イスラエルの神の教えと人間が作った教えの違い | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

異邦人はヘブライ語聖書など学ばない、教えられないことが一般的です。

それは、難しい言語だから?そういう理由もありますが、その

起源は2世紀にさかのぼるものなのです。

 

異邦人は先祖代々イスラエルの神の言葉=教え=トラーなど聞いた事もない、学ばないそのような背景でした。今も同じです。

日本人で、親が日本人で、ヘブライ語のトラー聖書に親しんで、

イエシュアや使徒や一世紀の人々、今に至るまでイスラエルが生きていた神の教えや、神が創造されたシャバットや祭りを祝い

続けて成長したという人は一般的に言っていないと思います。

 

1世紀当時異邦人は、パウロのようなトラー教師に聖書=トラー教えてもらった、リモート、諸外国に住んでいたグループが、

エルサレムが拠点、トラーを教えるパリサイ派のパウロの所に、彼らの地域のグループ内で起きていた問題や、実際の対処方を手紙でパウロに相談、質問し、パウロがモーセの五書からの考え方、対処法を伝授した、そのパウロの回答が書簡としてそのグループに宛てて送られたものが、後に4世紀以降聖書となったという事なのです。

パウロは当時トラー学者の中でも、一番最高峰の教育を受けた、いわゆる教授格の知識があるエリート人物であり、だから異邦人達へ、ヘブライの聖書トラーを教える教師として立てられた理由は明らかなのです。

パウロは政治の世界にも入って行けるほどの高学歴人物でした。

官僚エリートの道を捨てて、自分で天幕を作ってトラーを教え続ける地味な活動、生き方をし、迫害を受け最後はネロに酷い処刑をされるような道を喜んで選んだとパウロが言った意味がそこにあるのです。

聖書を読んでも気が付かないかもしれませんが、当時のイスラエルの議会のメンバー、イコール法曹界のメンバーは、名だたるトラー学者達で構成されているのです。

そのようなレベルまでのトラーの学び、トラーや預言書以外にも、他の分野、天文学や、割礼を授ける事も出来る、そのような様々な分野の学問、知識、その他もろもろのあらゆる知識を学ぶ、学びを通った人たちで、そのような教育を受けられる人は、頭脳もそうですが、お金もないとそんな高等教育なども受けられませんでした。

イスラエルの憲法はモーセの五書であり、モーセの五書に沿った神の教えで法廷で決議が行われたからです。読めば分かりますが法廷に出廷する時に、どのようにするのか、証人は何人必要か、全てモーセの五書に書いてあります。

何が罪であり、どのように裁かれるのか、どのような処刑があるのか、全て書いてあります。

イエシュアが木にかけられて処刑されたのは、ローマの法律の下に裁かれたのであり、ユダヤ人の法の下に裁かれたのではない事が分かります。なぜなら、イスラエルの憲法=トラーの極刑は、「石打ちの刑」だからです。

そして、トラーに則れば、イエシュアが裁判も経ないで、いきなり処刑された事は完全に違法行為であるのです。

 

そのような学歴、教育背景を持ったパウロが異邦人の世界へ神の言葉=トラーを教える人に選ばれたのは当然の事だと理解出来ます。神の教えを知らない教師が、いい加減なことを異邦人に教えるわけなどいかないからです。いや教えられないです。教師がいい加減で適当で真実じゃない事を、どの分野でも教えてはならない普通に理解すれば良いのです。

教えている専門分野をよく知らない教師を、教師として頼ろうなどと普通は考えません。パウロはそれに値する知識、答えを持っていたのです。

異邦人でもフランス語、ドイツ語、英語文学を大学で教えるならそれ相当にその言語を深く学ぶのは最低限の条件です。教師になるならば、本当に絶えざる学びは普通の教師の世界では普通、常識のことです。

