出エジプト13:8 その日、あなたの子に告げて言いなさい、
『これはわたしがエジプトから出るときに、主がわたしになされたことのためである』。
13:9 そして、これを、手につけて、しるしとし、目の間に置いて記念とし、主のトラーをあなたの口に置かなければならない。主が強い手をもって、あなたをエジプトから導き出されるからである。
13:10 それゆえ、あなたはこの定めを年々その期節に守らなければならない。
神は永遠に「過越の祭り」を祝うように神の子らに教えているのです。過越の祭りだけではありません。イエシュアの業が中途半端ではない、イエシュアが再臨され永遠に神と共に住まう日が来る全て網羅する内容が記念日で表されているのです。
交響曲に4楽章あったら全楽章を演奏して、初めて作曲者の全ての意図、伝えたい事が演奏を通して現れ出る、それと同じです。
楽譜だけ見ている〜思想の世界、演奏をして初めて実態が現れ出る。だから、行いのない信仰は死んでいると教えているのです。
神の教えは全て動詞!生きる事!なのです。思想哲学の世界ではない。
異邦人はイエシュアが来られたら、古い教え?が終わったと教えられているから、神の言葉が永遠普遍だとも認識していないし、
まして神の記念日シャバットや祭りをユダヤ人だけの記念日であると勘違いして、神に今も招かれている記念日を知らないと言う
意識もない。神の教えや記念日や祭りなど他人事に聞こえるでしょう?それ何?と。イエシュアは何を生きて、何を祝ったのか
考えた事がないのだと思います。イエシュアが地上で歩まれたように生きると言いながら、実際にはそうしてなどいない事にも
気がついていないのです。
神が神の子らを呼び出している聖別された日、本物の主の日は、レビ記23章に記されている神の暦に書いてあります。
人間の暦は人間由来で、神が造られた祭りや記念日ではないのです。神は人間が作った記念日や祭りに神の子らを呼び出していません!聖書に戻ろう!というなら本当に聖書だけに戻らないとなりません!神と同じ土壌、ページで話し合い、考えていない事をしているのです。人の創作した教えと記念日は永遠に神が創造されたものではない!という単純でシンプルな事実が全く通じないのです。
それは、人間が作ったものを神が喜ぶと考えているからです。
違うのです。神は何と言われましたか?
「神が言う通りそっくりそのまま生きて!」とずっと厳重警告しているでしょう。でも異邦人は、今や人間主体、それぞれが思う判断する事を生きてやれば良い!聖書と真逆な人の思想を聖書に混ぜて伝えてしまっているのです。人間が作ったものはそれぞれにより変形し神のものとは異なる別物なのです。
神の記念日はイエシュアの業、福音を網羅する生きて学習する
預言的祭りでもあるのです。これを実際にやる人には分かるのですが、やった事のない人にはまるで意味が通じません。
食べた事のない食べ物の味は想像、空想するだけで実際に分からないのと同じです。しかも神は知恵深く賢いのです。毎年毎年
木の年輪のごとく、詩篇1にある通り生ける水のほとりにうわって、神の言葉=トラーを吸収し、神の聖別された記念日を生きる人は、御霊の実がなると書いてあり、教えています。
詩篇の冒頭はトラー=モーセの五書に記された神の言葉に対しての教えが書かれている事に気が付きますか?
神の教えや記念日は、異邦人も含め同じ!神の教えは異邦人へもユダヤ人へも同じだからです。
神の全ての記念日の中心はシャバットです。そして、神の祭りは
最初も最後もシャバットで止まり祝い、閉じるのです。
だからイエシュアが処刑された過越の祭りは、本当は何曜日なのか不明なのです。大体イエシュアが昇天された曜日と、シャバット=安息日との曜日は全く関係のない事です。いつ昇天されようと、その事で「シャバット」の聖別された第七日目が変更になる事は永遠にない!!!という聖書に記された事実を先ず知らなくては、神の言葉=意味する事=聖書に対する正しい理解に進めなくなるのです。
過越の祭りのイエシュアが処刑されたその週の、準備のシャバットとは、何のシャバットなのか、週の第七日目なのか、それとも祭りの準備も事なのか?
