イスラエルの神の記念日でありユダヤ人の記念日とは聖書には書いてない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イスラエルの神ご自身が創造され、聖別された日、神が神の子らを呼び出している神のアポイントメントの日。

人間が作って決めた記念日に、人間が人間を呼び出している日は色々あります。それはそれぞれの理由で集会、会合、祝い、祝宴、集まりがあるので、それはそれで何も問題も悪い事でもありませんし、人間の世界で普通のことですし、人の世界でも、記念日は他の普段の日とは違う、特別な日であるのは、その祝いを

通して特別な体験や人との交流をするからです。

 

会議、国会、個人では誕生日や家族の記念日、法事や結婚式、

宗教の中で決めて作った諸々の記念日、入学式、卒業式、国の記念日や、住んでいる地域の記念日や祭りなど、公共から個人まで色々あります。

イスラエルの中にも、神の創造された記念日以外の国の、文化の

伝統の祝いや記念日はあるのです。

 

それらと、神ご自身の記念日に、神の子ら全員を呼び出している永遠に代々に渡り祝われる”わたしの記念日”と神が創造されて

紹介し人を呼び出している記念日は異なるものなのです。

 

何が違うのか?イスラエルの神が創造された記念日は、神由来で

神が創造し、神が人を呼び出している日であり、永遠普遍である事、人間由来ではない、全く異なる性質のもの!そして、イスラエルの神が創造された記念日は、すべて福音を丸ごと網羅するものであり、イエシュアの業を表して教えているものであり、実際に地上で起きた、そして未来にこれから起きる預言的祭り、記念日なのです。

私達イエシュアを通して贖われた人が、イスラエルの神との関係にある証拠、根拠、土台、そして神との関係にある人々の生き方はどこに書かれていると考えていますか?そして、神は、イエシュアの贖い、子羊の血を信仰により受け取り義とされた全ての人、イスラエルの神の家族に加えられた人はどのように生きるのか、どの方法で教えていますか?

 

それらはモーセの五書の中に、神の教えの完全版として書かれているのです。神の記念日、祭りを通して教えているのです。

それらを、人間が削除、付け足し、変形する事を神が禁じている事を聖書から理解していますか?そして、福音書以降に記されている教えは、100%モーセの五書の教えの抜粋であり、預言書、諸書はモーセの五書の解説がほんの少し引用されて解説されているだけなのです。そして、福音書以降には、何一つモーセの五書に相反する、削除する、又は全く別の新しい神の教えなど1つも書かれていないのですが、あたかも新しい教えが

初めて人に伝えられたなどと勘違いしているのです。教科書の下巻だけを読んでも、分からないのです。

 

イエシュアが引用された、”人は神の口から出る1つ1つの言葉により生きる!”と荒野の中での40日40夜の最後に悪魔の大御所に、向かい対決した時に引用した”神の言葉”は何ですか?

申命記8:3を引用しているのです。イエシュアが語った言葉は100%モーセの五書=父の教えからの解説であり、当時パリサイ派の教育方法、彼らユダヤ人の世界では「例え話」を通して、モーセの五書の意味を一般市民に分かるように解説しているのです。

日本のお伽話のように、「カチカチ山」の教訓は何、「うさぎと亀」のお話の教訓は何?子供も聞いて分かるように、動物の世界を人間の世界になぞらえて話していますよね。

 

古代ユダヤ人の例え話も、当時のヘブライ人の世界にはたくさんありました。そして、それらの例え話に登場する、人物、物、農作物、事件全ては、モーセの五書の中に書かれた教えの真髄を伝える、意味ある人、物になぞらえてその例え話が作られているのです。

異邦人でも、ユダヤ人でも神のものとされる事実には違いはありません。その手段〜救いの方法も1つ、時代を超えて、人種を超えて同じ!聖書に記された事実のこの理解が絶対に不可欠なのです。異邦人の世界の教えでは時代により人種により、神の救いや教えが違う、有効、無効、賞味期限、有効期限があるなどという人が編み出した教えを信じて伝えていますが、それは聖書ではありません。ユダヤ人と異邦人の違いは、ユダヤ人は、アヴラハムを通して全世界の民族の祝福の源、全世界に福音〜神の言葉、教えを伝えて、全世界が神の伝える生き方を同じように知り、同じように祝福を受ける代表者としての役割を与えられたのです。そして、同じようにイエシュアを信じた異邦人も同じように正しく神の教えを伝え、信じるだけではなく、実際に生きることを通して人生を歩み、地の塩、世の光としての役割を担っているのです。

