先ず、過越〜子羊の血で贖われた、その人達は、もれなく全て
以前は偽の主人に繋がれた奴隷であった、その鎖を切り取られ、
神の聖なる民とされました。イスラエルの神の家族とされた人は、人種時代に関わらず、全て皆天に属する聖なる国民であるのです。
だからパウロも「聖なる民、聖徒たちへ」と書簡の冒頭に、主の群れに対して「聖なる民という宛名」で書いているのです。
地上にいながら、信じた一人一人、今までとは違う歩みをする、人生の旅路に導き出されたのです。それらが荒野の旅路、40年の間約束の地に入る迄の歩みで表されています。
荒野〜「ミッドヴァ」荒野は「ダヴァル」言葉という意味が入っているのが「荒野」を表す言葉です。私達もれなく全て、イスラエルの神を信じる人は、神の声だけを聞き分ける訓練の場所=この地上の人生の旅路に導き出されたのです。
イスラエルの荒野、この場所は地理的にとても不思議な場所です。何キロ離れていても、犬の鳴き声や、ラクダが歩く足音まで聞く事が出来る、とても不思議な場所です。
出エジプトし、スコテを通り、そして「葦の海=紅海」の水の間を通り、神の声だけを聞いて生きる場所、荒野に導き出されてきました。
このエジプト脱出からシナイ山に到着する期間は、過越の祭りからの7週間の出来事なのです。
過越からシャヴオートまでの全てのその出来事は、私たち一人一人が地上の人生でイエシュアに贖い出されて、荒野に導かれ、主の中に、主が内側に住まい歩む、地上の歩み、福音の中核と全部ピッタリマッチしています。
聖書の記述をよく読み、よく考えてみてください。神の祭りは
この地上の歴史の事実に沿って、永遠の中から、最初から神が
創造されている聖別されている記念日、祭りなのです。
神の記念日、祭りの唯一の完全版はレビ記23章に記されています。それは神が言われたとおり永遠に変わらず、今も今日も有効であり、神が神の子らを呼び出しているほんものの主の日=神が聖別された呼び出し日です。
神の暦は、神が創造された記念日を神と神の子らで祝うように教えているものです。
そして、神は、神の暦の聖別された記念日を神の子らと共に祝う時に、神は神の子らと特別な方法で出会う事をしようと約束して下さったのです。神が創造され聖別された記念日は、神の暦の中で神が人に伝えています。今も有効な神の呼び出している記念日は人間が変えて、終わり!と言っても、神の側では変更していない事実を知れば、それが何を意味するか分かるのです。
神は今日、神の記念日、週一度のシャバットに全ての神の子らを
全世界中から呼び出して一緒に祝うよに教えているのです。
神がイエシュアの業福音の中身を教えるために創造された祭りです。
神の記念日は全て実際に生きて福音の中身を体験し、学習するように神がデザインされ創造されたものなのです。
この過越からシャヴオートの祭りの7週間の間に、復活のイエシュアが弟子たちに表れ出たのも、この期間なのです。
全てが7が中心のテーマなのです。
この7週間は、過越の祭りの7日間の真ん中で「初穂=大麦の初穂を捧げる日」を祝う復活の命を祝う記念日から、シャヴオートまでの今の時期は、「穂を数える週」というものなのです。
「ペサフ=過越から7回のシャバットを祝ってシャヴオートの祭りを迎えるのです。
申命記16:1 あなたはアビブの月(第1の月)を守って、あなたの神、主のために過越の祭を行わなければならない。アビブの月に、あなたの神、主が夜の間にあなたをエジプトから導き出されたからである。
神の祭りは全部、「収穫」にまつわる記念日です。それは、私達一人一人、神の子として再び生まれ変わった。その生まれ変わった事実、新しくされた人〜イエシュアを通して神の元に戻り新しい命を頂いた事を、神は、「初穂」を通して教えています。
