過越の晩餐の流れ 6 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

セーダーの晩餐の中でする、伝統的な4つの質問の最後の質問です。

④ 今晩は、夜通し座って横になりながら食べる。

一体、何の事を言っているのでしょう?横になるスタイルで食べると言うのは、何を語っているのでしょうか?

1世紀第二神殿の時代は、イエシュアが居られた時代は自由人も、金持ちも祝宴のテーブルに来ても、現代のような椅子に座らなかったのです。
床に枕を置いて、肘をついてゆっくりする。
金持ち自由人のスタイル。女の人も同様にそうするのです。

私達が見ている”最後の晩餐の絵”は西洋人の思想 思考回路で
描かれている事が分ります。

事実を知らないまま、想像で最後の晩餐を描いたのですね。
西洋式テーブルに座っているからです。それは事実とは違う事です。
とすると日本人の座敷でごろんと出来る様な感じの、低いテーブルの方がその時代のスタイルのテーブルにピッタリです。

座敷宴会。それに近いです。
イエシュアの時代もそうだったのです。
過ぎ越しの晩餐でも3面にリクライニング方式のテーブルに付くのです。
ローマ人はそれをトライ クリニアムと呼びます。

3面リクライニング方式の床に面してマットを敷き、枕をもって寝転びながら食事をするのです。楽チンで良いですね。

2つのテーブルが繋がっていてその配置、過ぎ越しの食卓はその角にいて真ん中を見る、左と右の角は”名誉な場所” 日本で言う上座的な場所なのです。仕える人は他の角に座るスタイルです。

福音書に 過ぎ越しの祭り3辺に曲がったテーブルに座っている様子が記されていますが、そう説明できます。
 

イエシュアがされた“過ぎ越の晩餐”をされた時、ホールを借りて

イエシュアがその角に座り、右端に=ヨハネ ユダはイエシュアの胸の近く名誉ある場所についたのです。そして同じ器に浸して食したのです。
”それが私を裏切る者”とイエシュアは言われたのです。

”浸す器”は、2,3人で一緒に水が入ったボウルをシェアして

使っていたのです。
イエシュアの左にいる人、イエシュアの頭は左側にいる人 
ヨハネか、もう一人隣は、ユダしかないのです。
ユダの胸の近くにイエシュアの頭があったのです。
左の肘をついているポジションです。
ユダかヨハネしかそのポジションにいないからです。

召使が座ったこの夜イエシュアが手を洗った時、少し伸びをして水を取り、回りを行って、弟子一人ひとりの足を洗ったのです。

最後に来たのはペテロ。イエシュアが歩いてペテロの所に来たのです。ペテロは一番良い場所にいたのです。 
一番最後のテーブルの端、別の端はヨハネ。 
端と端が繋がり、お互い話すことが出来た場所です。

ヨハネか、誰が裏切るか?と話すことが出来る場所にお互いが

居たのです。イエシュアがペテロの足を最後に洗ったのです。 
ペテロは召使が座る場所に座っていたのです。

リーダーになる人は、仕える人にならなければいけないのです。
人の教えでは、ペテロはおちゃらけた、おっちょこちょいと
言うイメージを刷り込まれていますが、大変誤解しています。
パウロの関しても、同様に誤解の情報を信じ込まれて
居ますが。

ラビ イエシュアが、ペテロをタルミド ハハンとしたのです。
ラビと言う役割の場所にいるのです。
ラビと弟子の関係は、ラビがいて、タミド ハハンがいるのです。
ラビの一番優秀な生徒はタルミド ハハン=賢い生徒と呼ばれる

人物なのです。教師の右腕と呼ばれる人ですね。

Teachers' assistant.
ペテロは福音書の中ではその様な存在なのです。
クリスチャンの世界では誤解されていますが。ペテロは弟子達の中で一番頼りになる、最優秀生徒=タルミド ハハン。

グループの中のスポークスマンであったのです。

ラビが、タルミド ハハンに一番初めに質問するのです。
そして答えを一番最初にする事を課せられている。
ペテロは最初のSpokesmanになる。
人を率いる生徒は、他の人に仕える者になるのです。
これがどう言う意味なのか分るでしょうか。

”リクライン”=横になりながら食事をすると言うのはどう言う

ことか。今晩 リクラインして私達は神の王宮に住まう人身分である事を味わいます。高貴で裕福な人になると言う意味なのです。
実際お金はないかもしれないけれど、主に在り霊的には豊かであるのです。何も欠けのない姿、欠けはないのです。
自由人で金持ちのようにご馳走を食べるのです。      
”私達は裕福で実際は自由人なのである。”と言う事を思い出すために、例祭の時のために、十分の一を取り分けて置きなさいと

聖書に書かれています。

何故?皆が喜び楽しみ、普段食べられない飲めないワインをお酒を、最上の肉を食べ物を食べて、皆で分かち合い喜び楽しみ、

それを通して主がどんなに良いお方であるかを思い出すために 

と書かれています。

主は喜び、楽しみを通して、私達に教えて下さる出会って

下さるからです。

心は霊は億万長者であると言う事。後ひとつ、主をほめたたえる。ほかの主要例祭の時と同じ様に賛美を歌うのです。

そして残りの詩篇 115~118を読むのです。

福音書でイエシュアが部屋を去る時、賛美を歌ったとあります。過ぎ越しの晩餐の終わりです。
イエシュアはどれを歌ったのでしょうか? 
この詩編の歌を歌われたのです。イエシュアが私達の命のために、ささげられるためにほふられるために。

そして、最後の杯、四杯目の杯=主の中に受け取られている

事を祝福する杯を飲むのです。

 

続く