過越の祭り 種無しパンの7日目の最終日 シャバット | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

6年ぶりの日本の春を家族と親戚と友人と過ごして、十分恵みを

頂いて過ごした貴重な毎日でした。

特に家族より親しいほどの長年の主にある友人宅で、まるで天国に居るように、友人のアバ主にある愛で大いなるもてなしと、

楽しい交わり、そして十分くつろがせて頂いて、色々な所に行き綺麗な桜をたくさん見て、たくさん話して心も体も癒されて日本を出発しました。

今は別の国に住む子供の家に滞在して、その後帰路に着きます。

 

用事もたくさんあり、記事が余り書けませんでしたが、過越の祭りなので、過越の祭りの一連に関する記事をアップしています。

まだ過越の祭りに関する記事が残っていますが、今日は、過越の

最後の日の種無しパンを食べる7日目で、今日の夕暮れまで

シャバットなのです。そして、これからシャヴオートの祭りに

向けての、穂を数える7週間の間にいるので、次の祭までの中、過越からの回想をしていきたいと思います。

 

神の祭りは、全部繋がっています。

その中心がシャバットなのです。神のシャバット、安息、神の

デザイン、神が創造されたすべての中で生きること、エデンの園に存在していた生き方に戻ることを、記念日を通して、祭りを通して、実際に生きて学習して教えられるからです。

そして、これらは全て、メシアの再臨、私達が天の国に入れられる準備期間の過ごし方でもあるのです。

 

その中身は、イエシュアの修復の業です。福音は、神の記念日の

中で教えられているものであり、それを日々生きて、学び、この

地上の歩み〜荒野の40年で表されている神の声、言葉を聞いて

生きる再学習の旅、それは実際に私達主に連なる一人一人の人生の地上での旅路を表しているものです。

 

そしてやがて約束の地に入る、神と顔と顔を合わせて会う日迄を

表しているものです。

ミシュカン=移動式神殿、仮庵は、イエシュアを表し、同時に

イエシュアが内側に住む私達の体を表している、神の宮である

人の生き方を教えているものです。

だから、朽ちる体〜仮の移動式神殿は、約束の地に入れば、固定式神殿に変わることでも教えられているのです。朽ちる体でも既に神が内側に住まわれている事を、契約の箱=神の臨在が存在する事実、メノーラ〜イエシュアの光、これがなければ、ミシュカンの中は真っ暗です。そして、ミシュカンの中に置かれる様々なもの、臨在のパン、ミシュカンに入る前の水が入る盆,24時間7

日間、神の火で焼かれるコルバン、etc全て

福音の事実を表しています。

 

今日は、過越の祭り、種無しパンを食べる最後の日で、この日は神の暦では、シャバットなのです。

今日は月曜日、週の第2日目ですが、祭りの最初と最後はシャバットとして、止まる日で祝い始まり、終わるというのが神の記念日のデザインです。イエシュアが言われた記念日を異邦人の世界では誰も語らない、生きない、祝わないのです。

 

過越の祭りの初日から7日間種無しパンを食べるというのが

創造主の教えです。

 

私達、異邦人は、聖書=神の言葉、神の教えが伝える人の生き方の事実から遠く離れて、人が作った教えに移行してしまいましたが、その事に多くの人は気が付いていません。黙示録2:4にある”はじめの愛=神の婚姻契約に記された生き方から離れた!”

と忠告されている通りの事が起きたからです。

でも同時に多くの異邦人も聖書に記された神が伝える永遠の事実に気が付き、目覚め、神の言葉に戻って生きる軌道修正をしているのです。この様な事は、以前の歴史の中で起きていなかった事です。

同時に、多くのユダヤ人も、1世紀の時代よりももっと多く、

今日々イエシュアに出会っている事が起きているのです。

そして、1週間程前に、イランが歴史上初めてイスラエルに直接的攻撃を仕掛けてきました。奇跡的に99.9%のミサイルを阻止したそうです。でも、南部のベドウインのイスラムの少女が爆撃で怪我をし亡くなってしまったそうです。

 

