贖われた、救われた、神のものとなった人達のその後の生き方の全貌はどこに書いてあると考えていますか?
天の国の憲法、法律、様々な教え、日常生活の中で神が人に教えていること、そして、天の国の聖なる民の生き方全てを神は何を通して教えていますか?
神の言葉は完全、聖書は絶対!と言いながら、本当は神の言葉は
完全と考えていないし、実際その事実通りに取り扱ってなどいなのです。完全なものが、途中で変わった、それが神の言葉の性質だと疑いもなく、人の仮説の教えを信じている事、それが神の
言葉が完全と聖書に書いてある事実通りには、考えていない証拠根拠であるからです。
人がどう感じる、考える、信じるかに全く関係なく、神の言葉は永遠に真実として固く立つ!と神が言われる通りが事実であり、神の側では神の言葉は変わらないのです。
神の言葉を聞いて受け取る側で、そう信じる、信じない〜で神の
言葉が変化したらそんなのは嘘、真実ではないのです。
神の言葉は人間の信条や考えにより変化しないからです。
山田太郎さんという人を、田中一男さんであると誰かが信じていても、その人は永遠に田中一男さんには、なりません。
山田太郎さんは山田太郎さんであり、田中一男さんには永遠になりません。
男性に生まれて、女性に整形手術、性転換手術して、ホルモン剤を打ち続けようが、その人のDNAは男性であり、子供も産めない、男性としての生殖機能を失ったに過ぎず、見かけが多少女性に見えてもDNA〜元は男性のままなのです。
それと同じく、人が神が伝えている「言葉」永遠普遍であり神ご自身であるその「言葉」を神が伝える意図通り、意味通り把握して生きていれば、それは神の栄光がそのままその人の生き方から
現れ出る事であり、真実な生き方、人間本来の生き方をしているのです。
一方、神が伝えてもない意味に、神の言葉を人の教えを通して変換して、神の性質とは別物の性質を生きていれば、それはイスラエルの神の性質が現れ出ない生き方になる、その違いだけなのです。
神の栄光が現れると言いますが、それって一体どういう意味なのでしょうか?漠然としていませんか?それぞれの空想の世界。
栄光とは、「重さ、量る」という言葉と同じです。神の実態通りが現れ出る、それは神の言葉通りの性質を生きる事を通して現れ出る!生きる事はキリストと書いてある意味なのです。
その元の言葉=イエシュアご自身である言葉を変えれば、それは元の意味通りは現れ出ません。よく考えれば分かる事です。
洋服の型紙を元の寸法や、形、デザインを変えて、そして生地を別物にしたら元のデザイン通りの洋服は出来ません。
楽譜に書かれた音符を少しでも変えたら、不協和音になり、作曲者の元の意図は表れでません。神の言葉を変えるとはそういう事をしている事と同じなのです。
神との関係にある土台、根拠、証拠は、神が人間に提示した婚姻契約に基づいているのです。この理解が欠如すると聖書、神の教えがどうしてあるのか理解の根底が揺らぐのです。だから、今の時代は人が考えるそれぞれを生きれば良い時代になったなどという、聖書とは全く関係のない教えをしてても、それらの教えが
聖書とは違うとも全く気がつけないのです。
シナイ山で与えられた文字として、永遠の証拠として記された、それが神が人に与えた婚姻証明書であり婚姻指輪!
ユダヤ人の世界には、婚姻する時に婚姻契約書〜「ケトゥバ」と
いうものを書きます。この中に婚姻関係に在る生き方、お互いを保護する事など、様々に書かれています。
この誓約書があり、結婚式に証人によりこれにサインし、もし結婚生活で相手に反する違反行為、又は夫、妻としての責任放棄する生き方するならば、証人達は、異議申し立てにより、これこれ
請願した事があるから、勝手に違反出来ないよと諭す事が出来るのです。
この「ケトゥバ」は、シナイ山で神が人に与えた婚姻契約書と同じ性質です。
神が人に与えた婚姻契約以外、神との関係にある根拠、聖なる民の生き方がこれであると神が提示したものはこの世にありません。
この世には、新しい別物の契約書もなければ、異邦人が契約を受け取る代表者には永遠になりません!なぜなら、イスラエル〜初子〜イエシュアを筆頭に神の一大家族、イスラエルの家〜聖なる国民、天の祭司の国の一員にされる以外に事実がないからです。
ローマのイエシュアなんて聖書に書いてありますか?
