説を学んでしまったからです。そして、そのズレた聖書解説〜歪んだイエシュア像を人に伝え続けているからです。

シャブオートは、神からトラー=婚姻契約を受け取った記念の祭りなのです。花嫁とされた人、奴隷状態だった人は1から神の教え、言葉を教えられる、それが荒野の40年、私達の地上の人生と同じです。

過越の祭りからシャヴオートは繋がっているのです。

贖い、導きだされ、救い出されて主のもの=花嫁とされた、その人が婚姻契約を受け取ったからです。

 

それを拒絶する花嫁てどう?て事です。

あなたの言う通りには生きたくありません!それが愛?愛とは

神の提示した生き方を生きる事で実現すると教えられているのに。神の与えた契約の愛以外の愛なんて、ないのです。

 

そして、それを拒絶して生きない事も、その人の選択、条件付きなのです。その場合には、どうなるでしょう?人が神の教えではなく、人の教え=宗教を生きたら、人の教えの奴隷に戻ります。そして神と、知らない間に隔たりが出来ます。神が忌み嫌う事を知らない間にしていても、まるで気がつかなくなってしまいます。それが、イスラエルの歴史で、はっきりと人に教えられているのです。混ぜ物の生き方、異教の神々の要素を混ぜた姦淫の罪と書かれているのです。

そんな事したくはない、異物から守られるには、神の教えを知る事が大事です。それは人の体を心を精神を魂を霊を守る、神の意図通りに生きる手がかり=それが神の言葉なのに、それを捨てよ!と教えられる悲劇があるのです。