翻訳から読んでも、元の言葉は覆い隠されているので、見えない事が多いのです。これは外国語を学んだ事がある人なら誰でも

分かる事です。

異邦人は、ユダヤ人の群れとブライの世界、ヘブライ聖書、イエシュアが教えた、使徒達が教えた、生きていた、トラーの教え

ユダヤ色の強い異邦人の世界では馴染みのない教えの数々、そして神のシャバット、記念日を捨て、パウロのような教師とも決別し、西洋思想宗教と異邦人だけの群れになり、そしてユダヤ人とは完全に縁を切ってしまって現在に至るのです。

 

ユダヤ人は代々諸外国に居ても、自分のネイティブの言葉が英語やスペイン語やその他の言葉でも、子供の頃からヘブライ語聖書を教えられて読み、学び、生きて、神の記念日を祝い続けて今に至るのです。これは圧巻でした。

全員ではありませんが、これがどんなに大きな事なのか、神が選んだ民である証拠、神が神の言葉をそのまま継承する人達を守っているからです。そして、その役割、性質に造られたゆえに、彼らが救い主に出会い、正しくヘブライ語聖書を読んでいれば、西洋人が考えるような、置換神学や、デイスペンセーション神学が人の思想であり、聖書ではないことは簡単に分かるのです。

 

この様な内容をはっきり言うのは、抵抗ありますが、余りにも神の言葉を否定する事が2000年間の歴史の中で横行し続けているのに、その事実がクリスチャンの世界では殆ど認識されていません。聖書ではない教えが教えられている事に、気が付く必要があるのです。

タナックを知るユダヤ人には、西洋神学で色塗られた、聖書に記されたイエシュア=イスラエルの神像が聖書ではないと認識するのです。

ユダヤ人の聖書と、異邦人の聖書は内容が別ではありません。

いや、ユダヤ人メシアであるイエシュアと、異邦人に対するイエシュアは同一人物であり同じ神であり、人種により時代により何も違わない、変化などないのです。

 

ユダヤ人に対する神の教えと異邦人へ語られるイスラエルの神の教えが別物だと異邦人はそう教えられているでしょう?そんな事は聖書の事実ではないとはっきり真実を聖書から理解して、正しい理解に戻る必要があるのです。

神の言葉を否定する、神ご自身を否定することであるとも認識しないまま、逆に神の言葉に反する、敵対する思想を唱える事こそが、新しい福音、正義、恵の時代の教えなどと考えています。

イエシュアの復活の命=子羊の血の贖い、赦し、内側にイエシュア=聖霊=神が住まう事はエデンの園から同じ!と聖書に書いてある事を捉えられれば、永遠から変わらない同じ1つの福音しか聖書には語られていない事を発見出来ます。

 

不思議なのは、神の言葉は聖霊により書かれ、完全で普遍と言いながら、同じ口から同時に律法は今や廃れたと言う矛盾を言っているのに、一体何を言っているのか、その意味をまるで考えていない、聖書の事実に基づき、本当に神の伝えている事実を知らない、考えてないことは明らかなのです。

神の言葉を否定、無効、削除することは、神の前に許されない冒涜である事がイエシュアの口からも直接伝えられているのに、その警告に全く気がついてないまま、マタイ5:17-19を完全に勘違い、読み違えて、「律法は成就したので、今は生きなくて良い」と意味不明、支離滅裂な解説をして、何も違和感も矛盾も感じないのです。本当に変な教えです。ユダヤ人が聞いたら、クリスチャンが語るジーザスは、偽メシアの教えと受け取るのは当然であり、無理ありません。それは聖書の伝えるユダヤ人イエシュア

メシア、イスラエルの神ではないからです。

破棄、成就という元の言葉の意味も理解していない問題があり、普通に読んでも、破棄するために来たのではない!とイエシュアが言っているのに、どうして神の言葉は終わったなどと、イエシュアが言われた事とは違う事空想しているのでしょう?人の教えにすり替えて考え続けているからです。神がご自分の言葉をご自分で破棄、放棄、終了という、それこそ偽物のイスラエルの神!!!どうしてそんなシンプルな嘘に気がつけないのかその方が不思議ではないですか?