呪われたと神が言われた大地、そして私達自身は呪われていません。そしてその呪われた大地から、イエシュアの贖いの血で、新しくされた命が芽生え出て、成長して行く。その最初の「初穂」が神の前に捧げられるのが、過越の初穂の祝い日であり、イエシュアの命に繋がれた新しい命を表し、その命が大地に根付き成長して行き、やがて熟す事でも教えているのです。
初子、初穂、全部イエシュアに繋がる新しい命〜福音を教えるために神が人に記念日を与えているのです。
神の祭りの中には、福音の要素が全部、そしてたくさんの教えが詰まっています。
神の祭りは、全部収穫の祭りなのです。だからイエシュアの言葉も教えも、収穫をめぐり教えられています。この収穫、祭り、
詩篇1にあるように、一年を巡る「神の命のサイクル〜記念日から記念日〜収穫から収穫」で、新しい命の成長、最後の収穫は、歴史の最後の集大成である、神の子らが全て集められる事、
1年の終わり、秋にすべて作物の収穫が集められる事で表しているものなのです。
過越の時の捧げ物は、初穂〜大麦でした。そして新しくされた人を表す「種無しパン」を食べて祝う7日間であり、パン種が入るものを一切食さない7日間を過ごすのです。パン種があるものを食べない7日間を過ごしたのです。太古は、パン種は、前に作ったものがパンをこねる器などに残してあるので、そこから次の
パンを作るのです。
詰まり、新しくされた人は、今までためていた「以前のパン種〜ズレた要素」がイエシュアにより一層されたので、前年、それ以前、今までのパン種を取り入れながら生きる生き方に、決別する事を、教えているものです。
罪が削がれた人を、実際にマッツアを食べて自覚し生きる強化週の7日間です。
そして、2024年は、6月11日火曜日夕暮れに来る「シャヴオートの祭り」がありますが、これは小麦の収穫、初穂を捧げ
るです。もちろん、今神殿が無いですから、神の祭壇に実際に初穂を捧げる事は出来ませんが、このシャヴオートの時は、最良の小麦に種無しパンではなく、種を入れたパンを捧げるのです。
イエシュアの命を与えられた新しい人にされた事を表されているものでもあるのです。
新しくされた人がこの7週間、過越で出エジプトした人達も同じように、7週間、イエシュアが処刑されて7週間、次の収穫の祭り、シャヴオート(ペンテコステ)迄の期間を過ごした、それは新しくされた人を意識して成長する過程を実際に学んで生きる
強化週間なのです。
祭りを迎えるとは、その祭りの準備をしますよね。祭りの準備をするとは、その事をいつも考えている、祭りの意味を考えている、又は誰かとその事を話したりいつも神の教えが頭を巡る状態になっているのです。シャバットは全ての祭りの中心であり、
シャバットは神との関係のある事実に対して与えられた「印」
生きて学び表現し祝い神と特別な出会いを約束されている、神が聖別された日なのです。神が聖別されたシャバット=止まる日は、1週間の中では第七日目だけです。今は安息日は何曜日でも良いと言っているのは異邦人が考えた神の言葉、教えとは異なる思想に過ぎません。祭りは、曜日に関わらず、スタートと終わりの日はシャバットと同じ様に止まり祝う日です。
いつどこで集まろうと、礼拝しようとそれはその人の自由でありフェローシップは大事ですが、それが週一度の第七日目、神が
定めた聖別された記念日でなければ、「普通の日」に集まっているのです。他の記念日、祭りも神が暦で伝えたとおり、伝えたものを代々永遠に祝うように神が人に教えているのです。
第七日目の別の日を安息日などと呼ぶのは、間違っている事なのです。ヘブル4:9にも、第七日目の安息日以外の安息日はないことはっきり書いてあるのです。クリスチャンの世界では、聖書に書いてある通りに読まないように教えられますが、それはもうやめなくてはならないのです。寓話、例えではなく、神の聖別された呼び出し日は変更などされていないという簡単な基本的な事実を正しく読み取らないとなりません。それには人の思想で聖書を読んでいるという事に気が付く必要があります。神の意図通り、
