シャヴオートは、クリスチャンの世界では、初めて聖霊が人の内側に与えられた祭りだと教えられ、「聖霊降臨祭り」などと、
聖書とは違う名前を付けて呼ばれていますが、聖霊はエデンの園の最初から、信じる人の内側に住まわれているのです。人は内側に聖霊がなければ、イスラエルの神=イエシュアを認識できないのです。聖書を読めば、皆神と語り、祈り、関わりを持っている事が書いてあるのです。
シャヴオートの祭りのテーマはいくつかあり、いくつかの名前でこの祭りは呼ばれています。
そして使徒2章で、別種類のパワーアップした聖霊が降りてきたなどと、イスラエルの神の性質を誤解しているのですが、そんなガソリンのハイオクとレギュラーのように、種類別の神の性質などありません。
神は歴史の中で、不思議な業や現象を表して、神は様々な事を人に教えられる、証明される事をされますが、それは神の自由なのであり、神の性質が変化したり、人に対する神の関わりは、変化などしていないのです。
使徒2章ではこれから世界の四隅に向けて神の同じ婚姻契約〜
トラーが伝えられる、そして弟子達の中には、聖書の最後の後書きを書き記すような、霊感を与えられて初めて可能な、一大任務が待っている、そして、ローマによる投獄や処刑など、その時点では詳細を、もちろん知るよしなし、理解していない耐え難い患難が待ち受けている、それらを通るには特別な聖霊の助け、力づけがなければ行えないミッションを負わされたのです。
使徒2章の祭りは、レビ記23章に記された、神の三大都上りの祭りの1つであり、春の最後の締めくくりの祭りです。
それらはハグと呼ばれる祭りなのです。ハギム(ハグの複数)の1つだけを取り出して祝うように、神はそれらの祭りを創造していないのです。神の創造された記念日は全て祝って、福音の全てを網羅する、イエシュアの業を伝える美しいハーモニーが現れ出る完全なもので、神は神の記念日の全てを、神と共に神の子らで代々永遠に祝う!と教えているのです。1つの曲の途中一部だけ演奏しても、全体の曲は分からないのと同じです。ある部分数小節だけ知っていても曲全体の1つとしての繋がり、テーマ、意味が見えない。
人の作り出した記念日を祝うのは自由であり、イスラエルにも国の文化の記念日があります。でも神が創造された、神の子ら全員を呼び出し祝う祭りは、代々永遠に祝われると神が言われ、それらを捨てて、本物を退けて別物にすり替える、又は神が創造された記念日は終了などと言う嘘、偽り、不真実を語る事はやめないとなりません。神が創造して祝うように命じるものを退けて、別物を祝う意味、意図は何?と考えたらよいのです。
クリスチャンは、使徒2章のシャヴオートの出来事だけを語りますが、3000年前以上のシナイ山のシャヴオートなど、もっと
すごい事が起きていた事に、気が付かないままだと思います。
出エジプトでモーセが神が直接刻んだ神の言葉〜契約の石の板を受け取ったあの一連の出来事が「シャヴオート」であるとも気がついていないと思います。私なども聖書に書いてあるのにそれが何だか知らない、考えない、ペンテコステが使徒2章、しかも
あれが神の創造された祭りの出来事であるとも気がつけないし、だいたい過越の祭りでイエシュア が、処刑されたという事も全然考えた事もありませんでした。それどころか、神の定めの日
記念日聖別された祭りは、全て福音、イエシュアの業を網羅している、福音の意味を実際に生きて祝い、学び続ける為に、神が
デザインし、プラスそれらは地上で実際に歴史の中で起きた事、
これから起きる預言的祭り、信じるもの一人一人の人生の歩みを表しているなどと言う事が、まるで見えませんでした。
出エジプト19章以降に記された内容、山の麓にいた人々は皆神の声を聞いて恐れ慄いたのです。そして24章で天が直接シナイ山に降りてきて、しかもイエシュアも現れて、行われた、あれは契りを結んだ暁の祝宴、婚姻の祝宴でした。70人の長老はシナイ山の上、天の御座に座り、イエシュアと共に直接会って食べて飲んで婚姻の祝宴をあげたのです。比べれば使徒2章以上にすごい事が起きたのです。
このシャヴオートの祭りは、シナイ山で婚姻契約書を渡した記念日です。
シャブオートのテーマは何でしょうか?