その代表者は、アヴラハムであり、神が”信仰義認”という事実を

与えた、それは、神の一方的贈り物、犠牲、贖いの代価を払い

与えたものであり、その事実は永遠に取り去られないものです。

アヴラハムの契約は、神が一方的に切り裂かれた動物の間を通った事でも神だけが責任を負っている事を表しています。無償の代価を与えられた契りの印は「割礼」です。

代々子孫に約束され継承されている「印」です。

だから、人は自分の努力で”義”とされ、神の元に戻る事は絶対に

出来ないのです。子羊の血の購は一方的な神の業、ギフトだからです。自分の努力、これをクリスチャンは律法主義などと言っていますが、神の言葉を古代は生きて”義”とされる事などあり得ないのです。本当に聖書を勘違い、読み違いしているのは、人の考え付いた神学教理、思想で聖書を曲げて歪めているせいです。

この違いをよく考えて、はっきり明確に区別した理解を持たないとならないのです。

義とされる事は人間には出来ない!誰一人自分を救い出せる人、

贖いの代価を神の前に支払う事は出来ない事、これをアヴラハムの契約で教えているのです。

でも、この後が問題なのです。クリスチャンの世界で教えられるのは、「信じるだけでいいんだよ〜」その意味は、神の前に義とされ、新しくされ罪許され聖霊を受けるという事は、信仰により受け取る以外にない!その事を言っているのでしょう?救われた人は、その後、神が伝える生き方を理解しないまま、「信じるだけでなにもしなくてよい、なんでもしてよい」又は「人間の作った宗教の教えを生きてればよい」と勘違いしているのです。

それでは、野生に生まれた狼に育てられる赤ん坊と同じです。

 

どういう事かというと、信仰義認は無償の代価です。信じて受け取るだけです!でも、神の記念日、イスラエルの歴史、出エジプトで、子羊の血の代価で命びろいし、子羊の血の代価で罪が覆われて、そして物理的にも奴隷の世界から出て、そして”イスラエルの神のものとされた”これ、神の記念日、過越、シャヴオートと全部重なり繋がっている福音の中核なのですが、その後人はどう生きるのか?がごっそり抜けているのです。宗教の教えは教えられても、神が教える教えを伝えらていない。なぜ?律法は廃れたなどと言い続けて、神の教えを蔑ろにしているからです。

 

そして、これから来るシャヴオートでは、花嫁とされた人の生き方を神から伝えられる、これが婚姻契約書に記されている神との関係にある証拠、神の子らの神の中、神の家の中、神の家族の一員として個人でコミュニテイ全体で生きる内容全てが書かれているのです。神の子らとされる事は、信仰により受け取るだけ!

でも、花嫁とされた人は、神が伝える生き方を生きるという、

花嫁になった人への条件付き生き方が神から伝えられているのです。

アヴラハムの契約と、モーセの契約は違いがある事を知らないとならないのです。

 

シナイ山での契約は、花嫁にされた人達に与えられた条件付き契約!だから、もしあなたが神に近づきたいなら、神との関係を

保ちたいなら!その条件は、神が伝える教えに徹して生きて!この神の契約の中心が大分無視されているのです。神のいう事を無視した生き方は、夫を無視して生きるのと同じ。自分定義の生き方や自分定義の聖別は神の前には意味不明、意味なしなのです。

 

しかも、花嫁とされた人達、神との関係の中に入った人達の契りを神が結んだ印、証拠は何?と神が伝えていますか?婚姻契約です。クリスチャンが律法で無用と解説する、神が与えた永遠の婚姻契約を与えられていること、それが神との関係にある証拠、土台であり、人は神の子とされたら、神が伝える通りを生きよ!と教えられているのです。婚姻契約を捨てたら、それは神との関係の土台、根拠を捨てて生きる事なのです。

そして神が人と婚姻契約を交わした印、証拠は何と書いてありますか?

クリスチャンが無効と言っている「シャバット」です。結婚指輪と同じ、目で見える印を神は契約を結ぶたびに与えているのです。モーセの契約は、全ての契約を網羅しているのです。

 

この部分をクリスチャンの世界では、削除、端折る、一部分だけ取り出す又は無効、関係ない、無用!と教え続けている事が

神の教えとは真逆、神の教えと全く反している事にまるで気が付かないまま、神の言葉が終了したので律法=神の教えを捨てる事が、まるで正義のように語り継がれているのです。

 

それは、律法=古い教え=モーセの五書に記された教えを捨てる行為こそが、キリストの十字架の贖いを受け入れて生きる新しい生き方だ!と聖書に書いてない事〜人間が4世紀に編み出した宗教の教えを、神の教えだと聖書に書いてもない事なのに、本気でそれが新しい時代のクリスチャンの生き方だと信じて、実際にそのように行動しているのです。

 

