過越の祭りの7日間は、4月29日月曜日日没で終わりました。
過越から、7週間、次の都上りのシャヴオート(ペンテコステ)の祭りまでは、日々穂を数える週であり、この期間に復活の
イエシュアが弟子達に現れました。穂を数えるとは、初穂復活のイエシュアに連なった人達が成長する過程を表しています。神の記念日の祭りは全て収穫にまつわる教えです。最後は神の子らが集められこの世の時代が終わるのです。
神の記念日は全部1つで繋がっています。
どれか一つだけを取り出して祝うデザインを神はされていません。神の記念日は、神が神の子ら全員を呼び出して、神の招きに応答する人達は、神の呼び出しの記念日を祝うのです。
代々、永遠に祝われるわたしの記念日と神が言われ、これはユダヤ人だけの記念日などではないのです。
ユダヤ人だけの記念日と誤解、錯覚するのは、異邦人は神の記念日を国を上げて祝わない、個人でも祝わない、ユダヤ人だけは
祝うから、そう勘違いしているだけなのです。
イスラエルの神は、ユダヤ人だけの神ではなく、全人類、全世界を創造されたお方である事を考えたら分かると思います。
人は土(アダマ)から造られて、アダムから全人類が出現したから、1つ体で繋がっているのです。
だから、アダムとハヴァが神の言葉を無視して、神から切り離された場所に飛び出て死が入り込んだのは、二人の間だけではなく、同様に創造から遥か遠くの私達、今もその罪=ズレ=神の言葉を無視して生きる代償が影響している事でも理解出来るでしょう。
私達は、人が考えついた教えを生きていても気がつきません。
宗教は、純粋な神の言葉=教えではないと気が付かないのは、
長い年月、教えられ続け多くの大衆により支持され、維持され、継続され
継承されているから、分からない、いや神の言葉が分からない、
神の言葉が永遠で変わらないという事が分からないから、照らし合わせる対象が、神の真理=言葉ではなく、人が編み出した宗教の伝統の教え=神の言葉の方を曲げて否定する教えに照らし合わせるから、何が真実か分からないだけなのです。
真理は、真理に照らし合わせて初めて理解出来るものであり、
嘘に照らし合わせても真理が何かはわからないのです。
だから神の言葉を曲げる代償は多大であり死に匹敵すると神が
警告しているのです。私たちの為に。
さて、今日はシャバット。この日の日没が神が創造された週一度の呼び出し日であると、異邦人は認識していません。
なぜ?人の教えに照らし合わせて、神の言葉が終了し、絶対
永遠不変と実際には信じていないから、人の編み出した伝統の
教えや習わしが、神の真実だと誤解しているのです。
神は人に神の言葉や、記念日を変更する権利など与えてなどいません。
もし与えたとするならば、神は神ではなくなり、神は絶対的権威はなく、人がどの様にも神の言葉、教えを塗り替えて良いならば
それこそ真理は存在しなくなるのです。絶対的基準が無くなり人は迷いでます。
神の言葉を曲げる、神のデザインを曲げる、神の創造のデザインを破壊するLGBTQも、神の教えが廃れたという教えも全て裏にあるのは、サタン=悪霊なのです。
今ユダヤ人の中で霊的覚醒が起きています。多くのユダヤ人が
”メシア”とは何か、ネットで調べ、イスラエルに居るユダヤ人達も続々とメシアである、彼らの同胞ユダヤ人のイエシュアに出会っています。
異邦人は、同様に聖書に書いてある通りの、永遠不変、昨日も
今日も、永遠に変わらないメシア イエシュアを語り、神の教えを生きる事に同様に戻る必要があるのです。
イエシュアはユダヤ人であり、モーセの五書=父の教え=婚姻
契約に記された本来の人間の生き方に戻る事を地上で実際に教えて、モーセの五書を生きたのです。
神ご自身の言葉を否定し、終了し、モーセの五書とは違う教えを生きる事を教えるのは、偽メシアであり、聖書に記されたイエシュアとは違います。この事を聖書から気が付く必要があります。
私達は偽物、嘘ではなく、神が伝える真実、真理を神の言葉が
意味する通りに人に伝えて生きる事を神から教えられ、命じられているのです。
都上りの祭りで、歌われたのは、詩篇120–134 です。都上りの歌です。祭りとは何?福音を網羅する、生きてイエシュアの業を
追体験する事なのです。
都上りの祭り=神の3大祭り 都=エルサレムの神の家に上って祝う祭りです。
祭りを絵画で見るだけでも、福音、修復が見えます。
1つ場所=神の家。1つ家族が全世界から集まり、1つ神の中に
引き寄せられている事実を皆で祝う!皆が1つにされる、戻る。
天の現実、天の神の家の姿を地上で表されたものが神の家。
そして一人一人が神の宮なのです。だからパウロが一つ体とトラーに記された事実を語ったのです。
春の過越、それに続くシャブオート(ギリシャ語でペンテコステ)そして秋の仮庵の祭り都上りの3大祭りでエルサレムに各地から上る時に歌いながらエルサレムに向かった時にこの詩篇を歌ったのです。
ユダヤ人の賛美歌の本は、詩篇なのです。
そしてクリスチャンの間で”この日は主が造られた”と歌われて
いる賛美は、実は”過越の祭り”の日を指して歌っているのです。
それは詩篇118章にあります。
聖書の中に”主の日” ”この日”などと感謝、賛美しているものは