新しくされた契約書は、中身はシナイ山で与えられたモーセの五書、トラー以外にないからです。新しい〜再更新続けられる中身は同じ契約書!という永遠の事実をまず把握し、理解し、その中に書かれている事を学び、生きるという事が神の大家族の生き方なのです。
大きな出来事、メシアの地上到来、処刑、昇天などがあると、
それを境に何かが変わったと、聖書を知らない異邦人は思ってしまうものです。
なぜ?全てを歴史線上に起きた出来事として眺めているからです。そして西洋哲学の世界、異教徒思想で眺めるからです。
永遠から見る!円としてどの地点でも同じである事実を見るという、聖書ヘブライ思考とは異なるからです。神の目から見る事と、人間の肉の目から見る違いがあるからです。
大きな出来事といえば、これから来るシャヴオート(ペンテコステ)の祭りも、大きな出来事でした。
クリスチャンの世界では神の祭りの唯一1つだけ、語られるのが
シャヴオート(ペンテコステ)です。それは、使徒2章で初めて聖霊が降りてきて、聖霊時代になった、新しい時代になった、
律法時代が終わり聖霊時代が来たからだ!などと教えられていますが、それは聖書とは違う教えなのです。
イエシュアを神と信じて救われた人はもれなく、モーセの五書に
記されたイスラエルの歴史、そして、神の創造された記念日の
イエシュアの贖いの業で表される体験を個人個人しているのです。
神の創造された祭りは全部福音の中核、イエシュアの贖いの業を
表している物であり、実際に地上で起きた事、これから未来に起きる預言的祭りであり、私達はその神の記念日、祭りを生きて
天の現実に生きるリハーサル、練習をするように神がその祭りを
創造されているのです。
詩篇1編を、神の教え、トラーを知る人には、生ける水、季節(モアデイム=アポイントメント、神との会見、祭り)ごと〜
神の記念日から記念日をめぐり生きる命のサイクルを生きる人は
御霊の実がなる。神の記念日は全て収穫にまつわる記念日であるのは意味があるからです。
実り、成長、そして、神の家族とされる人たちが増え続ける。
イエシュアに贖い出されて新しくされて聖霊を受け取った人は、
神の花嫁としての生き方を教えられるのです。
これを端折ってだいぶ捨てている、もしくは人の教えで違う事を教えられている箇所でもあるのです。神のものとされた人は、
どのような道のりを辿りましたか?
出エジプト6:6 それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい、
『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトびとの労役の下から導き出し、奴隷の務から救い、また伸べた腕と大いなるさばきをもって、あなたがたをあがなうであろう。
6:7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。わたしがエジプトびとの労役の下からあなたがたを導き出すあなたがたの神、主であることを、あなたがたは知るであろう。
過越の祭りの中で、イエシュアが祝っていた、過越の意味の要素が、この出エジプト6:6−7にあります。そしてイエシュアが
された、過越の晩餐の中での、種無しパンと4つの杯、この出
エジプト6:6−7に書かれた神の業を表しているものです。
1 導き出し 2救い 3贖い 4聖別された神の民となる
これはどの時代のどの人種でも、イエシュアを通して贖い出された人は全く同じ経過を人生の中で辿っている事が書かれて、教えられているのです。
自分がイエシュアに出会う前、エジプトに生まれて、偽の神々の奴隷、偽の主人に繋がって生まれて来た。
奴隷でもまやかしの喜び、報酬、楽しみを体験していた。救いの体験、その後のこと全部聖書に書いてあるのです。
イエシュアがされた過越の晩餐の中での儀式は種無しパンと、
そして3番目の「贖いの杯」と呼ばれるもので、新しく再更新された契約の契りを交わしたのです。だから、イエシュアがされた
