人の語る言葉には全部意味があります。あ〜と言うため息まじりの一言でも何かを表しています。神の創造された世界の全ては全部神の言葉で出来ているからです。言葉を通して人は伝達し、物を創作しています。その文字、言葉が数字か、楽譜か、デジタルか、青写真か、設計図か、それら書かれた物をその通りに再現すると物理的に物が、音が様々な物が現れ出てくるのです。
聖書には実際には書かれてない別物で、神の言葉や教え、イスラエルの神像、イエシュア像が異邦人の世界では様々に語られているのです。
聖書には記されていない、ズレたイスラエル、イエシュア像。
その意味は、聖書ではない事が、聖書の如くに語られてしまっているという事です。
人が語る、聖書ではないイスラエルの神像や神の教え、原始福音などと聞いた事があると思いますが、神の言葉=教え=福音に原始も進化も、劣っているものが、優れるたものに変化、そんなものはありません。
永遠の中に完了している子羊の血の贖いを、神は色々な方法を通して人に教えているのです。
地上にイエシュアが来られて子羊の血の贖いが本当だと人の中で証明する以前から、永遠の中から、この世の礎が造られる前から、同じ子羊は屠られて、子羊の血の贖いは完了、存在していたと書いてあるからです。私達イエシュアにより父の元の戻った
全ての人もこの世の礎が出来る前から「既に神に選ばれていた」と、不思議な事が書いてあるのです。
どの時代のどの人種でも、子羊の血〜イエシュア〜世の罪を取り除く神の子羊の贖いの業により、神が代価を払ったその事実だけにより人は父の元に来る、罪ゆるされ新しくされ神が内側に住む。これは聖書に書かれた事実ですよね。
でもこれを、上に書いた福音の真実に人の教えを付け足して、
混ぜ物の教えにした教えは、以下のように1900年近く異邦人の間で語られているのです。人により宗派により語られている
内容は様々で、色々な教え満載です。
以下全て聖書とは関係のない人が考えた教えです。
ここでは、太古〜イエシュアが来られるまでの事とします。
1)太古の人は、別の方法〜動物の血の生贄を通して、仮に許されていた、もしくは許されないまま地獄に落ちた。又は中継点に閉じ込められ敗者復活戦のチャンスがあるetc etc etc.
2)太古の人は、聖霊が内側に住まなかった。
又は特殊、特別に選ばれた人だけの内側に聖霊が住まった。
<聖書にはエデンから今まで生きていた全ての人、個人個人は記載されていないのは誰でも理解出来ますよね。代表となる、神が誰かを、ある歴史上の事柄を選び、その事を通して私達に何かを教えているのです。>
3)ユダヤ人は太古には律法を生きる事で神の前に義と認められた。律法は人の生きられない厳しい教えであり、神はイスラエルを通して、神の教えを人間が生きられない事を教えたのだ。
申命記30には、神の言葉、教えは人の生きるに簡単だ、難しくないとかかれています。神の言葉で伝える生き方は私達そのものだから!!!それらが私達神に造られたものの性質そのものだkら!と書いてあるのです。神の言う事と人の言う事どちらが本当だと信じているのでしょうか?
人の行い手柄で、新しい人=復活の命を継承できるなんて聖書の
どこに書いてありますか?誰も出来ない!だからイエシュアの贖いの血〜命の代価を支払ったのでしょう?
それなのに、太古は神の教えを生きて義とされたというのは変だと分かるでしょう。
義とされた人が神の義を生きる!人の神の言葉に対する取り扱いがずれているだけなのです。神の言葉は人を義とする律法ではない人は律法を生きて義とされない。大体神の言葉=教えを指して
ヘブライ語で律法などと言っている言葉は1つもありません!という事実を知って下さい。贖われた人は神=イエシュアの性質うを生きる!その性質の詳細がモーセの五書=婚姻契約書に記されているという正しい理解が欠如しているのです。
4)怒りの神から恵みの神、怒りの時代から、恵みの時代、
律法時代から、聖霊時代。これは2世紀時の異端者マルキオンが
考えついた教えを、西洋人〜異邦人が取り入れ、聖書とは異なる異端者の教え、マルキオンの思想の受け売りを今に至るまで継承し言い続けているのです。
神は永遠から永遠に恵、許し、憐れみ、愛に富みとご自分の事を紹介し、神は永遠に変化しない!神の言葉も永遠に変化しない!と教えているのに、異邦人の頭脳にはこのような思想の分厚い壁があり、越えられない理解出来ないものとなっているのです。
5)神の言葉は終了〜部分的、大部分終了〜今は人間主体、人間が考えて受け入れられる事を生きれば良い時代になった!