神の定めの日、記念日、祭、レビ記23章に記されている祭の
事なのです。ランダムな不特定の普通の日を指して書かれているのではないのです。
ユダヤ人の友人が救われてイエシュアに出会った後、家族でいつもの年の様に過越を祝った時に、セーダー晩餐の儀式の中で読む詩篇の箇所を読んだそうですが、その時に詩篇118章この日=過越の祭りの日、イエシュアの事を歌っている事に始めて気が付いて感動が止まらず涙が溢れ出るのを止められなかったと言いました。
ユダヤ人はイエシュアを分からないまま神の祭りを祝いますが、
でもイエシュアに出会ったらその祭の中心、フォーカスは実は
イエシュアであった事に気がつくのです。
ユダヤ人なら分かる。イエシュアに出会えば分かる。
そう福音は1つ。同じ1つの福音。別々の福音は無い。
神の言葉の全てはイエシュアを指している。
そして神の記念日の全てはイエシュアのされた業を表しその事実を皆で喜び祝うために主がこの記念日を造られたのです。
天からの直送、天に直結し属する本物を取り戻そう!失って
しまった本物!イエシュアが与えて下さった本物を祝おう!と
今世界中が戻る事をしています。
同じ1つの家族に別々の記念日を、神は造られてなどいないのです。それが聖書の事実なのです。
神が創造された”わたしの記念日”と神が紹介されたそのオリジナルを永遠に祝うように神がデザインされたものを神の子らは
人種に関わらず1つ家族として祝うように神が教えているのです。
イエシュアが再び来られたら全世界はシャロームで神の記念日を
祝うために国の首相がエルサレムに上ると預言されている通り
今この場所でこの時この日に神の造られた記念日、イエシュアの
記念日を心から感謝して、神の家族が1つとなり喜び祝いたいと思いませんか?
詩篇118
1恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
2イスラエルは言え。慈しみはとこしえに。
3アロンの家は言え。慈しみはとこしえに。
4主を畏れる人は言え。慈しみはとこしえに。
5苦難のはざまから主を呼び求めると主は答えてわたしを解き放たれた。
6主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。
人間がわたしに何をなしえよう。
7主はわたしの味方、助けとなって
わたしを憎む者らを支配させてくださる。
8人間に頼らず、主を避けどころとしよう。
9君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。
10国々はこぞってわたしを包囲するが
主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。
11彼らは幾重にも包囲するが
主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。
12蜂のようにわたしを包囲するが
茨が燃えるように彼らは燃え尽きる。
主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。
13激しく攻められて倒れそうになったわたしを
主は助けてくださった。
14主はわたしの砦、わたしの歌。
主はわたしの救いとなってくださった。
15御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。
主の右の手は御力を示す。
16主の右の手は高く上がり
主の右の手は御力を示す。
17死ぬことなく、生き長らえて
主の御業を語り伝えよう。
18主はわたしを厳しく懲らしめられたが
死に渡すことはなさらなかった。
19正義の城門を開け
わたしは入って主に感謝しよう。
20これは主の城門
主に従う人々はここを入る。
21わたしはあなたに感謝をささげる
あなたは答え、救いを与えてくださった。
22家を建てる者の退けた石が
隅の親石となった。
23これは主の御業
わたしたちの目には驚くべきこと。
24今日こそ主の御業の日=<過越の祭りの日>
今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
<過越の子羊となって地上で天の中に永遠から既に備えられて
存在している贖い、救いの姿を地上のエルレムでも祭りの時に見せて証明して下さった日。>
25どうか主よ、わたしたちに救いを。
どうか主よ、わたしたちに栄えを。
26祝福あれ、主の御名によって来る人に。
わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
27主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。
祭壇の角のところまで
祭りのいけにえを綱でひいて行け。
28あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。
わたしの神よ、あなたをあがめる。
29恵み深い主に感謝せよ。
慈しみはとこしえに。
世界の四隅各地から1つ場所、神の家に1つ家族として集まり
神を中心に喜び楽しみ主の記念日を祝う。
1つ神の中に引き寄せられる。