1)「時」出エジプト34:22 申命記16:10
ハグ(祭り) ハ(the) シャヴオート(週=複数)
レビ記23章 7週を数える 過越から7週を数えよとあります。
2)収穫 出エジプト34:22 申命記16:10出エジプト
ハグ ハ アシフ(収穫)
3)初穂 出23:16 民数記28:26
ハグ ハ カチア(捧げる) ビクリム(初穂)
4)トラー 婚姻契約が神の国民に与えられた。イスラエルがその代表です。
5 )霊 これが、クリスチャンの間で唯一知られるこの祭りのテーマです。
ギリシャ語でレビ記 23:16 使徒2章の祭りをこのように書いています。
ペンテコンタ(50) ヘメロス(日=複数)で50日です。
ヘブライ語の週〜複数(7週間)を経て49日の次の日が50日目だから、ヘブライ語のシャヴオート(週)を、ギリシャ語ではペンテコンタ ヘメロスと訳し、それを「ペンテコステ」とクリスチャンの世界では呼んでいる「シャヴオート」の祭りなのです。
それぞれの名前でその意味が反映されていますので、混乱してしまうかもしれませんが、それぞれの名前が表す意味をこの中で
祝われているテーマです。
ペサフや仮庵と違い、シャヴオートははっきりした日付が書かれていません。というか、このように書いてあります。
レビ記23:15 また安息日の翌日、すなわち、揺祭の束(初穂、復活の命を表す日)をささげた日から満七週を数えなければならない。
23:16 すなわち、第七の安息日の翌日までに、五十日を数えて新穀の素祭を主にささげなければならない。
23:17 またあなたがたのすまいから、十分の二エパの麦粉に種を入れて焼いたパン二個を携えてきて揺祭としなければならない。これは初穂として主にささげるものである。
ここに「揺祭の束」とあるのは、過越=種無しパンを食べる7日の祭りの真ん中に来る「初穂」をゆり動かす、詰まり復活〜新しい命=イエシュアに連なる事実を教える記念日です。
何を言っているのか、聞いた事もやった事もない祭りに関する事などで、ゆっくり考えてみてください。
シャヴオート(ペンテコステ)の祭りは、どの日から数えて7週か?という事が第二神殿以降色々意見が分かれているものですが出エジプトして、丁度7週目に当たる頃、イスラエルと少数の異邦人がシナイ山に到着した時が、シャブオートの祭りになるのです。
安息日の次の日とは、週一度の安息日のことか、それとも過越の祭りの始まる日の安息日なのか、それとも「初穂を数える日」からなのか、など色々な見解があります。
いずれにせよ、シャヴオートの祭りは、その日から数えて7週目の次の日に来るのです。そして、過越の7間の祝いが終わった
最初の週の事が使徒20章に書かれています。
この箇所を取り出して、クリスチャンの世界では、週の最初〜日曜日に、聖餐式をしているなどと解説していますが、そんな事など聖書には、書いてありません。
使徒20:6 わたしたちは、除酵祭が終ったのちに、ピリピから出帆し、五日かかってトロアスに到着して、彼らと落ち合い、そこに七日間滞在した。
20:7 週の初め(日)に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。
除酵祭とは、過越の祭りの初日この日から7日間種無しパン=除酵されたパンを食べる週なので、除酵祭と書いてあるのです。
クリスチャンは過越、種無しパンを祝いません。いや2世紀以降
祝わない様に異邦人教師から禁じられて、そう教えられてやめたのです。
この記録だけでも、パウロが、レビ記23章に記された神の聖別された記念日、シャバットから始まる全ての記念日を祝った証拠なのです。全ての祭りはシャバットが中心であり、シャバットで始まりシャバットで閉じるからです。詰まり、過越=除酵祭を祝う、イコール神の記念日を全部祝っているという意味なのです。
シャバットを、第七日目に祝っている、祭りを祝うイコール、
シャバットを祝っている証拠なのです。
異邦人のように神の記念日を変えたり、ペンテコステの1つだけ祝うような事を、神は教えてはいないからです。
そのパウロが、どうして第7日の安息日そを日曜に変えて、この使徒20章の箇所で日曜礼拝で、カトリックが変えた「聖餐式」を祝っているなどと主張しているのでしょう?種無しパンで過越に行う儀式を、過越=除酵祭が終わった後に、種ありパンで聖餐式を日曜日礼拝で祝った?などあり得ない解説なのです。聖書の読み方が事実からずれている!と気がついて下さい。それだけではない、21章でもパウロは100%モーセの五書に忠実である証明を公に神殿で表明し、議会でも100%熱心なモーセの五書=トラー実践者であると証言しているのに、全く聖書とは辻褄が合わない、偽のパウロ像や聖書観を異邦人は語り続けて、教えているのです。