イエシュアが何曜日に処刑され、何曜日に昇天しようと、神の記念日であるシャバット=第七日目は永遠普遍である!と神が人に伝えた事実が大事であり、それは誰がなんと解説しても、永遠に変わらない!そんな単純なシンプルな事実を異邦人が曲げ続けている!という事に先ず気がついて下さい。
トラー=神の教え、指導、モーセの五書に記された神の言葉は、既にエデンの園から口頭で伝えられているのです。
出エジプト5:1 その後、モーセとアロンは行ってパロに言った、「イスラエルの神、主はこう言われる、『わたしの民を去らせ、荒野で、わたしのために祭をさせなさい』と」。
祭りとは、レビ記23章に記された神の祭りの事なのです。
解説が何も書いてないですが、最初から神の教え、祭りは同じ。
シャバットは祭りの中心であり、創造の最初に書いてあるのです。詳しい説明は後になってされているのですが、人々は神の教えを教えられて神の記念日を祝っていたのです。
詳しく説明がないまま、唐突に書かれているものがあります。
出エジプト32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そしてアロンは布告して言った、「あすは主の祭である」。
この箇所は、モーセが山に入り40日40夜帰らずのまま、もう
指導者はいなくなって不安だから、自分たちの方法でイスラエルの神を拝もうとした箇所です。金の子牛の偶像を作り、それで
イスラエルの神を礼拝し、祭りを祝おうと書いてあるのです。
聖書に記されたイスラエルが辿った道のり〜それらは全て、イエシュアを信じた一人一人の人生と同じ内容であり、重なるものであり、並行しているものなのです。
1)エデン=喜び=神の中の内側の外、神から切り離された場所に飛び出した。全ての人は同じアダム〜アダマ=土から造られて生まれました。神に造られた!その事実は同じ。
アダムから出た1つ体=家族として繋がっているのです。そしてアダムとハヴァの行動が、その後の全人類に同じ影響を及ぼしたのです。死が入り込んだ。朽ちる体になってしまった。
出エジプトで表されているイスラエルの歴史は私達信じた者の人生の歩み、歴史、それと同じです。
奴隷〜エジプトの国で表される奴隷状態とは、神から切り離されて、別の場所に生きて、別の神々=10の災の裏にある神々の
呪いに縛られていた、それからの解放です。別の主人、別の人生目標、別の自己像しか知らない状態でした。これは主に出会った一人一人の以前の状態を表しています。
2)子羊の血の贖いにより贖われ、偽の神々、偽の主人から奴隷の鎖を切り離されて、元の主人〜本当の神に繋がれて戻ったのです。
信仰義認は、永遠から、エデンの園の最初から同じです。アダム、ハヴァ、ノアもアヴラハムも同じ贖い、救いの方法で神に戻ったのです。そして、この出エジプトの過越で、子羊の血=イエシュアの血を表す屠られた子羊の血を家の鴨居に塗った人達の家の初子は全て死を免れたのです。
初子=イエシュア=子羊の血で贖われた人は、イエシュアを通して神の元に戻る事を教えている、実際にその事実を受け取ったのです。
私達一人一人神を信じた、その人たちはイエシュアの子羊の血の贖いを受けて死が過越したのです。同じです。
3 )イエシュアの血で罪覆われた人は、新しくされた人、復活の命を頂いた人、初穂=イエシュアに連なる人。
種無しパン=ハメッツ=パン種=過越の祭りでは罪を表すシンボルとして神から教えられています。
種なしパン=マッツアにされているとパウロも言った意味とは、私達子羊イエシュアの血で贖われた人は、罪が削ぎ落とされ、すすがれて新しくされ聖霊が内側に共に住む状態に戻った事を教えているのです。聖霊を受け取るのは、エデンの園から同じ!その条件は、神の一方的な贖いの業、子羊の血の贖い〜永遠の中に屠られて完了している事実を信仰によりどの時代の、どの人もただ受け取るだけ!同じです。
1コリント5:7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。