又はユダヤ人と異邦人への教えは、別、記念日も別だ。
そんな事神は絶対に言ってないし、これからも言いません!
これら上記したものは全部聖書とは無関係の人の教えです。
でも普通に教師、牧師、一般のクリスチャンの口からこのような教えが語られているのが事実です。
来週の火曜日11日日没が神の暦〜聖書に記されたシャヴオート
ペンテコステの本当の祭りの日です。
その事に繋げて、モーセの五書に記されたものは、私達1人1人の地上の歩み、歴史、自分史とピッタリ重なり、並行している事実を聖書から読み取ってみて下さい。
前回の記事は、出エジプトした所で、最初の宿営地、スコテ=仮庵という名前の場所まで来た所まで来て書きました。贖われた人の内側に聖霊が住まう事、イエシュアが住まう事、このスコテで宿営した事を通して教えているなど、普通には考えられませんよね?
その理由は、教えられていないからです。仮庵の意味、仮庵の祭
神の創造された記念日の1つ1つの意味を教えられ、実際に実践し生きて学習していない事が理由です。神の聖別された1つ1つの記念日、祭りの意味をクリスチャンは教えられていないからです。
これらは私達1人1人どの人もイエシュアに出会い贖い救いを
体験した人の自分史とぴったり同じ内容なのです。
私達の仮庵、体も朽ちる仮庵、でもこの仮の住まいでも、同時に
地上では、既にイエシュアが私達の仮庵であり、そして、私達
の仮庵の体にイエシュアが宿っている事実がある!やがて永遠にイエシュアの中に住まう事を、仮庵の祭りを通して神が教えていることをクリスチャンの世界では教えられません。
子羊の血で贖い出された人は、イエシュアの中に住まい、同時に
イエシュアも私達の中に住まうことは最初から教えられているのです。
そのイエシュア=聖霊の臨在は目で見える形でもミシュカンを通して教えているのです。神の家=地上の仮の移動式神殿=朽ちる体の中に、神=聖霊=イエシュアが住まうことを色々な形で教えているのです。
ヨハネ17:21 父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、
わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。
17:22 わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。
これは、イエシュアが過越の祭りの晩餐を弟子達とした後に、
一人祈っておられる箇所です。
神の中に居る、神も私達の中に居ることを人が信じられるようにと、祈っています。そして、神が1つであるように、信じる者たちも1つになるためとあるでしょう。この箇所を読んだだけでもイスラエルの神の性質、いや最初から記されている1つの神の
大家族の性質をタナック=モーセの五書、預言書、諸書から読み取れる人には、デイスペンセーション神学、人間ダービーが唱えた人種ごとに隔ての壁がある分裂した2つの家族が、完全に聖書からズレた、外れた思想であることに聖書から気づけます。
神が1つ神、1つ家族、1つ場所に皆を集めようとしているのに、その邪魔をするのが人間の肉の目から考えついた分裂思想なのです。
スコテを通り、紅海に面した場所に行くのですが、その途中で
神がイスラエルに引き返すように命じます。
これも、私達の人生と重なっている事実です。
追っ手に迫られているのに、なんで今こんな時にどうして引き返すの?意味不明な事が人生にはあります。
でも、全ては神のプラン通りなのです。物事、問題だけをみたら
見えない、主を見ないとならない、見えないお方を見るが如く
歩む地上の旅路、天〜約束の地に入る聖別された人としての訓練を今地上でされているのです。天の現実を実際に地上で生きるリハーサルの場所なのです。
そして、引き返した場所は、「ピハヒロテ」と「バアルツフォン」に挟まれた場所です。
ピハヒロテは、「自由への口」バアルツフォンは、「北の神、隠された神」という名がつく場所です。聖書に登場する全ての名、
地名にはメッセージがあります。名前を調べるだけで、何を伝えているのか分かります。