種無しパンを食べる週は、過越の祭りの初日から始まります。

過越の祭りは、エジプトを脱出した事を教えているのです。

これは、人がイエシュアに出会い、贖われ、救われた事実を表している、影です。実際に、イスラエルは、エジプト脱出で命を

奇跡的に保存されました。その中には異邦人も居て一緒にエジプトを脱出したのです。

10の災いの意味を又、載せますが、その全ては、偽の神々の呪縛からの解放を表しています。全て私達の贖い、救い、信仰の旅路を表しているものが、神のデザインされた記念日で表されているのです。

話が前後しますが、エステル記ではイスラエルを殲滅する事を

ハマンが計画しました。それは、救い主が地上に出現する事を阻止するサタンのプランでもあったのです。でも神はそのハマンの策略からもイスラエルを救い出しました。

そして、その事実の裏にある鍵を握る国は、イランです。

ペルシャで起きたハマンのユダヤ人全員殺戮はの裏にあるのはイランです。

ペルシャ=イラン、その舞台背景は既に存在していました。

 

どうしてイスラエルを攻撃?そうです。救い主が出現する事、

救い主のプランが実現化する事を阻止したいからです。

でも、サタンは同時に自分の最後を知っていて、無駄な抵抗をし続けているのです。そして多くの人達を自分達の側へと引き寄せています。

サタンは、神のデザインを破壊する、人間を破壊するものです。LGBTQもサタンのプランです。神のデザイン、人を破壊するものだからです。

 

さて、話が飛びますが、一旦見聞きして来たお教えを横に置いて、聖書に書いてある事実だけに戻る必要があります。

なぜなら、この2000年の長い歴史の中で、神の純粋な言葉の中に人の教えが混ざり込み、宗教と言う教えと体勢が出来上がってしまったからです。

嘘に真実を照らし合わせても、真実が見えないから、真実=神の言葉だけに照らし合わせて、何が嘘=聖書には書かれていないものなのか、人が作った教えであるのかを、見分ける必要があるからです。

聖書に書かれているのは、1000%生粋の神の言葉であり、

西洋宗教の教えは書かれていません。

今日の夕暮れで、種無しパンを食べる7日間が終わります。

この週の体験、印象、感想などを少し話してみたいと思います。

 

神の教えはある人には愚かに聞こえるとあります。

 

「十字架のことばは滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。」1コリント1:18

 

滅びると聞くとクリスチャンの世界では、即座に地獄行きと考えますが、書いてある意味は、異なるのです。

これは説明が必要なので、又解説しますが、神の家族としての親しい交わりの中に入れない蚊帳の外に追い出される事でもあるのです。なぜなら、破壊を持ち込むものを家の中に入れたら危険だからであり、当然の事なのです。

ここにある滅びるとは、破壊、死、失う、悪、崩壊、消滅すると言う意味です。

詰まり、パウロが書いた言葉は、神の言葉を捨てる行為は、それら滅びに匹敵するという事を話しているのです。そして、神の言葉を愚かしくし、要らないものとし、不必要、廃れたという教えは、まさに、滅びに至るサタンの策略の上に知らない間に乗っかる危険があることを教えているのです。

だから、よく分からなくても、神の教えのどんな箇所、内容でも

それを捨てるように、忘れて良いものであると教える教えは

聖霊から出たものではない!と神が教えている事に意識を向ける必要があるのです。

クリスチャンは、律法主義と、神の言葉=トラー(律法と訳されてしまっていますが)を混同しています。

律法主義とは、自分の手柄で、救いを得る、又は、神の前に認められるための手段として、何かをする事です。これは神の言葉

トラーを否定している多くの人が律法主義的生き方を、知らない間にしているのです。

神が永遠に〜しなさいと1度言われたらその意味は変わりません。もしも、聖書=神の言葉は絶対であり変わらない、権威があると宣言するならば、その人は同時にその宣言に矛盾した行動をしたら、ずれていると気が付かないとならないのです。

神の言葉は永遠、絶対と言いながら、どうして古い箇所が終わりなどと言っているのか、何も意味を考えていないからです。

しかも、聖書は福音書以降は、全てモーセの五書の短い解説であり、イエシュアはモーセの五書=父の教え以外の新しい変形された教えを1つもしなかったと、聖書を読みながら全く気が付いていないからそのように考えているだけなのです。

 

よくよく考えて下さい。イエシュアが最後の晩餐〜これは過越の祭りの晩餐であり、クリスチャンが行わなくなった神の記念日です。この晩餐の時に、弟子達に、色々遺言しました。

