皆で食事をしながら、出エジプトの中にあるように、子供たち
にこの質問を、してみるのです。誰も居ないで、一人で
過ぎ越しをする人も、自分で回想、考えてみるのです。
1 今夜はどうして他の夜と違うのでしょう?と言う質問です。
他の夜は、どんな種類のパンを食べてよい。パン種が入って
いる、パンもなんでも食べてOK。しかし、この過ぎ越しの
祭り晩の、晩餐には、種を入れないパン=マッツアを食べ
なくてはいけないと、神が言われたのです。
神がイスラエルの子達、そしてこの中に異邦人も居て、一緒に
エジプトを出たのです。彼らに向かって直ぐに、エジプトを
出る準備をしなさい!今晩エジプトを出るのだ!旅が始まる!
荷物を詰めたら直ぐに、家を出るから、食べ物を詰めなさい。
パンを発酵させている時間もない。パン種を入れないパンを
食べるのです。この脱出劇の事件の裏にあった事情、歴史的側面からの答えです。
マッツアは 基本的な材料しか使っていないパンです。
お店に行くと、ちょうどクラッカーのようになっていて
フォークで指した穴がぶつぶつあいているのを見ます。
マッツアは何でできているのでしょうか?
小麦粉と水、それだけです。酵母は余計なものです。
マッツア=へブル語 ”そがれたもの”と言う意味。不必要な
物が、濾されたと言う意味。不純物、不必要な物が、全て取り除かれて濾されたと言う意味です。
エジプトに居る時は、本当は必要では無いものだらけであった
わけです。神の声も、聞く事も妨げられて居た地に住んで居たのです。
エジプトを出たら、不必要なものは、この時点で取り除かれ
たのです。聖書にある内容は、全て私達全人類に対しての
教えなのです。神の手で私達はマッツア=不必要なものが、
濾された状態になったのです。新しい人にされている事は、
始めから書かれているのです。アブラハムに伝えられた
一方的に義とされている事実と同じです。
何故なら、完了の業の中に、既に修復された私達が
用意されているからです。永遠の時から。
1コリント5章パウロが使っている、驚くような素晴らしい言い方で書いてある言葉に注目してみて下さい。
パウロはトラーから全てを語っているのです。
パウロがコリントの地で、異邦人の信者に語っているのです。
彼らには罪がある。罪は、パン種と同じです。
その罪=パン種を取り除きなさい。
なぜならあなたは、すでに”マッツア”であるからだと書いています。あなたは 種なしのパンであると書いてある。
あなたのパンの生地はもうマッツア=パン種がない状態、
元の姿、新しい人であると書いてあるのです。
マッツアなのだから、古いパン種=罪を取り入れ続けては駄目だそれはあなた=マッツアのする事ではないと言っているのです。
私達のイエシュアにある姿、修復された姿が書かれているではありませんか。新しい人=元の姿=マッツアのパン生地=種=罪が取り除かれた姿であると、書かれているのです。主により新しく造られたもの、不必要な物が、全部取り除かれた存在であると、書かれています。
私達は、自分の感覚や、感情に絶対に頼ってはならないのです。
神の言葉に100%立つ事を知らないとならないのです。
神がそう言われたら、そうだとそのままを受け取るのです。
それを受け取って、その真理に留まり、考え続ける人はそれが、真実だと言う事を、発見、体験して行く事が出来るのです。
そうでないとするなら、全ては絵に描いた餅。寓話です。
神の言葉は命そのもの、生きている。
新しいパン生地になった後は、成長という面では肉、古い人の
記憶、生まれた日から学習して来たこの世の思考回路、行動パターン、ズレの行動、思索、行動と、常に取り組まなくてはならない面は残っているのです。
でも、私達の本当の姿=マッツア=罪が濾された姿=IDは現実のものなのです。それを信仰により、受けとる人は分るのです。
体験するのです。新しい人で生きる世界は古い人で生きる世界、領域とは全然違うものであること。
そして、それこそ聖霊に満たされて、新しい人の歩みをする事を体験するのです。
それを否定する教えは本当に大きな覆いなのです。
聖書は、全て、新しくされた人の事実を前提に読む事が書かれています。だから肉の目、耳、頭脳には理解し難く分りにくいのです。
自分の中に、それが体験的に,理解出来ない場合は、只の律法主義、自分で頑張ってやっても駄目な世界と受けとる。
沢山失敗して、その度に敗北感を感じて行くだけです。
でも、全然未知の領域=新しい人=神の中=聖霊のにどっぷり
浸かり=バプテゾー、生ける水の中で生きれる人になっている
世界があるのです。現実にです。
その領域は、信仰により受け取り、生きて見ないと分からない
世界と神が言われている。体験しなければ分からない。
以前の罪人、死んだ自分の部分が、聖まり、成長するのでは
ないのです。イエシュアと共に死んだ以前の自分は修復不可。
だから古い自分はイエシュアとともに永遠に決別、葬られたのです。死んだのです。元に修復された現実はそのままです。
私達は、新しい人の中に、神の義に生きる訓練をされて、その中に成長するのです。この違いは、新しい人を、本当に、発見しないと、語れない、理解出来ない、世界です。よくよくゆっくり
神が語り伝えている事実を考え続ける必要があります。
マッツア=種無しパンを食べる時、キリストにあって私達は
どういう存在になっているのかと言うこと、それを思い起こすのです。
キリストご自身が、マッツアであるのです。
罪が取り除かれた存在になった私達は、キリストの内に存在する、新しく造られたものです。神が私達の中に住まわれ、私達も神の中にある現実は義=聖なるもの=新しい人のID以外では存在出来ないようになっているのです。
許され続ける罪人と言う教えは、この世エジプト、闇の王国の支
配にまだ繋がれていると言う意味になってしまうのです。
まるで、半分棺桶、半分天国に片足ずつあると言っているのと
同じです。
私達は、神の中に既に新しい人として、修復されているのです。
私達は、マッツアです。私達の主人はこの世を造られた王の王、
主の主、この方が、永遠からある完了の業=十字架の血潮の業により、闇の王国の支配者の手から私達を買い戻して下さったと聖書に書かれているのです。
もう鎖はちぎられて、新しい主人=神の手にすっぽり神の中に戻っているのです。ですから”許され続ける罪人”とは聖書に書かれていない人間の教えです。
この救いは、この世の一番の強者、エジプト=闇の王国=サタンの王国です。ここから私達を引き出して下さった事から、この出エジプトの旅が始まるのです。
聖書に記述されている事は、全部私達と繋がっています。
私達もかつては、この世=サタンの支配の下にあったのです。
そこから、救い出された事を思い出すのが過ぎ越しの
祭りなのです。
続く