彼らは、ローマ帝国が作った教えなど1つも生きてない、そのような記念日を実践もしてないし、第一そんな発想さえ誰も1世紀当時していないのです。
過越と種無しパンは交互に使われる祭りの名前=言葉ですが、
過越は最初の初日1日だけが過越で、その日から7日間種無し
パンを食べる週である事をまず知ってください。
その週全体を過越と言ったりもします。
詰まり過越の祭りからの7日間の種無しパンを食べる〜除酵祭が終わったと6節で理解出来るでしょう。
だから、パウロがピリピから出たのです。除酵祭が閉じるために集まったのでしょう。それならば、曜日は何曜日でも可能性が
あります。過越がその年、もしかして火曜日から始まれば、月曜日の夕暮れに終了になるからです。
そして、7節に週の初めの日とありますが、ギリシャ語では(日)という言葉はありません。これが翻訳する人が勝手に聖書に記されていないもとの原典の言語に自分の思想を付け足している分かる良い例でもあります。詰まり、そのような翻訳をしているという意味は、その翻訳者が使徒ではシャバットが第七日目から第一日目に移行している時期だなどと、マルキオンの受け売りのような人間が考えた勝手な思想を信じているからです。
聖書の事実ではなく、人の思想を翻訳に反映させてしまっているのです。日という言葉はありません。詰まり、週の初めとは、「初穂」から7週を数える7週の初めのことだと考えられるのです。もしそれが仮に週の初めの日であったとしても、聖書の週の初めの日=第一日目は、それはグレゴリオ暦の土曜日の日没のことです。
週の初め=第一日目は土曜の日没がスタートだからです。
ちなみにグレゴリオ暦日曜日の日没は、聖書の暦では月曜日の始まりです。
そして、ここで「パンをさくため」と読んでクリスチャンは、
日曜日に「聖餐式」をしている証拠などと誤解していますが、
この時代にカトリックの教え、儀式=聖餐式など、どこにも存在していないのです。そして、「過越の祭り」では種無しパンで、
儀式を晩餐の中で儀式を行うのであり、それは聖餐式という名前の儀式とは違うのです。普段の日の種ありパンではないのです。この箇所では、種無しパンの祭り除酵祭が終わったので、普段の時に戻り、「種ありパン」を割いたのです。
聖餐式とは、カトリックが、過越の祭りで行う、種無しパンと4つの杯で行われる儀式を変えたものであることを、まず知って下さい。幼児洗礼も、カトリックが「8日目の男児に与える割礼」を変えた儀式です。
ユダヤ人のイエシュアがローマ化けしたイエシュア像に変えられてしまい、聖書に書かれた教えを剥奪し、ヘブライがローマ化し、聖書の事実を人が曲げ、変形し続け、ローマ化し、それが
伝えられてしまっている、嘆くべき事が行われてきたのです。
だから、1世紀後半から、中世、近代、現代を通して、置換神学やデイスペンセーション神学の様な、聖書とはズレた教えが出現して広く浸透してしまったのです。
言っている意味が意味が通じないと思いますが、歴史を学べば
神の言葉が強奪されて、人の教えで神の永遠の真理である言葉、教えがコーテイングされて見えなくされてしまったのです。
だから神の言葉〜モーセの五書〜捨てよ!律法は古く人を縛る悪いものだ!と、神の言葉に対する偽証を、神が言っている教えだと、疑いもなく信じているでしょう。イエシュアは人を苦しめる律法から解放するために来られたと本気で信じているでしょう?イエシュアが教えて生きた、そして神=イエシュアが生きる様に人に今も教えているのはモーセの五書なのに、全く気がついていないのです。
そんな古い教え、律法に戻るな〜!という人間の教えの強いスローガンが浸透したからです。
その教えは、神の言葉、神に対して、人間に過ぎないものが、一体何を言っているのか、まるで気がついていない思考回路が語っているものなのです。
そして、聖書の内容が曲げられて伝えれられ続けている事に多くの異邦人は気がついていないのです。目の前に、聖書に書いてある神の教えを読んでもなお、書いてある通りに、神の言葉教えが永遠普遍だと気がつけないのは、人が神の言葉を否定し、終了と言い、それが神が言った正義と疑いもなく信じているからです。第7は第一に変わったと、聖書に書いてない事を、人の思想で読み替えている事をしているから、違う事ずれた読み方をしても気がつけないのです。
神の言葉は全部で丸ごと真実でどの箇所も内容は一致し、相反する矛盾する事など1つも書かれてなどいません!