1世紀、聖書に登場する人達、聖書に書かれているのは、純粋な神の言葉であり、そして、神の記念日、レビ記23章に書かれている記念日を祝っていたのです。

イエシュアが、弟子達を集めて、そして、裏切って脱落したユダが去った後に、再更新される、新しい契約!の契りをしたのです。

この意味が見えないと思いますが、契約の儀式には印が伴うのです。

1ノア 虹(LGBTQの印にされていますが大冒涜です)

2アヴラハム 割礼

3モーセ シャバット(第七日目の神の記念日)

4イエシュア 過越の祭りでの種無しパンと葡萄酒

 

異邦人は知らない、イエシュアを信じながら知らない、神の記念日で毎年祝われる春の最初の記念日は、過越です。

この祭りは7日間、種無しパン=新しくされた事実を祝う記念日なのです。その週の中に子羊の血で贖われた新しい命、復活の命呪われた大地が、子羊の血で清められ、新しい命=イエシュア=初穂に連なる人達、イエシュアに繋がれた人を表す初穂を祝う日を神が最初から創造されているのです。その初穂がこれからどんどん成長する7週間が穂を数える週であり、その週の間に復活後のイエシュアが弟子達に現れ出たのです。

よくよく聖書からだけ考え続けて行けば、神が伝える真実が見えて来ます。

私達は、代々永遠に神の創造された記念日を祝いなさいと教えられています。昨日は、カトリックやプロテスタントでは復活祭から5回目の日曜礼拝としていますが、神の暦では違います。

 

イエシュアがされた、過越の晩餐の中での儀式は、過越を祝う

一連を知る人達なら理解出来ます。

クリスチャンはパン種ありのパンで、過越を祝わず、日曜礼拝というカトリックの記念日に、過越の晩餐でイエシュアがされた儀式をしますが、オリジナルに戻れば見えます。

種無しパンは、マッツアであり、マッツアは、罪が削ぎ落とされた事を表すものなのです。だから、イエシュアがそのマッツアを

取り、これが「あなた方のために砕かれたわたしの体である。」という意味が分かるのです。マッツアは、必要な材料以外入っていません。小麦粉と水です。そしてマッツアはお煎餅みたいに乾燥しているので、砕く音も聞こえます。過越の祭りでは、パン種除去をする様に教えているのに、パン種が入るパンを取り入れてしまっては、神が教える重大な意味が抜けています!

パン種〜罪を表すものだからです。

そして、食後の杯とは、4つの杯、出エジプト6:6−7にある

メッセージ、導き出し、救い、贖われ、神のものとなるという

4つのメッセージが背後にある4つのワインの杯、そしてイエシュアが取られた杯は3つ目の杯〜贖いの杯と呼ばれるものです。

このような背景を知らない、教えられない、神の創造された記念日、イエシュアが代々永遠に祝って、そして過越の祭りを祝うたびに皆で祝って思い出してと言われた遺言を捨てたのが人間が作った教えなのです。

その事実は、常に皆でシャバットが来るたびに思い出すものでもあるのです。だから、シャバットでは出エジプト、贖われた人達に与えられた印である、シャバットを祝うたびに、イエシュアの業を思い出すのです。メシアを知らないユダヤ人も、神に贖われた事実を同じように思い出しシャバットを祝います。

いつか皆がイエシュアを知ることになる日が来て、皆で1つの意識で神の記念日を祝うと預言されています。

 

そして、イエシュアが言われた”新しい契約”とは、エレミヤ31章の契約〜モーセの五書、シナイ山での契約です。これを多大に

勘違いしているのです。別の契約が出現した!いや、別の契約書など事実存在していないでしょう。新約聖書とクリスチャンが言う箇所は、モーセの五書以外の別の新しい教えなど実は1つも書かれていない、しかも契約書ではない、完全版ではない、単なる神の言葉の短い抜粋まとめ編なのです。

人が神の言葉を曲げて、変えて、別物の教えが出現したと考えている、それは聖書ではない、神の言葉、教えではない、その事に

気がつき始める場合には、真実に戻る、元に戻る軌道修正を

初めて出来る戸口に立てるのです。

 

 

続く