いや、進化論やその他諸々の偽科学説も考えたら全部証拠もないのに、真実だと信じ込んでいる、そういう大きな騙しが人類の中に横行しているのです。考えないと分からない、でも真実に基づき考え始めたら、必ず神は真実を聖書、聖霊により書かれた神の永遠普遍の言葉から聖霊により教えて下さいます。書いてある事、意味を知れば良いのです。

神の言葉、教えではない不真実な教えを言い続ける事を、聖書、神の言葉の永遠不変の真実に気が付いた人が言わなくてはならないからです。

ユダヤ人が頑なだと言うならば、神の言葉や教えを否定した思想を主張したり、教えたり、神の言葉を無視した生き方をする事が神の前に同様に違反、反逆である事に全く気がつけない事も同じなのです。それは本当に神の教えではなく、神の教えを否定、削除、無効とする異邦人思想を植え付けられ続けて1900年

来た弊害なのです。

 

「はじめの愛」とは、神の婚姻契約=モーセの五書=トラーの事であり、異邦人が言う「呪いの縛りの律法」を捨てた人への警告であると気が付かないまま、はじめの愛〜主に出会ったあの新鮮な感情?と考えているのです。愛=契約の愛=モーセの五書!シナイ山で与えられたトラー=婚姻契約を指して、ヨハネがコード化した隠語で話している事に、気がついて読んでみて下さい。

 

出エジプト31:13「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならないこれはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。

20:10七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。

イスラエル〜イエシュア=ユダヤ人である救い主イエシュアを信じたら、誰でもイスラエルの大家族!であるのです。救い主は

ローマ人ではないのです!出エジプトしたのは何もイスラエルだけではない。イスラエルと同じようにイスラエルの神の言う言葉を信じて、鴨居に子羊の血を塗り、死を免れ、同じように種無し

パンを即座に作り奴隷の国を出た異邦人もイスラエルの12部族の中に加えられて同じく「イスラエル」として数えられていた事実から神は、異邦人も隔てていない事をはっきりと教えています。

ユダヤ人だけが祝うからシャバットや祭りを「ユダヤ人の祭り」

などと言われていますが、イスラエルの神は「わたしの記念日」

と人に伝えているのです。

 

神の記念日の中心がシャバット。神の安息に生きると言う教えは

シャバットの安息を通して教えているのです。

ヘブル4:4 すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、

4:5 またここで、「彼らをわたしの安息に、はいらせることはしない」と言われている。

4:6 そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、

4:7 神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。

4:8 もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。

4:9 こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。

 

書いてある意味通りに読んだら、第七日目のシャバット以外に安息日はないから、第七日目の安息日以外の他の日のことなど語られたはずはない!とはっきり書いてあります。

聖書を聖書=神の言葉として神ご自身として、神ご自身が今語りかけていると認識する人なら、ズレた聖書の読み方、ズレた聖書概念、ズレた神の言葉にたいする誤解に気が付けます。

 

七変化、時代ごとに変わる神、怒りの神から許し恵の神へ、

怒りの時代からめぐみの時代へ、神がご自分で永遠普遍の神の

言葉、神の性質と言ったのに、歴史の途中で神の気が変わり、神が言った事に反する事を言い出した?その仮説、眉唾物だと、神が伝える聖書の記述、真理からそれが嘘であると気が付きませんか?聖書に基づき。

聖書にそんな変化する七へんげのイスラエルの神など1つも書いてありません。永遠から永遠に同じ!永遠から永遠に愛、赦し、

憐れみ、恵に富む神!とご自身で紹介されているのに。異邦人が神の言葉を塗り替え続けているのです。

 

聖書に書いてない神像を聞かされて、それを信じている、同じ

イエシュア=イスラエルの神なのに、語られている神が、聖書に書いてある神とは違う神が語られているのです。

だから、聖書の記述の事実だけに戻らないとならないのです。

嘘に照らし合わせても、何が真実で、何が嘘なのか永遠に見分けられません!神の言葉の真実だけに照らし合わせて初めて、何が神の伝える真実か、人が勝手に言っている教え=神の言葉とは異なる、嘘、偽り、まやかしなのか気が付く、識別出来るようになるのです。

 

続く