同じシナイ山の契約の再更新に伴う印は、この種無しパンと3杯目の贖いのワインの杯です。種ありパンでは意味が消えます。
そして、この儀式は、過越の祭りを祝うたびに、イエシュアの地上でされた業を思い出して行ってとイエシュアが言われた言葉の意味を考えてください。
これを、カトリックは過越の祭りを祝うことをやめて、日曜日のミサの中でやる「聖餐式」という儀式に変えたのです。だからプロテスタントも過越の祭りを祝わないでカトリックが作った儀式を継承しているのです。種ありパンとワインに変えて、それらは実際にキリストの血、肉になると教えているのですが、聖書とは異なります。
でも神の教えの事実は、イエシュアは過越の祭りを祝うたびにこれをして!と遺言されたのです。パウロもイエシュアの血の贖いにより新しくされた人として過越の祭りを祝おう!と教えているでしょう。1コリント5:7-8
子羊イエシュアの血の贖いが永遠に存在しています。地上にイエシュアが生まれて、初めて贖い、救い、罪の赦し、聖霊が人の内側に住まう時代が始まったと異邦人が考える、人間の肉の目から眺めている教えを削除して、永遠から神が同じ1つの福音、同じ救いの方法=イエシュアを通して以外誰も父の元に来ることなどできない!人種、時代を超えて同じ!古代の人は信仰によりまだ地上に来ない見えない永遠の中に存在するイエシュア=神=子羊の血の贖いの完了の業を受け取っていた事実を先ず理解する事が
必須です。
そして私達現代の人も、実際に誰もイエシュアを見たこともない顔と顔を合わせて直接話したことはないけれど、同じく信仰により、永遠の中この世の礎が造られる前から屠られて完了している救い贖いの業を受け取り新しくされ聖霊が内側に住まう。
どの時代も同じ!!である事実を聖書から読み取り理解すれば良いのです。
以下全てのイエシュア信者が人生で通る道のりと並行、マッチ、重なる事実です。
過越で子羊の血で覆われ、スコテに宿営し、エジプト軍の追手に迫られて、八方塞がりの時、水が割れて、葦の海を安全に通り
荒野に導き出されたのです。
新しくされた人として、神の声を最初から聞き直して教えられる場所に連れ出されたのです。
過越の祭りから7週間目が、シャヴオート(ペンテコステ50日目)の祭りなのです。
この祭りのテーマはいくつあります。
クリスチャンの世界では、ペンテコステ、イコール聖霊降臨祭
とか、聖霊が初めて人の内側に住む、聖霊時代が始まった幕開けだとか、さまざまに言われていますが、そのどれも聖書とは異なるものです。
聖霊はエデンの園の中から人の内側に住み、そしてエデンの園を
出たアダムとハヴァも同じ、イエシュアの血の贖い、許しを受けていた、最初から同じ!なのです。
そして、聖霊時代で、神の言葉教え=トラーが終了などと、神の言葉を否定する、消去する、捨て去る教えは、神が伝えている事実ではなく、エデンの園の蛇の声と全く同じ教えである!その危険を認識していない人の思想なのです。
次にシャヴオート(ペンテコステ)の祭りの意味とそれにつけられている名前、意味、この祭りの意味は私達に対して何を神が教えているのか、そして信じる1人1人に対して全く同じ意味である事が分かると思います。
この祭りは、レビ記23章にある神の創造された三大都上りの祭りであり、イエシュアが再びもどったら、過越、シャヴオート、
仮庵の祭りに全世界の国、イスラエルに敵対した国も上って来て
イスラエルの神の祭りを祝うようになる!と預言されているのです。
その意味は、誰も主を知ろう!と言わなくても、皆神の教え=
トラーを知っていて生きている状態になる日が来るという預言
エレミヤ31章、そしてイエシュアが処刑される前の番の過越の晩餐で語られたエレミヤ31章の同じ婚姻契約をイエシュアが
再更新されたことが書かれているのです。ゼカリヤ14:9-21
その中にはイスカリオテのユダはいませんでした。その意味は、
本物の民だけ、残りの民、誰も主を知ろうと言わない神の教えを知って生きている人達で生きる世界、神の記念日、祭りを祝う世界が来るからです。
続く