2番目の質問
なぜ他の日には色々な種類の野菜を食べるのに、この夜はどうして苦菜を食べるの?
答えは大人が聖書から用意しています。
苦菜は、奴隷でエジプトに住んでいた時に舐めた苦渋を表しています。そして偽物の神に仕え、本物の創造主に繋がらない。
本物の命=まことの命を生きられない、本物の自分のID神の子である、神のエッセンスを頂いた姿をフルに生きられない不自由な
奴隷であったことを思い出すためなど、聖書から答えを用意して
起きます。
3番目の質問です。
一晩中、一度も浸さなかったものをその晩は2度します。
そこにないもの、浸す物=この言葉は、食べ物とは言ってないのです。今晩、”2回浸した”と書かれてあります。
出エジプトの話をみると、2回”浸す”と言う言葉があります。
ここで、何を言っているのでしょうか?
へブル語では浸すと言うことの意味は、食べ物を浸す事を言っているのではないのです。
クリスチャンの言葉ではイマージョン=バプテスマです。
浸す=パプテスマ、一度も浸水していない、2つの浸水を考えるのです。
この出エジプトの出来事を考えると、2つ浸させる=浸水とは
聖書で何なのでしょうか?
第一番目、紅海です。水には触らず、濡れないまま、
エジプトから水が別れてその間を通って行ったのです。
そして、エジプトから、完全に決別、別たれたのです。
救いです。一瞬にして、私達は購われたのです。
何度も何度も繰り返されない ただ一度限りの事です。
次の浸すは3つの段階があります。
1 エジプト 奴隷
2 荒野で、テスト、試されて主の声、言葉を聞く
3 聖別、分離、その後、約束の地での祝福。
出エジプトをした。エジプトから離れて、エジプトをもう二度と見ないのです。紅海を通り、それでもう終わり、完結。
パウロが、1コリント10章で話している、モーセに付くバプテスマの事はその事です。
エジプト=サタン この世の闇が切り離された事を、パウロが
言っているのです。この世の闇の力=サタンの力、支配から私達は神により解放された事です。
出エジプト 14章
2つの場所 そこに置かれた事を考えるのです。
1番目の場所ピーハヒロート=自由への入り口
2番目の場所 バアルツフォ-ン バアール= カナンの神
バアル ツフォ-ン=北、北の人々、隠された北の神々、カナン人の神、隠されている偽物の神はそのうちすぐに姿を現す。
2つの場所の間で、イスラエルは宿営させられた。
神が選択を与えられたのです。
海を渡る前に、購われた人々に、選択肢を与えたのです。
ここ本当に考えて見る必要があります。
全部が自動的なのではないのです。
何故なら、私達は自由意志が与えられているからです。
聖書の至る所に書かれています。
命=神を選ぶのか、死=神以外の声を選ぶのか?
ユダヤ人、そしてその中には、異邦人もエジプト人も居た事を
知っていますか?あの10の災害で、これはイスラエルの神に
付いて行くべきだと決断した異邦人達がいたのです。
ピーハヒロト=自由への口、自由の身になり、主に付いて=主の声、トラー=神の教えをそのまま受け取り、聞き、自由に解放される事を選択するのかしないのか。
”わたしに付いて来なさい。そうすれば、あなたは自由になる。
海を渡らず、私の声を聞かないなら、あなたの中の異教の神々に縛られたまま、奴隷のままになる”のです。
神が忠告した事です。あなたの体はエジプトから出たけれど、
”エジプト”=苦しい、狭い、悲しみがまだあなたの中にある。
記憶の中にある。
死んだ古い人の中にそのエジプトがあるのです。
あなたの記憶の中にまだ残っているエジプトの性質。
新しい人=マッツア=要らない罪が削ぎ落とされた人に中に
ではないのです。
古い人の、思索、行動パターン、記憶が新しいパン種なしの生地に、ずっと影響を与える可能性があるのです。
カナンの地に来たら、奴隷になる、隠れた、北の神=
バアールツフォーンの奴隷になってしまうのです。
選択権は 私達にあるのです。これ聖霊に導かれたら全ては自動的と勘違いしてはいけません。
あなたは、自分で今日何時に起きるとか、何を食べるか、会社に行くとか行かないとか決めたでしょう?
誰かに、優しい言葉をかけるのか、それとも切り刻む様なひどい言葉を言うのか、それは全てあなたの選択、自由行動ではないのでしょうか?それと同じです。
奴隷の時の姿=死んだ人=罪人のままで生きるのか、
それとも修復されて購われた”新しい人”の姿で生きるのか?
自分の自由意志で、神の声を聞き続けるのか、
それとも、神の声=トラーを拒否するのか選択するのでは
ないのでしょうか?ここを、混同すると、神が言われる事と
違う教えになってしまうのです。
全ての考え、行動は自分の側にも責任があるのです。当然です。
これが分らない場合は、聖書が言っている事が全然分らなくなると言う事なのです。
人は神が操作するリモコンで自動コントロール操縦されるのではないからです。
イスラエルは、紅海、エジプトと分かたれたのです。
目に見える形で 分かたれたのです。
この神の約束後での、本当の新しい人として生きる、
人生が用意されているのです。救われた後にです。
そして荒野で 神の声を聞くことを学ぶのです。
自分の本当の姿=マッツア、他者の本当の姿=マッツア
そしてお互いの本当の姿、声、心を神の目から耳から
聞く訓練を共同体でさせられたのです。
そして神のただ中に=エデン=天の中に修復されてその現実を地で生きるように訓練されたのです。
約束の地に行くために、荒野を去らなければ、約束の地に着かないのです。
頑な頭脳=古い人のまま 奴隷の意識のまま生きる人達は
主の訓練を受け取れず皆荒野で死に絶えたのです。
荒野に長くとどまるのは、良くないのです。なぜなら、私達は、そのようには、造られてはいない、祝福の地に入るのです。
この地上にいながら、祝福の地に入るのです。
その前に、ヨルダン川に浸水されるのです。
2番目の浸水=バプテゾーです。
テーブルの真ん中にマッツアを3つ重ねたものを置いてカバーを
かけます。真ん中のマッツアを二つに折って、その折れた一つを
大人が部屋のどこかに隠して、後で子供に探しださせるゲームをします。それには意味があるのです。
続く