書いてある意味通りに聖書を読み直す再学習が必要なのです。
聖書に何と書いてありますか?神の言葉を否定する、変形する、神の言葉に別の教えを混ぜる混ぜ物、改ざんするのがエデンの園のあの声なのです。
イスラエルの神の声、言葉、教えではないのです。
聖書とは違う事を伝える事、それは真実な情報伝達をしていない事なのです。
神の呼び出していない普通の日には、イスラエルの神は人が集まる様には呼び出してはいないのです。この違いが聖書の記述に基づき理解する、分かれば良いのです。
人間が決めた日を人間が聖別できるならば、それでは神の聖別された意味は消えるのです。区別がない。人間主体になる。人間が神になり変わる。
1週間の生活は神の定めの記念日、シャバットを中心にプランし生き、意識はいつもシャバットに向かってある。
シャバットでも、祭りでも、人はいつもエルサレム〜神の家を
考えて意識している、それはイコール、私達はイエシュア、天の家、神の家族として生きる事をいつもいつも意識させている、
神の教育ツール、デザインはまことに賢いと、うなることばかりなのです。
それ以外にも詳しく説明する必要がありますが、戸口のメズサ、
衣のふさ、割礼、髭、etc etc etc目でみて直ぐに思い出すことの出来る、「天の聖なる民」として生きる事を、常に思い出して生きる、神の教えを思い出させる印を神が人に与えたのです。
信号機や標識と同じ、見て直ぐ意識を呼び戻し、思い出させる
印です。
シャバットは、神との関係、婚姻関係に入っている「印」結婚指輪を神が人に与えたものです。これは実際に覚えて生きて祝い
神と皆で特別な出会いをする日として神が設けられたのです。
シナイ山のシャヴオートで、文字として記されて与えられた婚姻契約の「印」です。それ以前にシャバット、祭りはあったのです。
それまでは、イスラエルという正式な国家、国民としての存在はない、アダム、ノア、アヴラハムなど、個人個人に口頭で神のトラーを祭りを教え、そして口頭で伝え続けられたのです。
でもシナイ山では正式に、ヤコブ=イスラエルという1つの民族が、神の聖なる民の代表としての国家が形成されたのです。
そして、その中には、「異邦人」も同じイスラエルとして加えられ、数えられていた!という意味が何か、それは異邦人もイスラエルの神に戻ったら、もれなく異邦人もイスラエルとして数えられているという事実を神が教えているものなのです。
神の子らに与えられた、神との関係が永遠である証拠の印として
シャバットを与えたとあるのです。だから永遠に代々に祝われるわたしの記念日と神が言われて、ユダヤ人だけの記念日など聖書には書かれていないのです。
シャヴオートは、贖われ、救われた人が、今度は神の花嫁、神の国の大家族の一員として生きる事をはっきり婚姻契約提示、結婚式を通して教えられる祭りなのです。
過越の晩餐で毎年行われる、種無しパンと4つのワインの杯で
表される、出エジプト6:6−7のテーマがあります。
1 導き出し 2救い 3贖い 4聖別された神の民となる
どうしてこのシナイ山で与えられた契約が婚姻契約と分かるのかが書かれています。
出エジプト6:7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神
翻訳では見えないという事がよく分かる良い例でもありますが、ここにある「取って」と書かれている言葉はヘブライ語では、「ラカ」日本語にすると、「夫が妻を娶る」という時に使う言葉なのです。
神の記念日、シャバット、新月、そして祭りの全ては福音の中核、要素、イエシュアの業、地上でこのように春の出エジプトで起きた出来事の預言的祭り、シャヴオート、そして未来にイエシュアが再臨される一連の内容、私達聖なる民が永遠に神の中、
神と共に住まう事を、秋の祭り、ショーファーを吹く日、大贖罪日、そして仮庵の7日の間の祭り、プラス最後の第8日の単独した祝いで表されているのです。
続く