5:8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭=過越の祭りをしようではないか。
この箇所で、マッツア〜種無しパンです。種無しパンにされている、罪が削ぎ落とされた人、新しくされた人=復活の命=初穂
初子=イエシュアを通して神の元に戻った聖なる人のことです。
そして、パウロは「過越の祭り」を新しくされた人として祝おう!と言って、イースターを祝おう!と言っていません。復活の命を祝う日は、種無しパンの7日間の真ん中「初穂」を祝う日
で祝うのです。最初から神はその日を聖別された記念日として
神の子らに、過越の祭りからそして7日間の種無しパンを食べる週の中で祝うように教えているのです。呪われた大地を、イエシュアの贖いの血できよめられ、その大地から新しい命=初穂が出てくる!初穂が大地から出てくる様子、そして初穂に連なる個人個人がそして大勢の人が新しい命を得て成長して行く様子を通して、新しくされた命をこの世の旅路で生きることを教えているのです。
この世の歩みは、新しい次のオラーム=神が統治する世界=約束の地に入る前の地上での歩みなのです。この世にいながら、実は私達贖われた人の現実は神の中=天の現実の中に居る!とイエシュアも教えているでしょう。ヨハネ17章。
4)イエシュアに出会った全ての人は、エジプトで表される偽の神々の奴隷の国を出て、天の聖別された聖なる民とされ、引き出されました。地上の歩み、荒野の40年は、神の言葉を聞いて生きる神の子らの事実を神の言葉を通して正しく再学習、再訓練
する訓練場所なのです。
イエシュアの業、福音はエデンの園から同じです。永遠の中に既に贖い、救いは存在しているからです。聖書には最初から福音が詳しく書かれているのです。だから聖書に記された記述を、ゆっくりゆっくり考え続けてみてください。
エデンの園で、アダムとハヴァが子羊の血の贖いを受け取った事実が書いてあるのです。ヨハネが”見よ!世の罪を取り除く神の子羊!”と言ったのは、それはエデンの園の最初から同じ意味なのです。永遠から語られた同じ1つの福音だからです。
神が屠られた動物の皮、イエシュアの贖いの事実で彼らを覆った、これは鴨居に塗られた子羊の血、ミシュカン=移動式神の神殿の3枚の幕でも表されているイエシュアの実態で、私達は覆われていることを教えているものです。それは、信仰により受け取るだけ!アダムとハヴァが、神が与えた毛皮を跳ねのけて、そんなもの着ません!と拒絶しましたか?しませんでした。彼らも同じようにイエシュアの贖いの血で、神自らに覆われて、罪ゆるされ、神が彼らの内側にエデンの園を出た後にも住まう事実を聖書では教えているのです。
だから、アダムとハヴァの子供達もコルバン=捧げ物の意味を神から教えられて理解していた、聖霊が内側に住み神と対話し、神の中に存在する、神が人の内側に住む関係の中に生きてたことが書いてあるのです。
エジプトを出た後、最初に宿営した場所は、「スコテ」です。
これは、意識しなければそのまま読み過ごすものですが、「スコテ」とは何ですか?仮庵の祭りの「仮庵」、スコテです。
この仮庵は、イエシュアを表しているものでもあります。奴隷から贖い出されて救われた人は神の中、神が内側に住んでいる事実を様々な事を通して神は人に教えているのです。
エデンの園を飛び出して死が私達の中に入って来た、神との隔たり、直接神を見る事が出来ない、別の場所に飛び出して閉じ込められ、そして朽ちる体になったのです。
仮庵は、仮の宿、この体もやがて朽ちる仮の宿ですが、この地上に生きている間、神〜聖霊=イエシュアが人の内側に住まう事を教えている重要な鍵となる教えでもあるのです。
出エジプトの前に生きていた、アダムとハヴァ、ノアやアヴラハム、イサク、ヤコブ、信じる人全ての人の中に聖霊が内側に既に住んでいた、同じ贖い救い、赦し、助け、恵、祝福を現代も古代もどの時代も神の人に対する関わりは何も変わらないのです。
それを理解しないとは、イスラエルの神を聖書に書いてもない人の思想で塗り替えて、完全に誤解している!という事に先ず気がついて下さい。
続く