余談ですが、カナンの地に偵察に入った斥候の名前を全部調べると、一人一人の性質から、神が伝えるメッセージが浮き出てきます。聖書は、ヘブライ語で書かれているので、このように言葉の意味を調べていく必要があるのです。
神が伝える多くのメッセージを見逃してしまいます。日本語の漢字を見て、川越、沼田、日光、東京、京都、漢字を見ただけで、何を意味しているのか把握出来るますが、他の言語はその言葉の意味語源を探って初めて意味が見えてくるのです。これは、他国の言葉、翻訳では見えない数々の事実があるという難点ですが、これを教えてくれる教師はだから必要なのです。
この二つの地名で教えられているものは、私達の信仰の歩みと同じです。子羊の血で贖われて救われて神のものとなり、奴隷状態から体は引き出されて、約束の地に向かう。体はエジプトを出て来たけれど、すぐには中身、頭脳、思考回路は変わらない。
「自由への口」に向かって、新しくされた人として生きるのか、
それとも後退して、「隠された神」偽物の神の教えに戻るのか、
その誘惑がある事を教えています。偽の教え、人間が考えついた
教えに縛られて再び奴隷になる!という警告なのです。
現実にそのような事が起きたのです。
これ私の身の上にも同じ事が起きました。救われた後、私が教えられたのは、純粋な神の言葉だけではなく、はっきり言って、人の教えが混ざった人間が考えた宗教の教えを教えられました。それは神の言葉終わりありきのデイスペンセーション神学の教えを
通して聖書を考えるズレた教えを教えられたからです。
純粋な神の言葉ではなく、神の言葉を否定する、削除する、そして人の教えを付け足した人の思想が混ざった物です。
出エジプトしたのに、人の教えに縛られる、これは気が付かない場合には気が付かないけれど、暗い部屋に灯りが着いたらゴミ
散乱しているのがはっきり見える、それと同じです。
多くの人が人の教えに縛られているでしょう。気が付かないまま嘘なのに聖書、神の教えだと信じている。聖書に書いてない教えは神から出たものではないから、聖書に基づき考えたら良いのです。でも、上の権威に従え!などと言われて、人に縛られるのですが、そんな事を言う人は、神の言葉を知らないで人に勝手に命令している事が理解すれば良いのです。人の教えの縄目はたくさんあります。正常な成人は、誰かを支配したり、縛ったりましてやあれこれせよ!などと一個人に命令などしてきません。
命令は会社に勤めれば、任務業務はありますが。奥さんは旦那さんにあれやって〜と命令?するかもしれませんが。笑
紅海が割れる前に、モーセが言った、”今日あなたは救い=イエシュアを見る!”そして、エジプトの軍隊がこぞって背後に迫って
来たのです。私達も八方塞がりで、もう前に進めないという体験をするでしょう。人生の歩みの中で。でも主は不思議な方法で道なき所に道を開いて安全に進み行かせて下さるのです。
結局、モーセとイスラエル、少数の異邦人はこの葦の海〜紅海を安全に渡り、エジプトの軍隊は全て!水に飲まれてしまうのです。
ここ迄のイスラエルの通った事件、出エジプトが全部信じた一人一人の個人の体験と重なり並行して語られていることに気がつきますか?
これもイエシュアを信じた一人一人と同じです。過越〜子羊の血で贖われた。種無しパン〜罪が削ぎ落とされた人とされた。
この世に在りながら、この世のものではなくなった。天に属する天の祭司に属する聖なる民=同じイスラエルの神の1つの大家族の一員になった。神の子とされた。水〜葦の海を通り、約束の地へ向かう。
約束の地は実際のイスラエルの国ですが、約束の地は、同時に天の国が地上にやがて降りてくる、その天の国を指しています。
荒野で、最初に来た場所は、スコテ、仮庵=イエシュアの中に住まうことを最初から教えられています。
そして、神の記念日は全部7がテーマです。神の時、暦、祭りは全て7で創造されています。
7日目、7日間の祭り、7年目のシュミタ年、7年を7回繰り返すヨベルの年、元の所有者に土地や家が戻る、修復を表しています。
過越から7週を経て迎える祭りは、シャヴオートです。
この祭りのテーマはいくつもあります。
続く