大体、不適切な翻訳が聖書に対してされている事を認識されていない大問題があるのです。神の教えや言葉を指して「律法」などと書いてある言葉は実は1つも聖書には存在しないのに、便宜上、その不適切な言葉を使い語り続ける。教会」という本来のもとの言葉をまるで反映していない翻訳造語も異邦人が作った創作語であるのに、便宜上浸透しているから使い続けて誤解を生み続けているのです。本当の言葉は「律法」トラー」であり、「神の言葉、指導、インストラクション」という意味です。

そして「教会」は、「カハール、エクレシア」=「群れ、集会」と創世記〜マラキで訳されている言葉を、福音書以降に教会と

いう聖書に存在しない全く別の翻訳用語、言葉にすり替えてしまったこういう間違いを、元の本当の意味に戻して理解を完全に訂正しないとならないのです。

神の伝える教え=真理に反対する人には、その意識、変えられる余地はない事が、聖書の中にたくさん記されています。

このようにたくさんの不適切な誤訳、聖書に無い言葉や、聖書に書いてある言葉をごっそり意図的に削除している英語の翻訳版や違反は横行しているのです。これは英語版でごっそりある言葉を抜き取って切り捨てている違反もある、これは別の記事に書きます。

何を信じようとそれは個人の選択ですが、聖書に書いてない事をあたかも書いてある〜神の言葉が時代ごと人種ごとに変わり、神の救いの方法は2000年前後隔てて変化した、聖霊は人のうちに使徒2章以降初めて住まうようになったなど、聖書ではない事を聖書の事実のように語るのは一切やめないとならないのです。気がついていない場合は仕方がないけれど、気がついた人は真実を語らなくてはならない責任を負わされているのです。

イスラエルの神に対する偽証を、神の言葉で弁明する。

 

人の意識や概念は30%以上の人が真実を語り始めると変化します。世間に浸透した偽仮説が嘘である事に気が付くには、大衆の意識が変化することから始まるからです。

 

今1世紀以上に更に多くのユダヤ人、特にイスラエルに住むユダヤ人たちが”メシア”を発見しています。イスラエルでヘブライ語聖書を教えられたイエシュア信者たちがヘブライ語で正しいイエシュア、聖書に記された通りのイエシュアを同胞の人々に伝えているからです。

本物の聖書に記されたイエシュアは、変化しません!昨日も今日も永遠に同じ!そしてイエシュアの教え=父の教え=モーセの五書=婚姻契約に記された神の子らの生き方は人種により時代により変化しません!正しい聖書=神の言葉に書かれた意味通りを

伝えられなくてはならないのです。異邦人が語るよう7変化の神汚れでも何でも一緒くたにするような生き方を教えるのは、

イエシュアではありません!イエシュアはシャバットはいつでも良い、ないがしろにしてもよい、人が決めれば良い、その日は第七日目から日曜に変化した、異教徒と同じような生活習慣を生きても良い!汚れたものも今は汚れていないなど、そんな嘘など付く、いい加減な事を教える神は、イスラエルの神ではないからです。

世界は最後1つのイスラエルの神の名=実態に戻る!1つ大家族になる!と預言されており、その大家族は神の教え=トラー=婚姻契約=モーセの五書に記された神が創造されたオリジナルの人=イエシュアの生き方をする!それが新しく更新されたエレミヤ31で語られた、「誰も主を知ろう!」と言わなくても皆頭脳に

イスラエルの神=イエシュア=トラーに記された教えが刻まれている状態になっている、それがイエシュアが過越の祭りの晩餐で再更新された、「イエシュアを救い主として知っている=体験的に知っている人たちと契る、新しい契約=中身はモーセの五書に記された婚姻契約を再更新する!」と言ったのです。

 

しかも、聖書を完全なる神の言葉ですと言いながら、聖書に書かれた事とは違うことを信じて行動しているのか何も不思議にも思わないのはどうしてだろう?と疑問を質問を神の言葉を目の前に見て、考え、自分に質問して考えることは大事です。

 

シャバット=第七日目を神が聖別し、神の記念日全部を聖別し

神の子ら、どの人種でも同じ日に呼び出していると伝えているのに、その神の言葉は頭脳に今全く響かないのはなぜ?

 

神の言葉は今耳に音声では聞こえません。でも、神の言葉を読む

イコール神が今音声は聞こえない神の声、言葉の実態を文字で直接語りかけている事実を考えてください。どうして、神が語る言葉が全然響かない、他人事に聞こえるのか???それは「人の教え」という分厚くて「邪魔な耳栓」をしているからです。目には「盲目睡眠マスク」がつけられているから、書いてある神の言葉が永遠に真実、変化などしない気がつけないだけのです。

 

Shabbat Shalom